窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

繊維リサイクルの歴史 【008】繊維工業の隆盛

2008年06月24日 | 繊維リサイクルの歴史
朝鮮動乱特需を第一のピークに、その後の日本経済は好況不況の波を繰り返しながらも発展の道を歩みます。そして世界史上空前の高度経済成長を遂げるのでした。

 そんな中、ぼろの相場は比較的落ち着いた動きで推移します。それは昭和30年ごろには早くも綿糸や毛糸の生産が戦前の水準に達したこと、化学繊維が急速に伸びたこと、さらに戦前にはなかった合成繊維の生産が加わったことなどにより、国内需要が十分に満たされてしまったためです。ご存知のとおり繊維工業は後に途上国の追い上げに会うまで日本の基幹産業として成長を遂げていきました。

 繊維工業が戦前の水準を上回る発展を遂げた昭和30年代、産業界の設備投資は次に造船、鉄鋼、電気、機械、石油化学などの重工業に移ります。そして昭和31年7月に起きたスエズ動乱をきっかけにいわゆる神武景気(昭和29年11月~33年6月)と呼ばれる好景気が訪れました。

 重化学工業の発展にともなってウエスの需要も伸び、ぼろの価格も上昇しました。この好景気を受け、労働集約的色彩の強い故繊維業界においてもささやかながら設備の近代化が図られました。近代化というといかにも大袈裟なのですが、例えばウエスの裁断がかみそりから電動カッターに変わり、選分ラインにはベルトコンベアが導入されるようになったという程度のことです。

 一方、ウエスの海外輸出も昭和27年ごろ再開されました。アメリカが日本産の良質な綿ぼろを欲しがっていたためです。輸出高は金額ベースで昭和29年には早くも1億円を突破し、以後昭和35年10億円、昭和40年20億円と昭和48年に第一次オイルショックが起こるまで順調に伸びていきました。このように故繊維業界も繊維産業をはじめ、鉄鋼、造船、機械、自動車など日本の高度成長をリードした産業と共に発展の道をたどっていきました。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【007】戦禍からの復興

2008年06月23日 | 繊維リサイクルの歴史
戦火が激しくなるにつれ、生活物資はますます窮乏して行きました。繊維についても、前回お話した綿製品にスフを30%混入する規制などは最早遠い過去の話となり、桑の皮などおよそ繊維と名のつくものは何でも混入するようになりました。毛織物に至っては犬や牛の毛まで用いられ、羊毛が一割でも入っていればそれこそ上等な毛糸として流通したのです。このように物資が底をついた上、さらに空襲が追い討ちをかけます。鉄くずと違い、ぼろや紙は空襲とともに灰燼に帰してしまいました。

 昭和20年、戦争が終わりました。ぼろの買い入れは自由になり回収したものを統制会社に売る仕事が再開され始めましたが、市中から回収されるぼろはとことん使い古されたひどいものばかりだったので、この時期の回収は軍需工場や占領軍の払い下げ物資を細々と扱っていたに過ぎませんでした。商工省は昭和22年、戦時中以来の故繊維維持特別回収を実施しました。この場合は戦時中と異なり民需のためのガラ紡原料確保が目的だったわけですが、故繊維維持特別回収は全国的におよそ一年がかりで実施され、これを機に戦前の統制時代に入る前の組合が各地で次々に再建され始め、岡崎などのガラ紡産地もようやく活気を取り戻しつつありました。

 昭和25年6月25日、朝鮮の三十八度線で戦火が起こりアメリカ軍を主力とする国連軍が参戦すると、最も近い日本がその出撃基地および物資の補給基地となりました。その結果、いわゆる朝鮮動乱特需が生まれ、日本経済と共に屑物業界も沸き立ちました。業界の中でこの好景気は「金へん、糸へん景気」などと呼ばれました。漢字で書いて「金へん」や「糸へん」のつくもの、すなわち金属や繊維が軒並み値上がりしたためです。既に好調だったガラ紡産地はさらに活気づき、特に「ガチャ万時代」と呼ばれました。「織機がガチャンと音をたてる度に一万円稼ぐのだ」という意味です。

