IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

❣❣「伊豆の国桜」で~す❣❣

2024-02-27 09:12:49 | この頃思う事


ご近所さんの畑の隅には、ある植物学者さんから頂いたのだという(新種発見されたのか、品種改良されたのかは知らないけれど)「伊豆の国桜」が咲いている。
多分、「河津桜」の系統ではないか・・・と思われるが、河津より多少遅く開花するみたいだ。
暖かな当地と雖も、まだまだ寒風が吹き抜ける時期、鮮やかなピンク色の(かなり派手に見える)花に気持ちが温まり、頬も心も緩むが、却って、一層に春の訪れが待ち遠しく感じるのも事実で・・・あぁ、もうあと1か月の辛抱!

今朝は(27日)は少し寒い。
この場所に桜の木は一本しか無いのだけれど、撮って来た写真をすべて掲載して「咲き乱れる満開な桜」を装ってみた。
ま、少しだけ「春爛漫も近し」を感じ取って頂けたら嬉しいな・・・と、願うのみである。

(追伸:恒例の仕事も、一応、最終段階に入り・・・です)

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「中だるみ」中ですが・・・

2024-02-21 11:43:23 | この頃思う事

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畑の隅に、多分「南高梅」ではないかな・・・と思っている梅の木がある。
一時は、かなりの量、梅の実が収穫出来ていたので、収穫するのも、その後の漬け込みなどの作業が大変だったが、数年前、余りにも大きくなった木をかなり大幅に剪定したことで、現在、殆ど実の収穫はない状態。
でも、新しい枝が成長してきているから、今年は、少し、収穫出来るかも・・・と、密かに期待をしている。

 


 


甥の事業の「決算と確定申告」のお手伝い(させられている)状況は、2月前半には中途まで完了してはいたものの、その後の資料が届かないために一向に捗らず、せっかく盛り上がっていたテンションが、すっかり、下がってしまっている。
でも、漸く、昨晩(20日)になって、残りの資料を持ってきた甥に(実際は、兄の為に実務を手伝っている姪が持ち込んだのだが)、とりあえず今月中に、一応の数字を確定する積りだと伝えたので、本来ならば、すぐ作業に入らなければならないのに、まるでテンションダダ下がりの為、今は、持ち込まれた資料を眺めながら、かなり弱含みのやる気UPを図っている状況であり、果たして今月内に出来るだろうか、ちょい不安もある。
それでも、やらねばならぬと言う思いだけで、多分、今日の夜(夜中の方が集中出来る)頃には始められそう・・・な気がしている。

 

この「中ダルミ」中に、ぼんやりと(つまり集中しないで)「YouTube」を聞き流して(映像はあまり見ない)いた時に、どうしても聞き流せない箇所が、度々あることに気が付いて、思わず映像を見直した。
それは、多分、文章を見ながら(入力するのかな?)「AI」が語っているのだろう日本語がオカシクない?・・・たとえば、「2つ(フタツ)」と言って欲しい場合に「ニツ」と読んで、「ニツ」って何だよ!と思い、「金(カネ)」の場合には「キン」と言うし、まぁ、こんな具合に、ちょいちょい「AIの不完全」さが表れて来て、聞き流しているつもりが、ついつい、集中してしまい、半ば怒りに似た感情さえ沸いてしまうのである。
同じ文字でも、状況により読み方が違う日本語は難しい・・・と言われる所以なのだろうが、聞いているだけの私としては、常にイラつくのだよね。
まだまだ「AI」は未熟なのだと思うべきか、いやいや、実際の「AI」はこんなダサくはないよと認識すべきかは、「AI知識」に疎い私としては判断出来ないものの、発信者が日本人であり(外国人は許す・・・は差別かな?)、「YouTube」など「SNS」で世間に拡散しようとする意図であるならば、ネットにUPする前に、も一度、文章(読み方)を検証してからにして欲しいと思うが・・・これって無理筋なのかなぁ


しかし、「AI」で翻訳をしている場所(部署?)って、実際はどこなのだろうか、それさえも分からないのが私なのだもの、文句は言えないのかも・・・
何せ、暇な人間の代表みたいな私だから、こんなクダランところに拘っているのであって、現在の進んでいるであろう「デジタルテクノロジー」というか「デジタルテクニック」に対して、オカシナ見解をしているのかも知れないよね。
だからと言って、日本語を通常的言語としている身には、イラツキを我慢するのはちょい苦しい。

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「蠍座」の運勢は?

2024-02-04 14:12:48 | この頃思う事

これは、我が家で一番最初に咲く「さざんか」で、今日現在(2月4日)では、もう、殆ど、散ってしまっている。
で、次は、別の「さざんか」や「つばき」が、次々と咲き始めるだろうと心待ちにしているのに、何故か、一向に、花は咲かないのだ・・・「咲いても咲かなくてどうでもいいや」とイイ加減な剪定しているのが原因なのだろうと思うが、かと言って、今更、それぞれの植木の選定方法を勉強する気力もないのが、何とも致し方ないという事。

 


 

 

2月に入り、私の義務感だけ満載の事務仕事も、漸く、始まりそうな運びとなった。
しかし、すべてとは言えないがある程度の資料は届いたけれど、肝心な事務用必要資材(未使用の振替伝票等)が我が手元に無いから作業が出来ない(以前は、私自身で買い揃えていたが、甥には依存生活卒業の機会を与えようと考え、用意することを止めた)。
で、「振替伝票」と「コピー用紙(PC作業に必需)」を買ってくるよう依頼したものの、3日間、経過しても届かないという有様で、当然の如く、私はイライラと待ち続けることに我慢出来なくて、やっぱり、自ら、チャリを飛ばし(ちょい暴走族的な私)、百均に買いに行ってしまった。

イライラ解消と退屈しのぎに、何とな~く「YouTube」を見ていた時、「2024:蠍座の運勢(私の星座)」が目に留まったとお思いあれ。
ホントのところ、私は、「おみくじ」にも「占い」にも、全く、興味はなくて、多分、試してみたことは無いと思う(忘れている出来事もあるから、断言はできないが・・・)。
あえて掘り下げようとは思っていないが、最近、私の性格って、少し狂っているのかなぁ・・・と思う節もあって、一応、中の文章を、ざっと、漁ってみた。

つまり、私的イイ加減解釈(これは常に重要ポイント)で見ると、「2024に於ける蠍座の運勢」は「自分に合ったやり方で淡々と粛々と進む」のだそうだ。
で、性格はと言うと・・・逃げない。常識や一般論の順位が低い。絶対的真実・主観的事実には公平さ。価値観は自分自身が感動するかどうかが基準であり、一点集中で忍耐力を持つ・・・という事らしい。
まぁ、すべてが合っているとは思わないが、なかなか、いいところを突いていると思った。

毎年繰り返される事務的作業の段取りにせよ、最近、頻繁に起きている友人のトラブル紛いのことについても、解決する手間を避けることは無いが、その準備(段取り?)と速度には、自分なりの法則があり、それに沿わないと、私に心理的ちょいヤバ風な症状が起きてしまうというパターンは、昔も今も発症し、その相手方から理解を得る事が少ないと感じている、つまり、私がイライラしていることを口に出さない限りは、傍目には何の問題もない・・・と映るみたいだ。

この歳をして、相手にギャンギャンと叫ぶのも嫌だし、結局は、「自身で淡々と粛々と進める」しか道はない・・・正に「2024蠍座の運勢」そのまま・・・って事なのよね、蠍座の「運勢」だか「占い」なのかは知らないが、「合っている」って事?

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2024年「お手製年賀はがき展」

2024-01-22 09:31:07 | この頃思う事

本日は1月22日・・・昨日が雨だったからか、案外、暖かな一日の始まりである。

漸く、今年頂いた「年賀はがき」の整理を始める。
最近は、印刷された「年賀はがき」も多い(基本的に安否確認としているので、それで良い・・・と思っている)が、年賀状を頂けるのは、管制であれ、お手製であれ、有難さに違いはない。

お手製の素敵な「年賀はがき」を眺めていると、作り手の姿が思い浮かび、楽しくて、自然に笑みが出て来るし、結構、心待ちしている部分もあるが、やはり、先行き諸々の条件もあり、この先、何時まで手書きで頂けるのかなと考えることもある。

我が手もとに来る「お手製年賀はがき」には、手書きのもの、彫刻彫り版画のもの、家族等の写真をコラージュしたもの等があり、いずれにしても、私には、到底、作り得ないものだと思うと、記念に残しておこうかな?な~んてことも考えたり・・・で、今回はブログに掲載して残すことにした(写真はプライバシーを考慮して除外)、それぞれの芸術作品をご覧あれ!

以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

最後の愚作品は空蘭を埋めるためのものでして、悪しからず

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相変わらず起動力不足ですが・・・

2024-01-18 10:52:49 | この頃思う事

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もう、一月も中旬に入る10日に、庭に出ると、ふぁ~と匂って来たのが「蝋梅」・・・そういえば、蝋梅の咲く時期だったのだ・・・と気付く。
毎年のことだが、我が家の「蝋梅」は花が咲き始めても落葉しない(他の家の状況はよく知らない)から、ホント、開花したのも気付かないのが通常となってしまっていて、気づいた時点で自然落葉が待てなくて、人間の手(私です)でして落葉のお手伝いをするのである。
ま、何かオカシイけれど、花の姿が目にできると、一段と香りを感じられるというのは、嗅覚的な事も視覚的な作用が、案外、大きいのかも知れない。

 

 


 

 

ボケーと過ごした正月も、既に、「七草」も過ぎてしまった。
もう、我が家(姉宅)では「七草粥」も作ることはしない。
その原因としては、まず、料理が面倒だという事、次は、お供え餅が無い(但し、3が日間食すお雑煮用餅は買うようだ)という事、そして、誰も食べたいと言わない事・・・ま、およそ理由にもならない理由で積極的に作る事を止めたみたいだ。
かく言う私自身は、あまり餅好きでない(だからと言って嫌いな訳ではないけれど・・・)から、元旦の朝、一回、お雑煮を食したら、それで一年すべてOKという感じなのだから、自ら作ろうと思う事も全く無い(エバることではないよネ)。

そんなこんなで気が付けば、既に10日を経過していて、如何にせよ、このままの状態でいるのは世間的にみっともないし、自身でも気持ちが盛り上がらないし・・・と、すっきり作戦の定番である「髪をカット」するために美容院に予約を入れた。
ともかくも、すっきりしたいから美容師さんに全面的にお任せで、清々カットと前髪の部分染めをする。
以前から美容師さんには、「あなたがプロとして、どんなことであっても、このおばさんに似合うと思う事をしてくれ、その結果をどうこう言うつもりは何もないから安心してトライして欲しい」と伝えてあったので、全面的オマカセにしても不安は感じない。
本音で言うと、もう少しこうしたらいいのでは・・・と思う事も、時折、あるが、でも、数か月すれば解決する事案なのだし、あえて注文を付けることもあるまいと考えているからだ。

12日に髪をカットした事で、随分、頭も気持ちも軽くなり、次の計画も自然に湧いてくるというものだ。
で、今のところ、一月中に友人らと3回のランチを予定し、自らの気分を挙げてから、例年の全く前途の見通しも見られない(私にとっては苦痛しかない)作業に取り掛かろうと思う。
ホント、人間の進歩とは、「3歩進んで2歩下がる」のは順調な歩みであって、「すればするほど後退する」という事実もあるのだと、半ば、諦めの境地になっている私なのだ。
でも、頑張るしかないのも事実なのだから・・・放り投げることも出来ないもの私なのである。

 

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ボケ~と3が日を過ごして・・・

2024-01-05 08:57:59 | この頃思う事

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今年は「センリョウ」が、例年に比べても綺麗な姿を見せてくれている(傍らに植えてある「ムラサキシキブ」は色づかないうちに実が落ちてしまったのに)のを見る度に、にんまりとするのを抑えられない自分が可笑しい。
ま、それなりにお世話をしたことが結果を出したのかも・・・という気持ちがどこかにあるんですよね。

 


 

 

今年の年賀状は、来なかった人もあり、今年で中止すると宣言された人もあり、大体、2割程度が、事実上、今年で終了になる感じだ。
私自身があれこれ迷うことなく結果が出て来たことに「それでいい」と、却って安堵感すら覚える。
ただ,その内の一人には、このまま「はい、了解しましたよ」と済ませて置けない気持ちもあり、時間があれば、一度、会って置こうと思っている、あくまでも、自分自身の為であって、あちら様には迷惑かも知れないけれど・・・

 

 ←本物のエスプレッソ(拡大してよ~く見て下さい)

先日、東京・新宿の「イタリアンカフェ」で「本場エスプレッソ」を味わう機会が有った。
私は、珈琲には目が無いと自認しているけれど、高級とか本場ものとかには、さほど、気に掛けてはいない。
ただ、美味しい珈琲を、静かな環境で、ゆっくりと味わえたらそれでよし・・・という感覚だ。
で、その「本場イタリアンカフェ」で味わった「本物のエスプレッソ」に私は驚いた・・・という話をしたい。
確かに香りと味は良かったのは事実、でも、出てきたカップの中の量に我が目を疑ったのである、少ない!とても少ない量で、これって中身を入れ忘れたんではないの?、そう、二口啜ると(飲んだのではない)カップは空になった。

誰に聞いても、「エスプレッソ」とはそういうものであって、その店は正しい流儀だと言うが、私は納得できない、飲めない程の量は必要は無いが、此れしきの見た目(あくまでも量に拘る)で商売し、「これが本場の常識だ」と言われることに納得出来ないのであるよ。
まぁ、お前には本物を味わう常識も持っていないのか・・・と非常識な自分を、全世界に晒されたようで逆切れたのかもしれないが、一方で、此れしきのものを出されて、しっぽを振って満足!満足!と諸手を挙げて協賛する人間の方が狂っている・・・とさえ思えたという訳で。
結果として、私には「本場エスプレッソ」を味わう知識も常識もないと理解したが、珈琲飲みを自称する者として、この商売、何か許せないなぁ・・・と感じる気持ちも尊重したいと思ったのであった。

最近、これって「常識」なのか「非常識」なのかを判断できない出来事に出くわす機会が多いように感じている(多分、自分自身を装おう事が苦痛になってきたのだろう)が、かと言って、「常識」「非常識」で色分けをするのではなく、私にとって心地良いか、また相手にとって迷惑でないかで、冷静に判断出来て行ければいいと考えるようになった。
実は、昨日の夜、手術を前にしている知人から電話が来た、多分不安な気持ちが重なって、その負担を払いたかったのだと思うが、私は、「そういう話は医者に問いなさいね、医者には答える義務があると思う。私には何も判断できない。但し、お見舞いに行く予定をしてるから連絡は必ずしてね」と、もしかすると、知人には冷たく感じたかもしれない返答をした、世間的には「非常識」な態度と言われそうだが、でも、これは私の出来る精一杯の「常識の範囲」なのだから。


何もしない3が日中、目的も無く配信映画をボーっと見ながら、いつの間にか、またしても埒の明かない思いを巡らしている・・・そうスッキリ思い切れないのも、私の持っている「現在の常識」か。

 

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〝本年もよろしくお願いいたします〟

2024-01-01 03:09:54 | この頃思う事

元旦の富士山(令和6年1月1日 午前9時 撮影)

 


 

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何なのだろうね、この気力の無さは・・・

2023-12-28 10:06:16 | この頃思う事

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庭の片隅に植えたあった「小菊」の花付きが芳しくないので、今年は思い切って日当たりの良い畑の花壇に植え替えてみた。
その成果で、たくさんの花を見ることが出来たが、今度は、毎日観察が出来なくて伸び放題・・・全く、草花の世話も出来なくなってしまったと思い知るが、でも、どんな形にせよ、季節に季節の花を観賞出来ることは「幸せ」な事だと思っている。



 

 

何という事か・・・前回のブログUPしてから3週間も経過しているではないか。
一時期、ブログを更新することが義務のように憑りつかれた日々もあったことが嘘か幻か・・・という有様が現状なのである。
ま、この気力の無さは、私にとっては「人生順調な歩み」と見るべきなのだろうと自覚しているが・・・


先日来の、全くバカみたいな決断力の無さからの迷いに我ながら呆れもしたが、結局、食事会に参加するために東京へ出かける決断をした。
その一番の理由は「もう次回は無いかも知れない」という事。
かの友人らは、皆、私より年少であり、つまり、私が一番の年長という事実は、私の他の友人たちとの付き合い方と、多少、違っていて、彼らが計画した事にも、私の了承を得なければ・・・という友人らの気遣いがだんだん負担に感じてくるようになって来て、自分からも距離を置いていたと思うし、自ら結論を下すことも出来ずにいることが、どこかで燃焼不足感があり、モヤモヤとした気分を抱えていたように思う。
そんな時に友人らからのお誘いは、友人らに別れる決断を下す(あくまでも自分自身の考え方に対して)にはいい機会を与えられたのだと感じたからだった。

結果、勿論、楽しい時間を過ごすことが出来たことを友人らに感謝し、その上で、「正直な所、現在の私は、来年のことも、明日のことだって確約出来る年齢では無いと思っている。でも、もう何もしたくないとも思っていないから、もしこれからお誘いを受けた時、元気でいれば喜んで参加するが、状態によって参加できないこともあるのが現実だと知っていて欲しい」と伝えた、つまり、負担から逃げた(?)のである。
そう告げることで、私自身の気持ちが、随分軽くなった〈解放された?〉のは事実だ。

ただ、久方振りの東京(特に、待ち合わせ場所が新宿であった為か)の雰囲気は、もう「私の東京」とは言えない雰囲気で、まことに疲労困憊したのである・・・私が歳を取った為か、あるいは、東京が非情にも変化をしたのだろうか・・・気軽に上京出来ない現実を悟って、少し寂しい思いを感じたのも事実であった。

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また迷っているのですよ!

2023-12-07 16:49:20 | この頃思う事

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屋敷の隅にある「枇杷」の木に、今年は、たくさんの花が付いた。
上手に手入れが出来たならば、来年には、たくさんの実がなるかも・・・と、取らぬ狸の皮算用をしているが、全く消毒もしないし実がなるような肥料もしないのだから、何事も神様の思し召し次第という事。
それでも、近隣に住む小山鳥のオヤツ程度にはなるだろうと思っている。

 


 


今年6月末日、友人(少し体調不調気味だったが、東京駅近くの歯科に通院していた)の様子を、どうしても、直接、確認したくて、東京駅「八重洲中央口」で待ち合わせをした。
私は、自宅から最寄り私鉄駅までタクシー、私鉄最寄駅からJR駅まで電車、更にJR新幹線で東京まで・・・と、3回乗り継いで東京駅に辿り着いたのだが、「八重洲中央口」で、小一時間程、待てど暮らせど友人は来ない。
それで、友人に電話を入れたら、今、「八重洲中央口」に向かって歩いていると言うので、改札を出て見通しの良い場所でまたまた待つこと数十分・・・いやいや、ホントに疲れた!
漸く会えた友人と、どこか喫茶店(カフェ?)でも・・・と思えども、どこの店も混み合っていて(東京駅だものねぇ)ゆっくり座る席もない状況で、駅構内レストランで、おしゃべりしながら軽く昼食を取り、友人にも疲れた様子が見えたので、そのまま東京駅で別れて私は新幹線に飛び乗った。
自宅に帰り着くと、どっと疲れが出て力が抜けてしまったのである・・・つくづく、もう東京へは出かけられないと思ったものだ(ちょい情けない)。

本日(7日)、東京での友達からPCにメール(私が友達のLINEメンバーでないことが原因)が入っていた。
彼女とは、仕事仲間4人でグループを作り、十数年間、年一くらいの間隔で食事会や小旅行を楽しんでいた仲間であった。
私が故郷に戻ってからは、どうしても物理的にも遠くなったし、母の介護などしていた私は、意図した訳でも無いけれど、即答できることが不可能だったから、だんだん彼らからのお誘いも遠ざかり、こんな状況で数年経過していた。
自分としては、「このまま自然消滅でもイイ」と考え、こちらからも積極的に問いかけることもなかった。
彼女からのメールは、12月中旬に新宿で食事会を開くから参加して・・・と言う趣旨だった。
ふーん、どうしよう・・・先の上京での疲れが頭をよぎる・・・もう消滅でもイイとしていたのに・・・何故、即答できないのか、何故、躊躇するのか・・・朝から悩みまくっていた。

如何にこんなにも「決断出来ない病(持病だね)」に惑わされているのかと、思いっきり自覚させられる。
先日、迷いに迷って一つ断捨離を決断したばかりで、案外、その後遺症のど真ん中の不安定感もあるだろうが、どこかでこのメンバーを捨てきれないものが有るのかも知れない。

今、ブログを書き乍ら、せっかく誘って来てくれたのだから、今回だけは参加しようかな・・・なんて気持ちにもなって来るのもおかしなものだ。
明日の朝、も一度、我が深層心理を見極めてみてから返事をするつもりでいる。

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少し考えることがあって・・・

2023-11-11 08:52:01 | この頃思う事

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ご近所さんの畑に「フジバカマ」が咲いている。
この花には、渡り蝶である「アサギマダラ」が飛来するのだそうで、以前、このご近所さんの「フジバカマ」にも、たくさんの「アサギマダラ」が渡って来ていたが、ある年、フジバカマが枯れてしまった。
当然のごとく、「アサギマダラ」の飛来もなくなり、残念に思ったご近所さんは、枯れ残った「フジバカマ」を熱心に手入れをして、今日の姿を取り戻したが、まだ、「アサギマダラ」に出会うことはない。
こんな小さな事であっても、一度壊れた自然を取り戻すことの大変さを、しみじみ感じるが、再び「アサギマダラ」が、この地に飛び交う姿が見られる日を待ち望んでいる、ご近所さんも私も・・・

 


 


毎年、11月の初旬には、恒例である神社大祭が行われているが、残念な事に、今年は大祭中に事故が起こって縮小されたらしい。
この地に帰って来て十数年になるが、それ以前でもこのような事故は無かったと思う(小さなトラブルはあったかも・・・)が、この事故を聞いて、最初に思ったことは「そうだよな、この大祭を実施するために、住民も、随分、無理をしていたような気がするし・・・」だった。
ご多分に漏れず、この地でも少子高齢化は免れない事実であり、大祭自体、我が子供時代と違って、年々、若い人の参加が少なくなってきていた(我が家にも20代の孫がいるが、参加するのは50代の子だけ)。
私には、事故の原因をあれこれ詮索出来る資料も資格もないから、あくまでも、個人的な感想なのだが、歴史ある行事であっても、時代の現状に合わせて調整し変えていくことも必要ではないか・・・と考えるのだ。
守るのは本質的な伝統的精神性であって、現状に即さない形式に拘るのは無理を強いるだけと思う。
ま、来年の大祭には、新たな前向きである改善が見られたらいいな・・・と個人的には改善策を受け入れる気持ちになっている。


それと同時に考えたことは、自分自身のことも同じだ・・・という事。
年齢を経る毎に、体力も、精神的にも許容できる範囲も変わってくる中で、自分自身の考え方、処し方も変化することを受け入れなければ・・・とね。
最近我が身に起きたある事実で、何故、このことを素直に受け入れられないのか・・・という場面に遭遇したが、その時の私は、今までのように耐える気力が完全に失せていることに気が付かされた、そう「ブチ切れた」のである。
ブチ切れの原因は相手ではない、私自身の精神的許容量が狭くなってことに起因する、今まではやり過ごして来られたのだから。
他に対しては、「昔は昔、今は今」なんて説教するのに、自分自身が過去の自分でいることに拘って無理をしていると気が付いたという事。

そんな訳で、ブチ切れついでに自身の過去の整理・促進をしている。
これって若しかするとこれから必要になるかもしれないと思われる件についても、とりあえず、今の時点では必要なしと判断できるものは整理した、何事も今後次第と言う意味で。

目の前の事に追われる日が多くなった、身の回りの出来事が煩雑になる(自分自身の判断力・決断力が鈍っている所為も含めて)という事実が、案外、整理整頓に拍車をかけるのかも・・・と感じる日々である。

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