'67 まで、私は佐世保市に住んでいました。 私の住居と隣り合わせに、アメリカ海軍の広大な住宅地があり、駐車場には飛行機の垂直尾翼を思わせるお尻を持った 60 年代のキャデラック ( 写真上 ) やシボレー、フォード、ポンテアック、GM がとまっていて、広い芝生の庭、白い米軍住宅 ( 写真下 ) 冬でも外出時は T シャツの上に毛皮のコートを羽織り、家に帰るとコートを脱ぎ T シャツ一枚、セントラル・ヒーティングで部屋中に暖房が行き届いている。 そんな米軍をある種、憧れの目で見ていました。
この頃は佐世保市の人口 250,000 人に対し米軍が 25,000 人いましたから、そこら中にアメリカ人がいた訳です。 中学生の時、アメリカ人から名前を聞かれたので 「 My name is JUN 」 と答えたら 「 Oh! roku gatsu desune 」 と返って来たので、互いに笑い合ったりしました。 What is your name ? より May I know ( or have ) your name ? の方が丁寧だとか、ウォーターはワラ、サウザンドはターズン 、1900 はワンターズン・ナインハンドレッドと言わないで、ナインティーン・ハンドレッドと言うなど実地で覚えたのですから、英会話習得の環境としては抜群だったのに ・・・ 。
米海軍の戦艦が入港すると 3,000 人近くの米兵がボーナスを貰って上陸して来ます。 ホテルで、単位 300 人くらいで歓迎パーティーが開かれます。 そのパーティーや、外人専用ライブバー、ビアホールなどで、私はバンドをやっていました。 アメリカ人の前で英語の歌を歌うと言う、今考えればとんでもない事を 19 才の青年達が平気でやっていたのです。 アメリカ人は陽気でパーティー上手です。 へたくそな学生バンドでも、酔っぱらって文句ひとつ言う事なく、逆に盛り上げてくれて助かりました。
リクエストが多かったのは、カントリー & ウエスタンとジャパニーズ・ソングです。 特にカントリー & ウエスタンはリクエストが多く、きっと生まれ故郷の事でも思い出す、日本で言う民謡的なものでしょうか。 ジャパニーズ・ソングは異文化に触れたいという事でしょう。 当時、私達はビートルズをメインにロックしか演っていなかったので、ごまかすのに一苦労でした (笑)。
この頃、流行っていた飲み物はコークハイ。 米兵は特別ボーナスを貰っているし、若い ( 20 才前後 ) のでストレス発散の豪遊です。 当時の日本人の月給分 ( 2 万円 ) を一晩で使ってしまいます。 私達が飲んでいたのは、ウォッカをセブンアップで割った " ウォッカセブン " どちらも透明な飲み物だから、外見は水を飲んでいる様に見えるので未成年でも大丈夫って訳です ( 時効です )。 バーのお姉さんに教わった飲み物で、勿論お姉さんの奢りです (笑)。
'60 年代、日本人がファミリーカーとして、トヨタ・パブリカ や マツダ・ファミリア、三菱・ミニカ、スバル・360、ホンダ・N360 にやっと乗れる様になった頃、奴らは 8 気筒、排気量 4.0L ~ 8.0L ですからね、燃料タンクに穴を開けて走っていた様なものです。 基地 ( ベース ) 内のクラブやマーケットに行っても物量 ( 中でも缶詰類 ) は圧倒的でした。 日本の様にチマチマしてなく、全てに於いて重厚長大です。
小学生になる前の小さい子供達が、街で米兵に付きまとい 「 テニエン・テニエン 」 と言っていました。 私も小学生の低学年、英語なんて知りません 「 手に円・手に円 」 と言ってお金をせびっていると思っていました。 「 10 円・10 円 」 と言っていたんだと分かったのは、しばらく後の事です。 当時のガキは発音が良かったと言う訳です (笑)。
この頃は佐世保市の人口 250,000 人に対し米軍が 25,000 人いましたから、そこら中にアメリカ人がいた訳です。 中学生の時、アメリカ人から名前を聞かれたので 「 My name is JUN 」 と答えたら 「 Oh! roku gatsu desune 」 と返って来たので、互いに笑い合ったりしました。 What is your name ? より May I know ( or have ) your name ? の方が丁寧だとか、ウォーターはワラ、サウザンドはターズン 、1900 はワンターズン・ナインハンドレッドと言わないで、ナインティーン・ハンドレッドと言うなど実地で覚えたのですから、英会話習得の環境としては抜群だったのに ・・・ 。
米海軍の戦艦が入港すると 3,000 人近くの米兵がボーナスを貰って上陸して来ます。 ホテルで、単位 300 人くらいで歓迎パーティーが開かれます。 そのパーティーや、外人専用ライブバー、ビアホールなどで、私はバンドをやっていました。 アメリカ人の前で英語の歌を歌うと言う、今考えればとんでもない事を 19 才の青年達が平気でやっていたのです。 アメリカ人は陽気でパーティー上手です。 へたくそな学生バンドでも、酔っぱらって文句ひとつ言う事なく、逆に盛り上げてくれて助かりました。
リクエストが多かったのは、カントリー & ウエスタンとジャパニーズ・ソングです。 特にカントリー & ウエスタンはリクエストが多く、きっと生まれ故郷の事でも思い出す、日本で言う民謡的なものでしょうか。 ジャパニーズ・ソングは異文化に触れたいという事でしょう。 当時、私達はビートルズをメインにロックしか演っていなかったので、ごまかすのに一苦労でした (笑)。
この頃、流行っていた飲み物はコークハイ。 米兵は特別ボーナスを貰っているし、若い ( 20 才前後 ) のでストレス発散の豪遊です。 当時の日本人の月給分 ( 2 万円 ) を一晩で使ってしまいます。 私達が飲んでいたのは、ウォッカをセブンアップで割った " ウォッカセブン " どちらも透明な飲み物だから、外見は水を飲んでいる様に見えるので未成年でも大丈夫って訳です ( 時効です )。 バーのお姉さんに教わった飲み物で、勿論お姉さんの奢りです (笑)。
'60 年代、日本人がファミリーカーとして、トヨタ・パブリカ や マツダ・ファミリア、三菱・ミニカ、スバル・360、ホンダ・N360 にやっと乗れる様になった頃、奴らは 8 気筒、排気量 4.0L ~ 8.0L ですからね、燃料タンクに穴を開けて走っていた様なものです。 基地 ( ベース ) 内のクラブやマーケットに行っても物量 ( 中でも缶詰類 ) は圧倒的でした。 日本の様にチマチマしてなく、全てに於いて重厚長大です。
小学生になる前の小さい子供達が、街で米兵に付きまとい 「 テニエン・テニエン 」 と言っていました。 私も小学生の低学年、英語なんて知りません 「 手に円・手に円 」 と言ってお金をせびっていると思っていました。 「 10 円・10 円 」 と言っていたんだと分かったのは、しばらく後の事です。 当時のガキは発音が良かったと言う訳です (笑)。