○神奈川県立金沢文庫 御遠忌800年記念特別展『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』(2012年6月8日~7月29日)
4月に奈良博で見てきた展示の巡回展なのだが、せっかく東国まで下向いただいたのだから、と思って、また見てきた。会場のキャパシティがぜんぜん違うので、こじんまりした展示になっていた。
壁沿いの展示ケースには、仏画・仏像の名品が所狭しと並んでいて、なかなか豪華である。大和文華館の『笠置曼荼羅』は、残念ながらパネル展示になっていたけど、宝山寺の『弥勤菩薩像』(鎌倉時代)が、じっくり見られたのは嬉しかった。ただ、それぞれの仏像・仏画が、解脱上人貞慶なる人物と、どのように関わったものかは、もう少し説明があってよかったと思う。「ビジュアル」重視のあまり、それ以外の説明を切り捨てたような感じがして、ちょっと残念だった。
平ケースに展示された文書類は、ほとんどが称名寺聖教(しょうみょうじ しょうぎょう)の一部。称名寺聖教には、南都仏教に関する資料が豊富に残っているのだそうだ。面白かったのは『讃仏乗抄』といって、貞慶が起草した勧進状や供養願文などの文集。東大寺、興福寺、唐招提寺、岡寺など、実に多数の南都寺院の復興にかかわっていたことが見て取れた。
いちばん楽しみにしていたのは、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の『春日権現験記絵』巻11。奈良博展では見ることのできなかった作品である。吹き抜け屋台(屋根がない)の手法で描かれた、どこかの寺院。須弥壇には三尊仏と四天王。その前に向かい合わせに設けられた高座があり、二人の僧侶が問答(談義)を行っているらしい。下手には黒衣の僧侶の一団。上手の扉の外には、裹頭(かとう)した僧の一団が控える。その中に、三人くらい、裹頭(かとう/かしらづつみ)から、長い黒髪を垂らした稚児(?)が混じっている。
ああ、この場面は、ずいぶん昔、見たことがあって、稚児の黒髪を、背後の僧侶がなぶっているのは、男色関係をあらわす、という論文があったんじゃなかったっけな。私の場合、絵画資料って面白いんだなーと思うきっかけになったのが、忘れていたが、この『春日権現験記絵』巻11だった。
会場に奈良博『解脱上人貞慶』展の目録が置いてあったので読んでみたら、これは興福寺の談義の場面だという。言われてみれば、須弥壇上に文殊像と維摩居士像らしきものが見える。この建物は興福寺金堂か! そのあと、森の中の鳥居(そばに鹿がいる)のもとに立札が立っていたのは、春日明神の本宮遷御の夢想を告げるもので、ラストシーン、雲に乗って鳥居をくぐり、、やってくる僧形の人物は、春日明神らしい。角髪(みずら)の童子が蓋を差しかけ、背後には、華やかな飛天でなく、烏帽子・指貫(さしぬき)姿の男衆ばかりを引き連れているのが面白い。彼らは何者? 春日信仰って、いろいろと興味が尽きない。
地蔵菩薩像の解説に「春日野の地下には地獄があると言われ」とあったのも気になったので、調べたら、春日大社の公式ホームページに「春日の神様は慈悲深い神様で、春日社に縁のあった人は、罪があっても普通の地獄には落とさず、 春日野の下に地獄を構えて、毎日罪人に水を注がれてその苦しみをやわらげられた」と説明されていた。それは、普通の地獄に行くより嬉しいんだろうか…。
※参考:国立国会図書館デジタル資料「春日権現験記. 第11軸」
明治3年(1870)の模写。第12/21図に上述の場面あり。ただし、髪を握られた稚児ひとりしか描かれていない。三の丸尚蔵館本(原本、鎌倉時代)では、三人確認できたと思う。
4月に奈良博で見てきた展示の巡回展なのだが、せっかく東国まで下向いただいたのだから、と思って、また見てきた。会場のキャパシティがぜんぜん違うので、こじんまりした展示になっていた。
壁沿いの展示ケースには、仏画・仏像の名品が所狭しと並んでいて、なかなか豪華である。大和文華館の『笠置曼荼羅』は、残念ながらパネル展示になっていたけど、宝山寺の『弥勤菩薩像』(鎌倉時代)が、じっくり見られたのは嬉しかった。ただ、それぞれの仏像・仏画が、解脱上人貞慶なる人物と、どのように関わったものかは、もう少し説明があってよかったと思う。「ビジュアル」重視のあまり、それ以外の説明を切り捨てたような感じがして、ちょっと残念だった。
平ケースに展示された文書類は、ほとんどが称名寺聖教(しょうみょうじ しょうぎょう)の一部。称名寺聖教には、南都仏教に関する資料が豊富に残っているのだそうだ。面白かったのは『讃仏乗抄』といって、貞慶が起草した勧進状や供養願文などの文集。東大寺、興福寺、唐招提寺、岡寺など、実に多数の南都寺院の復興にかかわっていたことが見て取れた。
いちばん楽しみにしていたのは、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の『春日権現験記絵』巻11。奈良博展では見ることのできなかった作品である。吹き抜け屋台(屋根がない)の手法で描かれた、どこかの寺院。須弥壇には三尊仏と四天王。その前に向かい合わせに設けられた高座があり、二人の僧侶が問答(談義)を行っているらしい。下手には黒衣の僧侶の一団。上手の扉の外には、裹頭(かとう)した僧の一団が控える。その中に、三人くらい、裹頭(かとう/かしらづつみ)から、長い黒髪を垂らした稚児(?)が混じっている。
ああ、この場面は、ずいぶん昔、見たことがあって、稚児の黒髪を、背後の僧侶がなぶっているのは、男色関係をあらわす、という論文があったんじゃなかったっけな。私の場合、絵画資料って面白いんだなーと思うきっかけになったのが、忘れていたが、この『春日権現験記絵』巻11だった。
会場に奈良博『解脱上人貞慶』展の目録が置いてあったので読んでみたら、これは興福寺の談義の場面だという。言われてみれば、須弥壇上に文殊像と維摩居士像らしきものが見える。この建物は興福寺金堂か! そのあと、森の中の鳥居(そばに鹿がいる)のもとに立札が立っていたのは、春日明神の本宮遷御の夢想を告げるもので、ラストシーン、雲に乗って鳥居をくぐり、、やってくる僧形の人物は、春日明神らしい。角髪(みずら)の童子が蓋を差しかけ、背後には、華やかな飛天でなく、烏帽子・指貫(さしぬき)姿の男衆ばかりを引き連れているのが面白い。彼らは何者? 春日信仰って、いろいろと興味が尽きない。
地蔵菩薩像の解説に「春日野の地下には地獄があると言われ」とあったのも気になったので、調べたら、春日大社の公式ホームページに「春日の神様は慈悲深い神様で、春日社に縁のあった人は、罪があっても普通の地獄には落とさず、 春日野の下に地獄を構えて、毎日罪人に水を注がれてその苦しみをやわらげられた」と説明されていた。それは、普通の地獄に行くより嬉しいんだろうか…。
※参考:国立国会図書館デジタル資料「春日権現験記. 第11軸」
明治3年(1870)の模写。第12/21図に上述の場面あり。ただし、髪を握られた稚児ひとりしか描かれていない。三の丸尚蔵館本(原本、鎌倉時代)では、三人確認できたと思う。