今日も夕方には登山口へ行くんですが、多分電波が入らないと思うので早めにブログアップしました
昨日の激しい運動(急坂を9時間歩き続けた)で今日は休養日。
昨夜は随分疲れていたのか二人共早い時間から「死んだように眠りました」
でも朝は二人共快調
五箇山の道の駅で目覚めて、貧乏神に包まれているような状況の「ゲゲゲの女房」を見て移動。
富山県側の世界遺産「菅沼合掌造り集落」を観光して、国民宿舎「五箇山」近くに居ます。
ここには合掌造りの「村上家」があって一人300円で中を見ることができます。
白川郷にも同じように中を見せてくれる家があったんですが、ここでは薬草茶のサービスがあり、建物や昔の生活の説明の他「ささら踊り」も見せてくれました
明日はまたコースタイム「八時間二十分」の人形山に登ります。
今日のタイトルですが・・・その前にこのブログは極めて独断と偏見に満ちています
そんな溝田が思う事を基準に行動した事やすること、経験して思った事や、色々なところから入った情報をそんな目でみて分析したものですから、世間一般の間違った常識から離れたものだと思っています
正しいかどうかは数十年か数百年後にしか判定できないでしょうが、今の世間の常識よりは正しいと思って行動し、書いています
それは、今まで殆ど「遊んでいる状態の人達」と接していますので、考え方が違ってしまったんでしょう。
もう一つは過去40年の間「常に20年先」を考えて日々を生きている事もあると思います
遊びを仕事にし、仕事を辞めてからも遊び続けている僕が今まで接してきた人達は、普通の状態より「人の本心に近い状態」と思えるんです。
言い換えると「自然に近い状態」かも知れません
本題に入りますが、これは20年先(81歳)を考えると「そろそろ死ぬ準備も・・・」となり、その延長にあるんですが
人間は「生まれる場所や生まれ方を選ぶ事が出来ませんが、死に方や死に場所は選べる」と言うのは古人の教えでもあります
そして必ず人はいつか死にます
僕の場合ですが、死んだ人を見回して見ると、多分世間一般が理想としているような「誰かに見守られて死ぬ」人は病気や怪我で苦しんで「早め」に死ぬ人位で、殆どの人は身内が「知らない間」に死んでいます。
病気や怪我でも、何月何日の何時ごろに死ぬか解らないので・・・子供も孫も仕事や遊びに忙しく、そんなに付いて居られませんからそうなるんでしょう
皆さんの周りはどうですか?
多分同じような結果だと思うんですが・・・
本人が特に意識しなければ、生まれるときは「誰かに見られながら生まれるけど、死ぬ時は一人」と言うのが現実ではないでしょうか
健康に年老いて「朝が来たら死んでいた」人の死ぬ間際がどうだったのか気になりますが・・・
結局多くの人は一人で死にますが、理想的な死に場所が病院や施設でないのは誰も同じでしょう。
では「どこで死にたいか」と考えると「好きな場所」や「愉しい時を過ごした場所」になりますね
僕の場合ですが、それが幾つかあります。
今住んでいる倉庫ハウスのデッキも気に入っていますし、倉庫内の工作場も大好きです
島影や入り江にアンカー停泊したヨットのコクピットで波の音を聞きながら過ごすのも大好きです
キャンピングカーの窓から雪を蓄えた北アルプス連峰が一望できる場所やブナの新緑に囲まれた中に居るのも大好きです
これらの場所で死ねたら最高と思っています

「死に方」ですが・・・
突発的に死ぬのも悪くないとは思うんですが・・・
「ええな~・・」とか「きれいやな~・・・」とか・・・極めて僕的表現の「人生やな~・・・」とつぶやいてから死ねたらいいですね
皆さんはどうでしょう?
これとは別に・・くノ一忍法「筒枯らし」の術に掛かって死ぬのも悪くないと思っています
これは山田風太郎の理想の死に方だったのかも知れませんが・・・その忍法を使う女性の壷に入れると、男は快感で射精を繰り返し、見る見る裡にどんどん老化し痩せ衰えて死ぬんだそうですが・・・それでも「人生やな~・・・」とつぶやけるような気がします
しかし問題はその頃になると、どの位薬を飲めば壷に入れられるかですね~

