少し時間が経ってしまいましたが、タイ中部・アユタヤの遺跡群を見物してきました。これらは、この地を中心に栄えたアユタヤ王朝(1351年~1767年)の遺跡群です。中国、インド、そしてヨーロッパを結ぶ中継貿易で栄えましたが、1569年と1767年の二度にわたり、隣国ビルマの侵攻で陥落。第二次アユタヤ陥落の際、都は徹底的に破壊されたため、現在は無残な廃墟が残るのみです。以下、訪れた遺跡を時代順に沿ってご紹介したいと思います。
【ワット・マハータート】
ワット・マハータートは、アユタヤ王国を建国したラーマーティボーディー一世(1351年~1369年)が建立したとも、第3代パグワ王(ボーロマラーチャーティラート一世)が建立したとも言われています。ただ、寺院が完成したのはタイ三大王の一人、国技ムエタイの創始者とも言われ、救国の英雄である第21代ナレースワン大王(1590 年~1605年)の治世の時です。
話は逸れますが、ナレースワン大王については以前タイで制作された長編映画を観たことがあります。壮大なスケールで描かれた、アクションあり、娯楽性の高い作品です。
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遺跡の入口には、最盛期の寺院の模型があります。
中央の一際高い仏塔は、山田長政を重用したことで知られる第24代ソンタム王(1590年~1628年)の時代に崩れ、その後再建されますが、チャクリー王朝第5代王ラーマ五世の時代(1868年~1910年)に再び崩れました。仏塔は西洋建築とタイ建築が折衷したロッブリー様式と呼ばれる建物だったようです。
1767年の第二次アユタヤ陥落によって、この寺院も破壊されました。とりわけ仏像は中が金であると信じられていたため、徹底的に破壊されました。
ワット・マハータートのシンボルともなっている、菩提樹の根に覆われた仏頭。破壊され、打ち捨てられた仏頭がやがて木の根に覆われたものです。
【ワット・プラシーサンペット】
三代に渡る王の遺骨が納められた仏塔で有名な寺院です。第11代ラーマーティボーディー二世(1491~1529年)が、父である第9代トライローカナート王、兄である第10代ボーロマラーチャーティラート三世のためにまず東側の二つの塔を建立し、最後の三つ目はラーマーティボーディー二世自身の塔になります。写真を見て分かるとおり、他の遺跡と比べると、煉瓦を覆う漆喰の保存状態が良く、アユタヤ時代の建築を知る上での貴重な遺跡となっています。
ラーマーティボーディー二世の時代、ポルトガルがマラッカを占領。ポルトガル人がタイにやって来るようになりました。
【ワット・ヤイ・チャイ・モンコン】
寺院そのものは初代のラーマーティボーディー一世が修行僧の瞑想のために建立したものですが、シンボルともいえる高さ72mもの仏塔は前述のナレースワン大王がビルマとの戦いに勝利したことを記念して建立したものです。ビルマが建立したチェディ・プカオ・トンの仏塔(80m)に対抗して建てられましたが、実際にはわずかに高さが及びませんでした。
仏塔は上ることができ、煉瓦造りの石段は多くの参拝者による訪問のためか凹状に深くすり減っていました。この日はマーカブーチャー(万仏節)と呼ばれるタイの祝日で、頂上の仏像に多くの参拝者が縁起物である金箔を貼りつけていました。
1605年頃、アユタヤ王朝最盛期の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。
【ワット・チャイ・ワタナラーム】
1615年に大坂夏の陣が終結し泰平の世が訪れると、職を失った多くの浪人が海外に活路を求め、ここアユタヤにもやってきました。前述のソンタム王はそれまでのポルトガル傭兵に代わって、長く続いた戦国時代で戦いに慣れている多くの日本人傭兵を雇いました。またアユタヤの日本人町は貿易で栄え、一時は中国を凌ぐほどの勢力を持っていたそうです。
1629年、王位を簒奪した第27代プラーサートーン王は、日本人勢力の拡大を恐れ、1630年に山田長政を左遷(その後、毒殺されたとの説があります)、日本人町を焼き討ちしました。さらに日本側の海外渡航禁止政策も加わり、アユタヤにおける日本人勢力は衰退していきました。
ワット・チャイ・ワタナラームはそのプラーサートーン王が母のために建立した寺院です。カンボジアのアンコール・ワットに似ていることから、カンボジアとの戦いに勝利したことを記念し、アンコール・ワットを模して造られたという説もあります。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした