都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「ロダンとカリエール」 国立西洋美術館 3/19
国立西洋美術館(台東区上野公園7-7)
「ロダンとカリエール -世紀末に生きた創造者たちの手と精神- 」
3/7-6/4
良き交流関係にあったロダン(1840-1917)とカリエール(1849-1906)。この二名の芸術家における表現の方向性や根底の思想、感覚などを、主に作品を通して比較、概観する展覧会です。展示作品の質はもとより、構成にも優れています。会期の初めだからなのか会場は幾分閑散としていましたが、一人でも多くの方に見て欲しいと思うような充実した企画でした。
西美の常設展で常日頃ロダンを目にしながら、なかなかその魅力が掴めなかった私ですが、彼がカリエールと深い交流を持っていたことも初見でした。またカリエールも、昨年の都美でのプーシキン展にて殆ど初めて見知った画家です。この二人がどのように交流を深めていったのか。それを私のような素人にも分かり易く見せてくれたのが、この展覧会の実質的な開始部分でもある二番目のセクション「ロダンとカリエールの直接の交流」でした。たくさんの子どもたちに囲まれたカリエールと、彫刻に見入るロダンを捉えた二枚の写真。その間から、彫刻と絵画の豊かなコラボレーションが始まります。
このセクションにて特に目を見張らされた作品は、ロダンの「イリス」(1895)でした。驚くほど大胆なポーズをとった躍動感溢れる彫像。正面から見ると大股を広げているような格好にも見えますが、視点を斜めの方向へ移すと、まるで陸上選手がハードルを飛んでいるかのような姿にも見えます。右足が右腕にくっ付くほどに振り切れている。隆々とした肉体もどこか荒々しい。構図としてはそれほど美しいとは思えませんが、半ば奇異な感も受けるその獣のような姿には驚かされました。
カリエールの作品では、「鋳造家」(1900)と「モデルよる習作(または『彫刻』)」(1904)が気になります。「鋳造家」は、まさに鋳造家が金属を炉に溶かしている様子を捉えているのか、まるで炎と格闘するかのような力強い職人の姿が印象的でした。ちなみにこの作品はリトグラフとのことですが、画面に目を近づけると、まるで引っ掻き傷か綿のような細かい線が無数に束ねられて、対象が象られていることが分かります。細い線が束になり、それが波打つかのようにして流れ出していく。カリエールのどこか流麗な作風は、この線の見事な使い方からも鑑みることが出来ます。
「モデルによる習作」は、モデルを前にした作家が彫刻を制作する様子が描かれている作品です。やや青みがかった黒に朧げに浮かび上がる彫像家と彫像、そしてそのモデル。モデルを丹念に伺っている作家の目には、その人の創造力を表すかのような豊かな生命力が秘められています。目にたたえられた不思議な力。これは他のカリエールの作品にも通じるように思いましたが、彼の描く人物の目には、その人となりを示すような慈愛や意思が強くこめられています。ただ幻想的で美しいだけではない。時にカリエールの作品に大きな愛を感じるのは、この生命感漲った眼差しによるものかもしれません。
さて、三番目の「ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像」では、彼らが手がけた同一人物の肖像が、ともに彫刻と絵画においてどう追求されたという点に視座が置かれています。二人の表現の差異や共通点を、同じモデルを通してみること。この展覧会の中では最も分かり易く、また楽しめるセクションです。
シャープな顔立ちにキキリと引き締まった口元が印象的な、カリエールの「アンリ・ロシュフォールの肖像」(1896以前)。カリエールが描いた人物画の中では比較的クッキリと輪郭が浮き上がってくる作品ですが、それを見た後に、隣で展示されているロダンの同名の胸像(「アンリ・ロシュフォールの胸像」)を眺めると、ともに甲乙付け難いその魅力に惹かれてしまいます。ロダンの胸像では、カリエールの肖像にあったカッコ良さが、威圧感のある堂々とした風貌に転化されていますが、鋭かったはずの目は不思議ともの静かな雰囲気に変わって、深い憂いすら感じられます。ここでキャプションにもあった、「ロダンにとって肖像をつくるということは、与えられた顔の中に永遠性を求めること。」という詩人リルケの言葉を思い出しました。カリエールの作品が、どこか今にも儚く消え去りそうな一期一会的な魅力があるのに対し、ロダンは、その人物の息吹をブロンズに託して、永遠に消え去らない魂へと変化させる。ロダンの作品に見られる不変的な意思は、ナーバスなカリエールの作品と重なることでさらに高まる。もちろんそれとは逆に、カリエールの少し危ういノスタルジックな美しい魅力を高めることにもなっている。そのようにも感じました。