 しかし昭和28年7月に朝鮮休戦協定が調印されると、業界は一転して大不況となり、高値を追って在庫を積み増ししていた業者は相次いで苦境に陥ることとなったのです。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【006】軍需景気で活況を呈するが

2008年06月22日 | 繊維リサイクルの歴史
昭和2年の金融恐慌、続く昭和4年の世界恐慌により故繊維業界も他の産業と同様、物が全く動かないという深刻な状況に陥りました。ところが昭和6年に満州事変が起こります。既にお話したように兵器のメンテナンスなどに欠かせないウエスですから、この軍需を受けて故繊維業界は一転して活況を呈しました。軍需で伸びたのはウエスだけではありません。ガラ紡原料は軍服やテント、毛布などに使われましたし、綿ぼろはセルロイド原料や火薬の原料になるなど、当時故繊維はあらゆる場面で活用されていたのです。

 その後、日中戦争に突入すると大陸での戦争は泥沼化の様相を呈し、次第に物資が不足するようになります。日中戦争の始まりは昭和12年の7月ですが、この年の12月、綿製品にスフを30%混入することが法的に義務付けられました。いわゆる物資統制の始まりです。

 物資統制はやがて国民の生活必需品である衣類にも及び、昭和13年4月国家総動員法が公布され、6月29日にはついに綿製品の国内向け製造販売が禁止となりました。このよう物資の極端な欠乏状態の中では自ずから手持ちの衣類を大切に使うか、あるいはリサイクルするしか方法はありません。しかし商工省の見解では禁止された綿製品はあくまでバージン原料である綿花を原料とする物とされていたため、これまで洋式に押されっぱなしだったガラ紡が再び脚光を浴びるようになったのです。バージンが駄目ならリサイクルというわけです。また繊維工業はやがて軍需を除いて不要不急の業種と見なされるようになり、また鉄資源の不足から多くの工場で洋式の機械がスクラップにされました。したがって、一般の国民生活を支える衣料供給は設備の面でもガラ紡に頼らざるを得なくなったのです。しかし昭和16年、太平洋戦争に突入すると、そのぼろでさえも不足するような状態となってしまいました。

 国家総動員法に基づく物資動員計画は国内のあらゆる物資を国が掌握し、それを戦争に使おうというものでした。このため昭和13年にまず商工省の指示で「廃品回収懇談会」が設けられます。当時の故繊維業界はイメージが廃品の盗品とだぶることもあってか、明治以来どちらかというと取締りの対象となる日陰的存在でしたが、その取り締まっていた国が一転して業界の把握に乗り出したのです。昭和14年になると、「活かせ廃品、興亜の資源」といった官製のスローガンが喧伝されるようになります。皮肉なことに取締りの対象だった故繊維業界は一転してお国のために奉公する存在となったのでした。

 しかし昭和15年から16年にかけて故繊維を含む屑物業界は商工省直属の統制会社の下に統合されることになりました。これに加われなかった問屋や建場は廃業に追い込まれ、大勢の買出し人なども仕事を失い、軍需工場や戦場に駆り出されていくことになりました。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【005】再生資源業界の成立と発展

2008年06月21日 | 繊維リサイクルの歴史
第一回でお話したように、江戸時代から屑物や古着、古道具などを扱う業者は大勢いましたが、いわゆる産業として一つの業態を形成するには至っていませんでした。これらがいわゆる「再生資源業」として成立したのは明治の中ごろから大正時代にかけてのことといわれています。そしてその再生資源業の黎明がぼろを扱う故繊維産業だったのです。当初の故繊維産業では、製紙原料、製糸原料、そしてウエスというのが三本柱で、これにともなって、ぼろを選分する業者、洗濯する業者、ウエスをカットする職人などさまざまな仕事が登場しました。

