○原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書) 岩波書店 2015.9
昭和天皇の事蹟・言動を記録した「昭和天皇実録」は、24年間かけて編纂され、天皇皇后両陛下に奉呈された後、2015年3月に公刊された。出版元は東京書籍であるとか、在位中だけでなく、明治34年(1901)の生誕から崩御、葬儀、陵墓の登録までが記録されていることは、本書の冒頭に記されている。貴重な歴史資料であることは間違いないが、本編だけで60巻となると、気軽に購入して読んでみるわけには行かない。まずは本書で、注目ポイントだけ教えてもらおうと思った。
本書は、年代順に「実録」を読んでいく。幼少期(明治時代)については、昭和天皇が、保母や乳母を含め「女」の存在感が大きい環境で育ったことを指摘する。大正期には、立太子礼、成年式を終える。伝統的な宮中祭祀への参加が求められるようになる一方で、訪欧し、ローマ法王に面会し、「和風」と「洋風」の間で揺れ動く。即位とともに明らかになってくるのは実母(皇太后)との確執である。このへんは同じ著者の『皇后考』や『松本清張の「遺言」:『神々の乱心』を読み解く』を思い出しながら読む。特に新しい発見はなく、旧説を裏書きするような記述が続く。
興味深かったのは、祭祀や参拝の「御告文(ごこうもん)」がそのまま収録されていることだ。関東大震災からの帝都復興完成式典で、二・二六事件に際して、日中戦争(支那事変)に関して、昭和天皇は皇祖皇宗に申し述べる。「~と恐み恐みも白す」が決まり言葉。
1941年12月8日、太平洋戦争の開戦にあたっては、一方に臣民に向けた「詔書」がある。これも文語体で、難しい漢字熟語が並び、とっつきにくいものだが、翌日、宮中三殿で奏された「御告文」は、いっそう居心地が悪い。私は日本の古代神話や歌謡が好きなので、こういう古代的な文体が近代政治の中で生きていることに気味悪さを感じる。「海に陸に空に射向かふ敵等を速に伐平らげ」云々とある。その後も、1942年12月には伊勢神宮に参拝して必勝を祈り、終戦間近の1945年7月末には、宇佐神宮と香椎神宮に勅使を使わし、相変わらず「有らむ限りを傾竭して敵国を撃破り事向けしめむ」と激しい言葉で祈っている。ただし著者は、戦争継続を願っていた主体は、天皇ではなく皇太后ではないかと考えている。ポツダム宣言受諾の「聖断」から戦後にかけて、天皇は皇太后を軽井沢に疎開させることで、なんとか政治から遠ざけようと画策していたようだ。
戦後の天皇について、戦争責任はなく、したがって退位を考えたこともない、というスタンスを「実録」はとっている。この意味は、「実録」もひとつの政治的立場から編纂された資料であるということだろう。今ではあまり語られないが、戦後の天皇は、カトリックに強く接近した時期があり、退位のかわりに改宗という責任の取り方を考えていたのではないか、と著者は推測している。そんなことがあり得るのか?と驚くが、篤く仏教を信仰した天皇もいたのだから、カトリック教徒の天皇がいてもいいのかもしれない。
本書を読む限り、戦後の天皇の事蹟は、戦前ほど詳しくなく、社会的・歴史的に重要な事件があったときも、特に記述がないという解説が目立つ。政治的な天皇の地位が変わったこともあるが、関係者が存命のため、いろいろ差しさわりがあって、収録を控えた資料もあるのではないか。戦後編の公刊は、もう少し待ってもよかったのかもしれない。
いつか「平成天皇実録」も公刊されるのだろうけど、今上天皇がどのような言葉で、皇祖皇宗に対し、日本のあるべき姿を祈っているのかはとても興味がある。
昭和天皇の事蹟・言動を記録した「昭和天皇実録」は、24年間かけて編纂され、天皇皇后両陛下に奉呈された後、2015年3月に公刊された。出版元は東京書籍であるとか、在位中だけでなく、明治34年(1901)の生誕から崩御、葬儀、陵墓の登録までが記録されていることは、本書の冒頭に記されている。貴重な歴史資料であることは間違いないが、本編だけで60巻となると、気軽に購入して読んでみるわけには行かない。まずは本書で、注目ポイントだけ教えてもらおうと思った。
本書は、年代順に「実録」を読んでいく。幼少期(明治時代)については、昭和天皇が、保母や乳母を含め「女」の存在感が大きい環境で育ったことを指摘する。大正期には、立太子礼、成年式を終える。伝統的な宮中祭祀への参加が求められるようになる一方で、訪欧し、ローマ法王に面会し、「和風」と「洋風」の間で揺れ動く。即位とともに明らかになってくるのは実母(皇太后)との確執である。このへんは同じ著者の『皇后考』や『松本清張の「遺言」:『神々の乱心』を読み解く』を思い出しながら読む。特に新しい発見はなく、旧説を裏書きするような記述が続く。
興味深かったのは、祭祀や参拝の「御告文(ごこうもん)」がそのまま収録されていることだ。関東大震災からの帝都復興完成式典で、二・二六事件に際して、日中戦争(支那事変)に関して、昭和天皇は皇祖皇宗に申し述べる。「~と恐み恐みも白す」が決まり言葉。
1941年12月8日、太平洋戦争の開戦にあたっては、一方に臣民に向けた「詔書」がある。これも文語体で、難しい漢字熟語が並び、とっつきにくいものだが、翌日、宮中三殿で奏された「御告文」は、いっそう居心地が悪い。私は日本の古代神話や歌謡が好きなので、こういう古代的な文体が近代政治の中で生きていることに気味悪さを感じる。「海に陸に空に射向かふ敵等を速に伐平らげ」云々とある。その後も、1942年12月には伊勢神宮に参拝して必勝を祈り、終戦間近の1945年7月末には、宇佐神宮と香椎神宮に勅使を使わし、相変わらず「有らむ限りを傾竭して敵国を撃破り事向けしめむ」と激しい言葉で祈っている。ただし著者は、戦争継続を願っていた主体は、天皇ではなく皇太后ではないかと考えている。ポツダム宣言受諾の「聖断」から戦後にかけて、天皇は皇太后を軽井沢に疎開させることで、なんとか政治から遠ざけようと画策していたようだ。
戦後の天皇について、戦争責任はなく、したがって退位を考えたこともない、というスタンスを「実録」はとっている。この意味は、「実録」もひとつの政治的立場から編纂された資料であるということだろう。今ではあまり語られないが、戦後の天皇は、カトリックに強く接近した時期があり、退位のかわりに改宗という責任の取り方を考えていたのではないか、と著者は推測している。そんなことがあり得るのか?と驚くが、篤く仏教を信仰した天皇もいたのだから、カトリック教徒の天皇がいてもいいのかもしれない。
本書を読む限り、戦後の天皇の事蹟は、戦前ほど詳しくなく、社会的・歴史的に重要な事件があったときも、特に記述がないという解説が目立つ。政治的な天皇の地位が変わったこともあるが、関係者が存命のため、いろいろ差しさわりがあって、収録を控えた資料もあるのではないか。戦後編の公刊は、もう少し待ってもよかったのかもしれない。
いつか「平成天皇実録」も公刊されるのだろうけど、今上天皇がどのような言葉で、皇祖皇宗に対し、日本のあるべき姿を祈っているのかはとても興味がある。