4番目の「ロダンとカリエールにおける象徴主義」では、カリエールの美しい作品が贅沢に並んでいます。特に「母性」(1892)、「母の接吻」(1898)、「愛情」(1905)は必見です。大きな愛に包み込まれる母と娘。母が娘を胸に抱きかかえて愛を注ぎます。そして「愛情」に見られる母の慈愛に満ちた瞳。娘の接吻を頬に受けながら、目を細めてその温もりを確かめています。また右手は、娘の腕を取るかのようにしっかりと娘を握っている。「母の接吻」における娘の表情にも、大きな慈愛を受け取った時の幸福感を見て取ることが出来ました。握りしめられた両手と抱きしめられた体。そして愛と平安に浸った瞳。全てがもはや失われてしまったような家族愛を表現しています。感傷的な美しさがここにありました。
最後の「ロダンとカリエールを結ぶ糸」では、眩しいくらい美しいロダンの「『瞑想』と呼ばれる『内なる声』」(1897)に痺れました。ギリシャ彫刻を思わせるような端正な裸女。線は丸みを帯びていて、どこか肉感的な味わいも持っています。そして首を捻るようにして腕に耳を傾けているその顔。まさに自身の「内なる声」を聞いているのでしょうか。大きな目は静かに閉じられている。心臓の鼓動が聴こえているはずです。この作品の隣に、ほぼ同じポーズの「瞑想」(1896-1897)が展示されていましたが、こちらには太い両腕が付いていました。しかし「内なる声」にはそのような雑物はない。そして腕がないことが、この作品に稀有な美しさをもたらしている。ミロのヴィーナスにも両腕がありませんが、その美しさにも匹敵するとも言いたい作品です。初めにロダンの魅力が掴めないとも書きましたが、この大傑作を前にした時は体が震えました。
長々と書いてしまいましたが、展覧会で提示されていた「象徴派」や「トルソー」など、二人をつなぎ合わせるキーワードはやや消化不良気味でもあったので、日を改めてもう一度見に行きたいと思います。見知らぬ二人が出会うことでさらに高まる魅力。もう地味だとは言わせない、ロダンとカリエールの美しさを存分に楽しむことの展覧会です。6月4日までの開催です。
*関連エントリ
「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」 4/4
「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」(講演会) 4/15
「ロダンとカリエール -世紀末に生きた創造者たちの手と精神- 」
3/7-6/4
良き交流関係にあったロダン(1840-1917)とカリエール(1849-1906)。この二名の芸術家における表現の方向性や根底の思想、感覚などを、主に作品を通して比較、概観する展覧会です。展示作品の質はもとより、構成にも優れています。会期の初めだからなのか会場は幾分閑散としていましたが、一人でも多くの方に見て欲しいと思うような充実した企画でした。
西美の常設展で常日頃ロダンを目にしながら、なかなかその魅力が掴めなかった私ですが、彼がカリエールと深い交流を持っていたことも初見でした。またカリエールも、昨年の都美でのプーシキン展にて殆ど初めて見知った画家です。この二人がどのように交流を深めていったのか。それを私のような素人にも分かり易く見せてくれたのが、この展覧会の実質的な開始部分でもある二番目のセクション「ロダンとカリエールの直接の交流」でした。たくさんの子どもたちに囲まれたカリエールと、彫刻に見入るロダンを捉えた二枚の写真。その間から、彫刻と絵画の豊かなコラボレーションが始まります。
このセクションにて特に目を見張らされた作品は、ロダンの「イリス」(1895)でした。驚くほど大胆なポーズをとった躍動感溢れる彫像。正面から見ると大股を広げているような格好にも見えますが、視点を斜めの方向へ移すと、まるで陸上選手がハードルを飛んでいるかのような姿にも見えます。右足が右腕にくっ付くほどに振り切れている。隆々とした肉体もどこか荒々しい。構図としてはそれほど美しいとは思えませんが、半ば奇異な感も受けるその獣のような姿には驚かされました。
カリエールの作品では、「鋳造家」(1900)と「モデルよる習作(または『彫刻』)」(1904)が気になります。「鋳造家」は、まさに鋳造家が金属を炉に溶かしている様子を捉えているのか、まるで炎と格闘するかのような力強い職人の姿が印象的でした。ちなみにこの作品はリトグラフとのことですが、画面に目を近づけると、まるで引っ掻き傷か綿のような細かい線が無数に束ねられて、対象が象られていることが分かります。細い線が束になり、それが波打つかのようにして流れ出していく。カリエールのどこか流麗な作風は、この線の見事な使い方からも鑑みることが出来ます。