 特にウエスは第一回でお話したように昭和10年ごろには日本の主要輸出商品にまで成長し一大産業として活況を呈しました。話しはそれますが、ちょうどこの頃ナカノ株式会社の創業者である中野静夫も上記の三本柱に原料としてのぼろを供給する故繊維問屋としてその前身となる中野商店を興しました。昭和9年のことです。しかし陽気満つれば陰に入るというように、やっと第一次世界大戦後の不況をのりこえた昭和12年に日中戦争が始まり、だんだん時局が厳しくなるにつれ資源を扱う故繊維業界は必然的に軍事体制の一翼として組み入れられていきました。その前に次回はこの昭和初期から終戦までをもう少し詳しくお話したいと思います。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【004】反毛のはじまり

2008年06月20日 | 繊維リサイクルの歴史
 イギリスの産業革命が毛織物、綿織物から始まったように、近代化当初産業の花形は繊維工業でした。洋紙という全く新しい技術を入れなければならなかった製紙工業とは違い、繊維工業は諸藩で産業奨励が盛んに行なわれていた背景があるためか、まず国内における技術改良から発展しました。明治8年長野県の僧、臥雲辰致が独自の技術で綿紡績機を開発します。これは紡機を回すとガラガラと音がしたことから「ガラ紡」と呼ばれました。小型の機械ではありましたが、従来手で糸を紡いでいた時代に比べ生産性を数十倍から百倍も高める当時としては画期的な発明でした。もちろんそれ以前から慶応三年に島津藩が洋式紡績工場を建設したのを始め、明治5年には官営富岡製糸工場が開業するなど西洋の技術も導入されてはいましたが、「ガラ紡」は一人で扱える小型のものであったことから、伝統的な綿糸の産地にたちまち普及していきました。しかし明治20年ごろになると西洋式紡績工場も軌道に乗り、両者のシェアは逆転します。紡績の主役から退いた「ガラ紡」はその後、ぼろをもう一度綿状に戻して糸を作る地場産業(これを通常の紡績と区別して特殊紡績と呼びます)で活躍しました。さて、大正時代にはこのぼろを綿状に戻したものを原料として足袋底や帆布、じゅうたんに用いる緯糸などが生産されるようになりますが、こうしたぼろを綿に戻す再利用技術を「反毛(はんもう)」と呼んでおり、この技術は現在でも引き継がれています。

 反毛する素材としては木綿や毛など様々にありますが、反毛の始まりは木綿よりも毛織物が先で明治37年に始まったと言われています。毛織物は近代化に伴いまず洋式の軍服に始まり、羅卒(警察官)、郵便夫、鉄道員の制服、官吏(役人)の制服など官需が先行しました。当時西洋の服飾の中心は羊毛ですから、西洋化とはすなわち服飾において毛織物を大量に必要とするということでもあったのです。当然毛織物の原料である羊毛の国産化が試みられましたが、結果はことごとく失敗におわり、わが国は羊毛を海外に依存せざるを得ませんでした。そのため毛織物は大変貴重なものであり、一度使った毛織物からもう一度糸を再生する技術が必然的に発展したものと考えられます。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【003】ウエスのはじまり

2008年06月19日 | 繊維リサイクルの歴史
工場の油ふきなどに使われる布切れをウエスといいます。このウエスは英語で屑やぼろを意味する”Waste”が訛ってできた言葉です。余談になりますが、ベルベットのことを別珍(べっちん:現在ではひょっとして死語になっているかもしれません)といいます。これは同じく英語の”Velveteen”が訛ったものです。後に述べるようにウエスは明治末頃には早くも海外に輸出されるようになりますからアメリカ向けに使用される”Waste”という商品名が日本語化して定着したのも不思議はないといえます。

ウエスの原料は使い古された木綿布などです。なぜ油を拭くのに古布が好まれたのかといえば、洗いざらしの木綿は油分が抜け吸収力が良いからです。これは現在でも変わっていません。

