気がつけば、2年ぶりの史跡めぐり。ほとんど遺構が残っていないとはいえ、白い漆喰に瓦を貼った海鼠塀や唐破風・入母破風を多数施した装飾が美しい、石川県金沢市の金沢城へ行ってきました。
元々は加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊がありましたが、織田信長が一向一揆を滅ぼした後、重臣である佐久間盛政が金沢城を築きました。しかし、盛政は1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と共に羽柴秀吉に滅ぼされ、金沢城は前田利家に与えられました。現在の金沢城は利家と子の利長の時代に拡張されたものです。当時は五層の天守があったそうですが、1602年(慶長7年)の落雷で焼失してしまいました。その後、度重なる火災により、現在では石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫などを除き、遺構はほとんどありません。それ以外の建物は平成に入ってから再建されたものなので、まだピカピカしています。石垣も切り込みハギであまりにも綺麗に積み上げられすぎて、まるで国技館のよう。やや興覚めの感があります。
ただ金沢城の場合、度重なる修復や庭園などの美観を考慮して様々な石垣が作られたというのは事実のようです。したがって、様々な石垣を見るのも金沢城の楽しみ方の一つと言えるでしょう。例えば、上の写真は本丸の石垣で、自然石を積み上げた野面積みですが、
玉泉院丸庭園という庭園側の石垣は、成型した石を積んだ、切り込みハギや打ち込みハギと呼ばれる石垣になっています。石垣には石を運んだ、もしくは積んだ者を示す刻印があちこちに見られます。また、金沢城の石垣は戸室山から切り出した戸室石が使われていますが、この石垣だけは黒い坪野石を混在させています。これも「見せる石垣」であるためです。
玉泉院丸庭園。三代目藩主、前田利常による藩主の内庭です。その後何度か手を加えられましたが、心落ち着く非常に美しい庭園です。
色紙短冊積み石垣。こちらも玉泉院丸庭園側の石垣で、金沢城の中で最も成型された石が組まれた美しい石垣です。色紙とは方形、短冊とは長方形であることを意味します。これだけ隙間なく積まれた石垣であるので、上方には水を逃がすためのV字形をした石樋が見られます。発掘調査によれば、この石樋から落差9mに及ぶ滝が流れ落ちていたのだとか。
段落ちの滝。発掘調査で明らかになった、落差7m、四段の階段状に流れ落ちる滝を復元したものです。元々は先ほどの色紙短冊積み石垣から流れ落ちる滝の滝つぼが水源となっていたそうです。
2001年(平成13年)に復元された、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓。白い鉛瓦、唐破風、海鼠壁など金沢城の特徴が詰まった建物です。写真は三の丸側から見たものですが、一階と二階の格子窓が交互に並んでいるのが分かります。戦を考えた場合、石川門を突破すると三の丸に出ます。侵入してきた敵軍を迎え撃つにあたり、鉄砲の死角を無くすために豪語に配置されているのだと言われています。
ですから、敵の侵入の恐れが少ない玉泉院丸庭園側から見た三十間長屋の格子窓は、一階と二階で直列に配置されていることが分かります。
二の丸を守る内堀と石垣。こちらも2001年(平成13年)に復元されました。
金沢城といえば、こちらを目にすることが一番多いのではないかと思いますが、石川門側の菱櫓。塀の上部が反っているのが印象的です。
なお、有名な兼六園は、五代藩主前田綱紀によって城の外郭に作られた庭園です。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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