◆ちゃんとしゃべれ!治納由気(はるなゆき)◆

変な日本語、敬語もどき、崩れていく日本語、そして、正しい日本語とハムスター。

「手をふれる」は自動詞か他動詞か。

2009-08-19 22:25:25 | 気になる言葉、具体例
                           ふれることもできない
 5日の記事で、「手をふれる」は自動詞であると書きました。もちろん、手元の辞書には自動詞として載っています。でも、他動詞だと記載されている辞書もあるようなのでいろいろ考えてみました。ちなみに、動作や作用の及ぶ対象があれば他動詞、主語自身の動きを表すのが自動詞なのですが、日本語においてはこの区別が難しく、辞書によって、人によって意見が分かれるようです。よって、あくまでも、私はこう考えるということで、今日の記事はそういう前提で読んでください。
 脈を取る、絵を見る、問題点を挙げる、法を犯す、これらは他動詞です。これを自動詞で言い換えると、脈がふれる、絵が目にふれる、問題点にふれる、法に触れる、どうですか、ちょっと柔らかい感じがしませんか? 「脈を取る」は腕時計の秒針を見ながら脈を数える、「脈がふれる」は、数えるというより、「あぁ、生きてる」と感じる。「法を犯す」は、違法だと分かっていた、「法に触れる」は、はっきり違法だとは認識していなかったのかも。そういうイメージがありませんか?
 それから、脈を、絵を、問題点を、法を、これらは対象語(目的語)ですが、同じ「~を」という形でも、家を出る、道を歩く、図書館を訪れる、こういう「~を」は自動詞(出る、歩く、訪れる)を修飾する補語です。家を出て、道を歩いて、図書館を訪れて、そのもっと先に対象があります。あるいは、対象はないのかもしれません。図書館を訪れ、涼しい館内でいすに座ってただぼんやりしていてもいいのです。
 では、「手をふれる」の「手を」を対象語(目的語)ととらえるか、補語ととらえるか。「手をふれる」が「さわる」という意味であることを考えると、「手」は対象ではありませんね、形は「手を」ですが、さわる対象は手のもっと先にあります。ちなみに、「さわる」という行為の主体は意思を持ち、自分から近づいていって、ほとんどの場合、手でさわります。手は、そのときそのとき、脳が発した指令が筋肉に伝わって動く「主体の一部」ですから、「主体」が「さわる」、これで十分でしょう。また、さわる対象の多くは固体です。
 それに比べると、「ふれる」は、主体も対象もぐっと範囲が広がりますね。風が頬にふれる、水にふれる、枝の先が肩にふれる、温かい心にふれる、厳しさにふれる、何でもありです。「さわる」とは言いたくないけれど、ただ「ふれる」だと範囲が広すぎるので「手をふれる」となり、「手にふれる」「手がふれる」よりも主体の意思を感じる、そして、「手でふれる」ほど説明っぽくない。また、他動詞ほどの積極性はなく、対象に作用が及ぶというより、主体がそういう動作をしたということを言いたい。「手をふれる」はそんな言葉なのではないでしょうか。
コメント
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