今日の『朝日新聞』の読書欄。「悩んで読むか 読んで悩むか」の欄、三浦しをんという作家が、なんと栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を推薦している。
私は、歴史を研究する者として断言するのだが、この人が書くある種の「評伝」は杜撰で、内容的にものすごく問題が多いのだ。その記述を追っていくと、栗原の思い込みと、対象とする人物、この場合は伊藤野枝だが、その人物の思考とが渾然一体となっていて(どこが栗原の考えでどこが野枝自身の考えなのか)、結局、栗原の思い込みに読者を道連れにするという、対象とする人物を曲解させる内容なのである。歴史的事実についても、きちんと研究していないので、不正確というか間違いが多い。
しかし売れるのだな、この本。
巷でPOST TRUTHやフェイクニュースということがば流行っているが、この本もその類いである。その栗原の指導をされたという梅森直之氏は、栗原康と栗原康現象とを分けて考えなければならないと語っていたが、たしかになぜこういういい加減な本が売れるのか、考えなければならないと思う。
現代人は、他者を他者として客観的に認識するのではなく、みずからの好き嫌いの感情、自分自身の感覚と共鳴しているものだけとつながろうとする傾向が強いのだと思う。
嫌いなものでも、実証的にきちんと書かれた説得的なものは受容する、というのではなく、嫌いなものには接触しない。しかし逆も成立する。自分自身の感情とあえば、それが実証的でもなく、あるいは虚偽(に近いもの)であっても、受容するという、おそろしく知性が軽視されている時代に私たちは生きているのだ。
栗原康現象とは、そういうものだと思う。というのも、伊藤野枝とはいかなる人物であるのかを、読者はおそらくほとんど知ってはいない。読んでいて心地よければ、それでよいのだ。書く方も、同じように心地よくスピード感をもって書きつらねる。
書く方と読む方が、心地よさで共感するのだ。しかし、その時に、伊藤野枝という人物は、実はどうでもよいのである。
しかし私は、伊藤野枝という過去に実在したひとりの女性を、主観的にではなく、客観的に捉えることこそが大切であると思うのだ。
私は、歴史を研究する者として断言するのだが、この人が書くある種の「評伝」は杜撰で、内容的にものすごく問題が多いのだ。その記述を追っていくと、栗原の思い込みと、対象とする人物、この場合は伊藤野枝だが、その人物の思考とが渾然一体となっていて(どこが栗原の考えでどこが野枝自身の考えなのか)、結局、栗原の思い込みに読者を道連れにするという、対象とする人物を曲解させる内容なのである。歴史的事実についても、きちんと研究していないので、不正確というか間違いが多い。
しかし売れるのだな、この本。
巷でPOST TRUTHやフェイクニュースということがば流行っているが、この本もその類いである。その栗原の指導をされたという梅森直之氏は、栗原康と栗原康現象とを分けて考えなければならないと語っていたが、たしかになぜこういういい加減な本が売れるのか、考えなければならないと思う。
現代人は、他者を他者として客観的に認識するのではなく、みずからの好き嫌いの感情、自分自身の感覚と共鳴しているものだけとつながろうとする傾向が強いのだと思う。
嫌いなものでも、実証的にきちんと書かれた説得的なものは受容する、というのではなく、嫌いなものには接触しない。しかし逆も成立する。自分自身の感情とあえば、それが実証的でもなく、あるいは虚偽(に近いもの)であっても、受容するという、おそろしく知性が軽視されている時代に私たちは生きているのだ。
栗原康現象とは、そういうものだと思う。というのも、伊藤野枝とはいかなる人物であるのかを、読者はおそらくほとんど知ってはいない。読んでいて心地よければ、それでよいのだ。書く方も、同じように心地よくスピード感をもって書きつらねる。
書く方と読む方が、心地よさで共感するのだ。しかし、その時に、伊藤野枝という人物は、実はどうでもよいのである。
しかし私は、伊藤野枝という過去に実在したひとりの女性を、主観的にではなく、客観的に捉えることこそが大切であると思うのだ。