窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

名護屋城

2009年01月02日 | 史跡めぐり


  今回呼子に行ったもう一つの目的は、名護屋城址を訪れることでした。名護屋城は豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1592~1598)の拠点として加藤清正らに設計させた平山城で、関が原の合戦後廃城となり現在では石垣しか残っていませんが、当時は5層7重の大天守をはじめ大坂城に次ぐ壮大な規模を誇っていました。実際、城跡を訪れてみると予想をはるかに超えた規模であったことが分かります。全国の諸大名を動員して作った(割普請)とはいえ、わずか3ヶ月でこれだけの規模の城郭を築き上げたとは墨俣と小田原で二度の一夜城伝説をもつ秀吉の面目躍如といったところです。



  標高89mにある天守台。天守台の大きさは思ったよりも小さく、一昨年訪れた安土城天主台よりもかなり小さいと思います。



  しかしながら石垣の高さは上の写真の様にかなりの高さがあり、この上に5層7重の大天守があったとすると相当細長い、ノッポな天守であったであろうと想像できます。



  上の写真は狩野光信による『名護屋城図屏風』を参考に復元した名護屋城の模型ですが、やはり天守を見ると細長く作られています。



  天守台からの眺めは壮観そのもので、真下に遊撃丸と二の丸、その先に島津義弘や上杉景勝ら諸大名の陣屋が置かれた波戸岬を望み、さらにその視線の延長線上に写真では見えませんが対馬を望むことができます。仮に名護屋城天守閣の規模が安土城と同じくらいで地上45m、石垣が24m程度であったとすると、120m近い高さから当時眺めることができたはずです。ひょっとすると朝鮮半島を望むこともできたかもしれません。したがってここに大規模な城郭と天守を築くことは大陸を威嚇する意図も恐らくあったであろうと思われます。

  そもそも秀吉が博多ではなくここ名護屋を拠点にした理由はここの地形が天然の良好であり大型の船団を係留するのに好都合であったであろうということ、西にスペインやポルトガルの来航する長崎に近く、東は商業地博多に近い交通の要衝であること、朝鮮半島に最も近いことなど天守台に上って景色を眺めているだけで様々な戦略的意味を想像することができます。勿論これは個人的な推測に過ぎませんが。城跡を巡ることの面白さの一つは、地形からその城の置かれた意味に思いをめぐらすことにあります。



  遊撃丸。1593年、講和交渉のため来日した明の沈維敬が滞在するための居館が置かれ、彼が遊撃将軍と呼ばれていたことから遊撃丸と呼ばれるようになったと言われています。因みに沈維敬はこの時の欺瞞外交がばれ、秀吉による再度の侵攻(慶長の役)を招いた罪に問われ、4年後北京で処刑されています。



  二の丸。武器や兵糧などを蓄えた建物や番所があったと言われています。



  太閤井戸と呼ばれる、秀吉が茶の湯にも使ったと言われる井戸で現在も水が湧き出ています。しかし、この井戸は鯱鉾池と呼ばれる海岸線からそう離れていない堀の際にあり、名護屋城は規模こそ壮大であるものの、水の確保に城としては決定的な欠点を抱えていたことが分かります。『名護屋城図屏風』を見ても太閤井戸は城と城下町の境に描かれています。

  実際、三の丸にも井戸の跡は発見されていますが十分なものではなかったようで、名護屋城には「水手曲郭」というわざわざ雨水を貯めるための曲郭が設けられていました。当時は城の周囲3kmに諸大名の陣屋が120ほども築かれていたので、それらがある程度防衛線の役割を果たしたでしょうが、城自体は篭城戦に不向きであったと思われます。



  この他、場外の法光寺には秀吉自らが植えたと伝えられる桜や、



秀吉に御伽衆として仕え、落語家の始祖とも言われる曽呂利新左衛門が設計したと伝えられる庭が残っています。しかし残念ながらこの辺まで日没となり、名護屋城見物は終了となりました。 

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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