今日の写真は五箇山近く菅沼合掌造り集落で写したものです。
田んぼの中に逆さ合掌造り民家も写っています

昨日の激しい運動(急坂を9時間歩き続けた)で今日は休養日。
昨夜は随分疲れていたのか二人共早い時間から「死んだように眠りました」

でも朝は二人共快調

五箇山の道の駅で目覚めて、貧乏神に包まれているような状況の「ゲゲゲの女房」を見て移動。
富山県側の世界遺産「菅沼合掌造り集落」を観光して、国民宿舎「五箇山」近くに居ます。
ここには合掌造りの「村上家」があって一人300円で中を見ることができます。
白川郷にも同じように中を見せてくれる家があったんですが、ここでは薬草茶のサービスがあり、建物や昔の生活の説明の他「ささら踊り」も見せてくれました

明日はまたコースタイム「八時間二十分」の人形山に登ります。
今日のタイトルですが・・・その前にこのブログは極めて独断と偏見に満ちています

そんな溝田が思う事を基準に行動した事やすること、経験して思った事や、色々なところから入った情報をそんな目でみて分析したものですから、世間一般の間違った常識から離れたものだと思っています

正しいかどうかは数十年か数百年後にしか判定できないでしょうが、今の世間の常識よりは正しいと思って行動し、書いています

それは、今まで殆ど「遊んでいる状態の人達」と接していますので、考え方が違ってしまったんでしょう。
もう一つは過去40年の間「常に20年先」を考えて日々を生きている事もあると思います

遊びを仕事にし、仕事を辞めてからも遊び続けている僕が今まで接してきた人達は、普通の状態より「人の本心に近い状態」と思えるんです。
言い換えると「自然に近い状態」かも知れません

本題に入りますが、これは20年先(81歳)を考えると「そろそろ死ぬ準備も・・・」となり、その延長にあるんですが

人間は「生まれる場所や生まれ方を選ぶ事が出来ませんが、死に方や死に場所は選べる」と言うのは古人の教えでもあります

そして必ず人はいつか死にます

僕の場合ですが、死んだ人を見回して見ると、多分世間一般が理想としているような「誰かに見守られて死ぬ」人は病気や怪我で苦しんで「早め」に死ぬ人位で、殆どの人は身内が「知らない間」に死んでいます。
病気や怪我でも、何月何日の何時ごろに死ぬか解らないので・・・子供も孫も仕事や遊びに忙しく、そんなに付いて居られませんからそうなるんでしょう

皆さんの周りはどうですか?
多分同じような結果だと思うんですが・・・
本人が特に意識しなければ、生まれるときは「誰かに見られながら生まれるけど、死ぬ時は一人」と言うのが現実ではないでしょうか

健康に年老いて「朝が来たら死んでいた」人の死ぬ間際がどうだったのか気になりますが・・・
結局多くの人は一人で死にますが、理想的な死に場所が病院や施設でないのは誰も同じでしょう。
では「どこで死にたいか」と考えると「好きな場所」や「愉しい時を過ごした場所」になりますね

僕の場合ですが、それが幾つかあります。
今住んでいる倉庫ハウスのデッキも気に入っていますし、倉庫内の工作場も大好きです

島影や入り江にアンカー停泊したヨットのコクピットで波の音を聞きながら過ごすのも大好きです

キャンピングカーの窓から雪を蓄えた北アルプス連峰が一望できる場所やブナの新緑に囲まれた中に居るのも大好きです

これらの場所で死ねたら最高と思っています


「死に方」ですが・・・
突発的に死ぬのも悪くないとは思うんですが・・・
「ええな~・・」とか「きれいやな~・・・」とか・・・極めて僕的表現の「人生やな~・・・」とつぶやいてから死ねたらいいですね

皆さんはどうでしょう?
これとは別に・・くノ一忍法「筒枯らし」の術に掛かって死ぬのも悪くないと思っています

これは山田風太郎の理想の死に方だったのかも知れませんが・・・その忍法を使う女性の壷に入れると、男は快感で射精を繰り返し、見る見る裡にどんどん老化し痩せ衰えて死ぬんだそうですが・・・それでも「人生やな~・・・」とつぶやけるような気がします

しかし問題はその頃になると、どの位薬を飲めば壷に入れられるかですね~


今日の写真は五箇山近く菅沼合掌造り集落で写したものです。
田んぼの中に逆さ合掌造り民家も写っています