「モデルによる習作」は、モデルを前にした作家が彫刻を制作する様子が描かれている作品です。やや青みがかった黒に朧げに浮かび上がる彫像家と彫像、そしてそのモデル。モデルを丹念に伺っている作家の目には、その人の創造力を表すかのような豊かな生命力が秘められています。目にたたえられた不思議な力。これは他のカリエールの作品にも通じるように思いましたが、彼の描く人物の目には、その人となりを示すような慈愛や意思が強くこめられています。ただ幻想的で美しいだけではない。時にカリエールの作品に大きな愛を感じるのは、この生命感漲った眼差しによるものかもしれません。
さて、三番目の「ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像」では、彼らが手がけた同一人物の肖像が、ともに彫刻と絵画においてどう追求されたという点に視座が置かれています。二人の表現の差異や共通点を、同じモデルを通してみること。この展覧会の中では最も分かり易く、また楽しめるセクションです。
シャープな顔立ちにキキリと引き締まった口元が印象的な、カリエールの「アンリ・ロシュフォールの肖像」(1896以前)。カリエールが描いた人物画の中では比較的クッキリと輪郭が浮き上がってくる作品ですが、それを見た後に、隣で展示されているロダンの同名の胸像(「アンリ・ロシュフォールの胸像」)を眺めると、ともに甲乙付け難いその魅力に惹かれてしまいます。ロダンの胸像では、カリエールの肖像にあったカッコ良さが、威圧感のある堂々とした風貌に転化されていますが、鋭かったはずの目は不思議ともの静かな雰囲気に変わって、深い憂いすら感じられます。ここでキャプションにもあった、「ロダンにとって肖像をつくるということは、与えられた顔の中に永遠性を求めること。」という詩人リルケの言葉を思い出しました。カリエールの作品が、どこか今にも儚く消え去りそうな一期一会的な魅力があるのに対し、ロダンは、その人物の息吹をブロンズに託して、永遠に消え去らない魂へと変化させる。ロダンの作品に見られる不変的な意思は、ナーバスなカリエールの作品と重なることでさらに高まる。もちろんそれとは逆に、カリエールの少し危ういノスタルジックな美しい魅力を高めることにもなっている。そのようにも感じました。
4番目の「ロダンとカリエールにおける象徴主義」では、カリエールの美しい作品が贅沢に並んでいます。特に「母性」(1892)、「母の接吻」(1898)、「愛情」(1905)は必見です。大きな愛に包み込まれる母と娘。母が娘を胸に抱きかかえて愛を注ぎます。そして「愛情」に見られる母の慈愛に満ちた瞳。娘の接吻を頬に受けながら、目を細めてその温もりを確かめています。また右手は、娘の腕を取るかのようにしっかりと娘を握っている。「母の接吻」における娘の表情にも、大きな慈愛を受け取った時の幸福感を見て取ることが出来ました。握りしめられた両手と抱きしめられた体。そして愛と平安に浸った瞳。全てがもはや失われてしまったような家族愛を表現しています。感傷的な美しさがここにありました。
最後の「ロダンとカリエールを結ぶ糸」では、眩しいくらい美しいロダンの「『瞑想』と呼ばれる『内なる声』」(1897)に痺れました。ギリシャ彫刻を思わせるような端正な裸女。線は丸みを帯びていて、どこか肉感的な味わいも持っています。そして首を捻るようにして腕に耳を傾けているその顔。まさに自身の「内なる声」を聞いているのでしょうか。大きな目は静かに閉じられている。心臓の鼓動が聴こえているはずです。この作品の隣に、ほぼ同じポーズの「瞑想」(1896-1897)が展示されていましたが、こちらには太い両腕が付いていました。しかし「内なる声」にはそのような雑物はない。そして腕がないことが、この作品に稀有な美しさをもたらしている。ミロのヴィーナスにも両腕がありませんが、その美しさにも匹敵するとも言いたい作品です。初めにロダンの魅力が掴めないとも書きましたが、この大傑作を前にした時は体が震えました。
長々と書いてしまいましたが、展覧会で提示されていた「象徴派」や「トルソー」など、二人をつなぎ合わせるキーワードはやや消化不良気味でもあったので、日を改めてもう一度見に行きたいと思います。見知らぬ二人が出会うことでさらに高まる魅力。もう地味だとは言わせない、ロダンとカリエールの美しさを存分に楽しむことの展覧会です。6月4日までの開催です。
*関連エントリ
「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」 4/4
「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」(講演会) 4/15
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