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1976年 5月 22日

2020-05-22 00:00:00 | Ham Radio
 1976年 5月 22日、44 年前の今日、JARL の歴史に残る 一大イベントが行われました。 私は当時、傍観者だったので、それら周辺の事情には詳しくありませんでした。 OM 達が、その件に付いて、推進派と反対派に分かれて、侃々諤々の議論を戦わせていました。 この、沖ノ鳥島 ( 7J1RL ) 事件は ( 敢えて ” 事件 ” とします ) DX 界を二分したのです。

 私はノンポリでした。 何がどうなっているのか、自分の意見すら持っていなかったので、ただ、見ているだけだったと思います。 いまだに、誰が推進派で、誰が反対派だったのか記憶にありません。

 JARL の創立 50 周年記念行事として、沖ノ鳥島から QRV しようと言うのです。 その事自体は何ら問題はなかったのですが、ここを ニュー・カントリーにしようとしたから、問題が起きました。

 沖ノ鳥島は ARRL の DXCC カントリー規定に合致していないのです。 ここで政治的な大きな動きがありました。 JARL の会長が、ARRL のゼネラル・マネージャーであった、リチャード・ボールドウィン ( W1RU ) 氏に、ルールを曲げて特別扱いで認めてくれる様に迫ったのです。 元々 JD1 ( 小笠原 ) もグレー・カントリーです。

 ARRL は当初、認めないと突っぱねましたが、JARL の粘りに負けて、ルール違反を承知の上で、JARL 創立 50 周年記念のサプライズとして、沖ノ鳥島を新しいカントリーとして認めると声明を出しました。 ボールドウィン氏も ARRL 内で窮地に立たされたと言います。 沖ノ鳥島が、ボールドウィン・カントリーと言われる所以です。

 賛否両論の中、1976年 5月 22日に 7J1RL のペディションがスタートします。 5月 30日 9時 12分、ようやく沖ノ鳥島から電波が発信され 6月 2日まで、73 カントリー・ 8931 局 ( うち日本国内 6463 局・海外 2468 局 ) と交信して終了しました。

 この時、反対派の手によると思われる妨害電波が執拗に出されたほか、アンカバ局も出現し大混乱になります。 しかも、72 % が JA との交信だったため、内外から悪評がもたらされました。

 その 2 年後 JF1IST/7J1 が単独で QRV しました。 都合、この 2 回だけが 7J1 としてカウントされます。 沖ノ鳥島は、1980年 11月 30日をもって消滅カントリーとなり、以後は JD1 として扱われることになりました。 JD1 ( 小笠原 ) になった沖ノ鳥島からは、 JF1IST/JD1 , JQ1SYQ/JD1 の QRV がありました。

 1976年 9月 25日 ~ 26日には、第 2 回全日本ハムベンションが、静岡県・朝霧高原において開催されます。 JARL は創立 50 周年を記念しこれを後援。 26日には 三笠宮宜仁親王殿下 がご来臨されました。 また記念局 8J2HAM が運用されています。 私はこの時  JARL の取材班として記録映画作成のお手伝いをし、スタッフとしてクレジットされています。 生まれて初めての感謝状とやらも頂きました。 いい想い出です。

 


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