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続いて、同じ穹窿山にある「孫武苑」へ。現存する最古にして最も広く読み継がれている兵法書『孫子』を著した孫武がここに隠遁し、孫子十三編を著したと考えられているところです。
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ただ、初めに断っておかなければならないことは、孫武は史書にほとんど記述がないことから、実在したかどうか不明だということです。まして本当にここに隠遁していたかどうかは、伝説の域を出ません。1972年、中国山東省銀雀山で、前漢時代の墓より「孫子」の竹簡(竹簡孫子)が発見されました。しかしそれも、『孫子十三篇』と『孫臏兵法』が別物であったことが証明されたにすぎません。また、『孫子』自体も後代に書き加えられたり、順番が入れ替わったりしており、謎が多いのも事実です。その割には、巨大な資料館あり、博物館ありと随分大々的に観光地化したものだと思います。したがって、以降の孫武の記述については、あくまで伝説であることを前提として進めていきたいと思います。
因みに、上の写真の「兵聖孫武」の「武」の字が変ですが、ガイドによれば「武」の字を分解すると「二つの戈を止める」となり、「兵は国の大事なり、察せざるべからず」、「戦わずして勝つ」と兵書でありながら、不戦を強調した『孫子』に通じるのだとの説明でした。日本でも武道の世界で同じことを聞いたことがあります。即ち「武道」とは「争いを止める道」なのだと。しかし、「武」の「止」は「とめる」ではなく「足」であり、「武」とは、「戈(ほこ)」と「止(あし)」を組み合わせた象形文字です。もちろん、「戈を持って戦いに行く」というのが本来の意味です。ただ、説得力はあります。
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【孫武の時代の世界(クリックすると拡大します)】
孫武は今から約2500年前、春秋時代末期の人物。斉(現在の山東省)の生まれで、後に斉を乗っ取り王族となる田氏の出だとされます。その後、陳、孫と姓を変え、斉を出て当時の新興国、呉(現在の蘇州)にやってきます。すぐには仕官せず、ここ穹窿山に隠遁し『孫子十三篇』を著したとされます。
その後、呉の宰相であった伍員(子胥)に見出され、呉王闔閭に謁見。その才能を認められ、将軍として登用されます。将軍となった孫武は、柏挙の戦いの陽動作戦で大国楚を破り、余勢を駆って楚の都、郢城を陥落させるなど、才能を発揮しました。その後も呉の太子不差を補佐し、対立する越(現在の浙江省)を滅亡寸前に追い込むなど活躍したとされます(「臥薪嘗胆」の故事で有名)。
しかし、その後のことは全く言い伝えがありません。呉王不差は、越王勾践を破ったものの、その後、奸臣伯嚭の讒言などから功臣伍子胥を自決に追い込み、公子慶忌も誅殺、また勾践の謀略で中国四大美女の一人に数えられる西施に溺れるなどし、挙句勾践の反撃に遭い、呉は滅亡します。『孫子』(計篇)には、「将し吾が計を聴きて、之を用うれば必ず勝つ、之に留まらん。将し吾が計を聴かずして、之を用うれば必ず敗る、之を去らん」、つまり、「もし私の戦略を呉王が聴き入れ、私に将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮させるのであれば、必ず勝利する。よって私は呉国に留まろう。もし私の戦略を呉王が聴き入れないのであれば、私が将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮したとしても、必ず敗れる。よって私は呉国を去るであろう」という記述があることから、呉王不差に見切りをつけ、去ったのかもしれません。
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さて、孫武苑を中に入ると、茅蓬塢(孫武草堂)という庵があります。香港の企業家である方潤華という人から寄贈されたもので、春秋時代の生活風景が再現されています。
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同行していた同い年の中国人社長が、「自分が子供の頃もこんなだった…」と言っていたのが少しショックでした。
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智慧泉。伝説によれば、孫武は穹窿山で甘水を飲んで足が動かなくなり、この地で隠遁生活を始め、『孫子十三篇』を書きあげたそうです。
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有名な「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」(謀攻篇)の碑。よく見ると、毛沢東の書となっています。毛沢東の『持久戦論』からは、彼が『孫子』を深く理解していたことが窺われます。
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『史記』に登場する、有名な「孫子姫兵を勒す」の壁画。
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資料館には、矛・戈・弩・戦車・軍船といった春秋時代の兵器の模型が展示されていました。しかし、上の写真は山西万栄廟出土「呉王僚戈」とあります。呉王僚は、闔閭の前の王。まだ公子光だった闔閭は、無類の魚好きだった僚を太湖に誘い出し、食客の専諸を使い、僚に供した魚の腹の中隠した小剣(魚腸剣)で僚を暗殺ました。銘文には「王子干戈」とあります。なぜ呉から遠い山西省から出土したのか不思議ですが…
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こちら、我が家にある『孫子』の竹簡。もちろん、おもちゃです。
いずれにせよ、悠久のロマンを感じる楽しい場所ではありました。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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