さて幕末にはすでに洋式軍艦などが導入されていますので、すでに当時からウエスは使われていたものと思われます。しかしある程度まとまった需要が起こるのは明治10年代の半ば頃といわれています。日本郵船や大阪郵船など船舶会社の需要に始まり、やがてわが国の工業発展と並行してウエスの需要は伸びてゆきます。さらに日清・日露戦争がその需要に拍車をかけウエスは産業として成長してゆきました。日本が総力を傾けることになった日露戦争の時などはさすがにウエスの需要も追いつかず、やむなく新しい木綿布を裁断してウエスにするということもあったようです。

 40年ほど前まで温帯モンスーン気候で良質の綿素材に恵まれた日本のウエスは広く世界に普及していました。その輸出がいつ頃始まったのか正確なことはわかっていませんが、少なくとも明治末年にはアメリカに向けて輸出されたといわれています。

 輸出が本格化するのは、大正時代に入って第一次世界大戦後のことです。欧州を主戦場とする大戦により日本は戦争景気に沸きました。ぼろ業界も大いに活況を呈したわけですが、戦争が終わると一転して不況が訪れます。その打開策として、余ったウエスを海外に輸出しようとする動きが活発化したのです。ところが昭和に入るとウエスは一躍輸出商品の花形となり、昭和11年の統計では日本の輸出品目の第10位前後を占めるほどまでに成長を遂げます。こうしてウエスは製紙原料と並び当時の故繊維業界の主力商品となりました。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【002】ぼろを原料にスタートした製紙工業

2008年06月18日 | 繊維リサイクルの歴史
古繊維(ぼろ)、すなわち使用済みの衣類や布類は縫い物用として江戸時代にはすでに売買されていました。しかし、前回述べましたように当時はまだぼろの回収を専業とする人はいなかったようです。ぼろを専門に扱う仕事、つまり「業」が成立するのは明治以降、近代産業の発展にともなって量的にまとまった需要が生まれてからのことです。その最初の需要とは現在では意外に思われるかもしれませんが、製紙工業でした。

 明治初期、日本で初めて設立された製紙工場はその原料に木綿や麻のぼろを使いました。当初製糸工場が東京や京阪神など大都市近郊に集中していたのは、原料としてのぼろを集める必要があったからなのです。やがてわらパルプの混用が始まると製紙工場は地方に移転し始め、明治22年、最初の国産木材パルプ工場が静岡県気田村(現在の周智郡春野町)に建設されます。それでも明治36年ごろの資料によれば、ぼろパルプの使用率はまだ全体の20.5%を占めていたようです。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繊維リサイクルの歴史 【001】繊維リサイクルの歴史

2008年06月17日 | 繊維リサイクルの歴史
「リサイクル」というと非常に新しい、流行り物のようなイメージをお持ちの方も多いのではないかと思います。ひょっとしたらそうした過熱するブームに食傷気味の方も居られるかもしれません。しかし資源を再利用するという行為そのものは、実はわが国においては決して珍しいことではありませんでした。ご存知の方も多いと思いますが、江戸時代においては資源を再利用するということが生活文化として定着していました。生ごみはもとより、都市の糞尿にいたるまで肥料として再利用されていたのです。しかし近代化以前、それらはまだ産業と呼べる成長段階にはありませんでした。

 今でいうリサイクルを行なう再生資源業が成立したのは明治に入ってからで、近代国家の幕開けと共に始まりました。近代化は従前とは比較にならない資源投入をともないます、そこで廃品を回収し工場に原料として供給するという業者が現れたというわけです。これら再生資源業はまずぼろ(古着・古布)や屑繊維を扱う故繊維業者から始まりました。その意味で、日本のリサイクルは近代社会の幕開けと同時に故繊維、つまり布・繊維から始まったといえるのです。したがって故繊維業界の歴史を紐解くことは、日本のリサイクルの歴史をたどるということにもなります。これから連載する「繊維リサクルの歴史」では意外と知られていない日本の繊維リサイクルの歴史についてご紹介していきたいと思います。

注:『故繊維』とは一般家庭から不用品として回収される古着・古布の古繊維(ぼろ)と糸屑、綿くず、裁断くずのように繊維産業から発生する繊維くずの両方をあわせて『故繊維』と称します。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする