今年の「大文字草」の寂しい事と言ったら・・・今まで数年育てていたが、こんなに侘しい風情になったのは初めてだと思う。
山野草だからと肥料も与えず、少し日陰の場所に放置していただけだったから、今年は、ちょい肥料を与えたほうがいいかも・・・と、考えているが、いったい何を肥料とするのかも不明である。
12月に入ってから、「高齢者対策ボランティア」とでも言うか、いや、金銭での報酬や、手作りお菓子なども頂いたりしてるところもあるからボランティアでもないし・・・先輩友人宅に様子見訪問、介護中友人の癒しにお付き合い、認知が始まったような仲間(同年配の)とのランチ会、買い物の自動精算機が使えないという友人に買い物同伴、年一のPCで年賀状作成教室と、まぁ、そんなこんな用事で東奔西走(大げさですが)し、さすがに疲労感の残る日々であったが、その疲労感の抜けないうちに(疲労感が抜けるとやる気も失せるので)、我が年賀状の下作りして印刷だけを済ませ、後は、各個人宛に私信を付け加えるだけ・・・と、とりあえず、ここでやって力が尽きた。
2週間ほど、これらの用事を消化しながら思ったことは、何をするのにも問題発生は日常化し、一つ一つクリアしながらなので、容易に完了は出来なかったけれど、それでも、まだ今年は、何とか済ませることが出来たという事は有難いなという気持ちでいるものの、来年の事は、ホント、考えるのも恐ろしいくらいだ。
それでも、来年は来年、その時に出来ることをすればいい・・・と、考えらる余裕(居直りとも言う?)だけは持っていようと思っている。
相変わらず一向にコロナは収まらないものの、考えてみると、コロナのために、暮れも正月も来宅する人が少なくて、却って落ち着いた日々が送れているように思うし、私自身も、必要最小限の動きに留めているから、時折でしかないけれど、じっくり物思いに浸れたり出来るのは、ある意味、幸いではないかと思う。
先日、知人から「息子と畑の草を取りながらの話で、ウクライナに平和をなんて思えどもどうすることも出来ないし、こんなのんびり草取りなんかしていていいのかな?あなたは(私の事)、こんな時、どういう言葉を発するか聞いてみたいと息子が言っていた」と言うのだ。
「あら~、私だってウクライナに平和を・・・なんて常には考えていないもの、ただ、世界の人々は、本当に、平和を望んでいるのだろうか?平和って何だろう?・・・という疑問は持っているけれどね」と話した。
今年もあと半月を残すのみ。
私としては、遠いウクライナでなく、目の前で起きる出来事に振り回されない、でも、それなりの解決策を模索しつつ、穏やかに過ごせればいいとしか思いつかない。
来週には、友人らとの今年最後の「Zoom」と、姉に付き添い(これも高齢者対策ボランティア)「市役所」に出向く仕事があるだけ・・・友人と「お茶」に行こうかな?