2月7日、18年ぶりに沖縄の代表的な城跡である中城を訪れました。
中城は14世紀後半頃から、当時の領主だった先中城按司により数世代にわたって拡張され、その後琉球王府の命を受けて入城した琉球王国建国の功臣、築城の名手としても名高い護佐丸盛春によって現在の形になりました。
標高160mの丘に築かれた連郭式の山城で、西には宜野湾市と東シナ海を望み(写真左)、東には中城湾と勝連半島(写真右)を見渡すことができます。眼下の景色を見下ろすだけでも、ここが極めて重要な交通の要衝であったことが分かります。
1440年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。
1440年、琉球王朝(第一尚氏)の第三代尚忠王は、当時大きな勢力を誇った勝連按司の阿麻和利を牽制するため、重臣護佐丸に中城を与えました。入城した護佐丸は北の郭、三の郭を増築しました。
その護佐丸によって築かれた北の郭で美しいアーチを描く裏門。1853年、日米和親条約を締結したペリーの艦隊は、帰途に琉球へ寄港しています。その記録である『日本遠征記』は中城について、画家ハイネの挿絵付きで「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造技術は、賞賛すべきものであった。石は…漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった」と記しています。
ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫) | |
クリエーター情報なし | |
KADOKAWA/角川学芸出版 |
ハイネの挿絵に登場する表門(1998年撮影)。
実際、上の地図の通り中城が築城されたのは本土では室町時代にあたります。本土では以前このブログでご紹介した大野城や御所ヶ谷神籠石のような古代の山城以降、大規模な石垣建築が築かれたのはせいぜい元寇防塁ぐらいだと思われますので、当時の琉球は本土よりも高度な石垣技術を持っていたと言えます。
北の郭より三の郭を望む。沖縄の城としては高さのある亀甲積みの石垣が、見る者を威圧します。三の郭は新城とも呼ばれ、亀甲積みは石垣技法の中でも進んだ技法であることから、ここが後から増築されたことがよく分かります。
三の郭より二の郭を望む(写真左)。二の郭の石垣は布積み(豆腐積み)と呼ばれ、四角く成型した石を綺麗に積み上げています。また、中城のシンボルともいえる美しい曲線を描いた石垣(写真右)も二の郭で見ることができます。
二の郭に建つ「忠魂碑」。名前から推察するに、琉球王朝の史書『中山世譜』で忠臣とされている護佐丸を慰める碑でしょう。1458年、護佐丸は阿麻和利の讒言により謀反を疑われ、中城において自害しています。尤も、阿麻和利も護佐丸を除いた後、謀反を起こし首里を急襲しますが、王府軍によって滅ぼされています(護佐丸・阿麻和利の乱)。
【勝連城跡(1998年撮影)】
護佐丸が忠臣であったのか否かについては諸説ありますが、個人的な見解としては護佐丸も阿麻和利も、尚氏により意図的に除かれたのではないかと思っています。「走狗は煮られる」の諺通り、建国の功臣が排除されるというのは、どこの国でも良くあることです。
北の郭石垣に残る狭間。発掘調査により、中城からは石や金属製の弾丸が発見されています。火矢(ヒーヤー)と呼ばれる、明で開発された銃器が琉球にもあったと考えられます。
因みに、甲冑や刀剣は貿易により日本から輸入されたものが使われていたようです。勿論、明から輸入された武器も使われていたでしょう。
北の郭にある大井戸(ウフガー)。今も水を湛えています。城において水の確保は最も重要であるはずですが、琉球の城では場内に水源を確保しているのは珍しいそうです。城の規模、当時の琉球の軍勢規模からいって、長期間の籠城を想定していなかったのかもしれません。
中城城跡公園
沖縄県中頭郡中城村泊1258
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした