見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

春日ゆかりの/解脱上人貞慶(金沢文庫)

2012-07-17 23:46:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 御遠忌800年記念特別展『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』(2012年6月8日~7月29日)

 4月に奈良博で見てきた展示の巡回展なのだが、せっかく東国まで下向いただいたのだから、と思って、また見てきた。会場のキャパシティがぜんぜん違うので、こじんまりした展示になっていた。

 壁沿いの展示ケースには、仏画・仏像の名品が所狭しと並んでいて、なかなか豪華である。大和文華館の『笠置曼荼羅』は、残念ながらパネル展示になっていたけど、宝山寺の『弥勤菩薩像』(鎌倉時代)が、じっくり見られたのは嬉しかった。ただ、それぞれの仏像・仏画が、解脱上人貞慶なる人物と、どのように関わったものかは、もう少し説明があってよかったと思う。「ビジュアル」重視のあまり、それ以外の説明を切り捨てたような感じがして、ちょっと残念だった。

 平ケースに展示された文書類は、ほとんどが称名寺聖教(しょうみょうじ しょうぎょう)の一部。称名寺聖教には、南都仏教に関する資料が豊富に残っているのだそうだ。面白かったのは『讃仏乗抄』といって、貞慶が起草した勧進状や供養願文などの文集。東大寺、興福寺、唐招提寺、岡寺など、実に多数の南都寺院の復興にかかわっていたことが見て取れた。

 いちばん楽しみにしていたのは、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の『春日権現験記絵』巻11。奈良博展では見ることのできなかった作品である。吹き抜け屋台(屋根がない)の手法で描かれた、どこかの寺院。須弥壇には三尊仏と四天王。その前に向かい合わせに設けられた高座があり、二人の僧侶が問答(談義)を行っているらしい。下手には黒衣の僧侶の一団。上手の扉の外には、裹頭(かとう)した僧の一団が控える。その中に、三人くらい、裹頭(かとう/かしらづつみ)から、長い黒髪を垂らした稚児(?)が混じっている。

 ああ、この場面は、ずいぶん昔、見たことがあって、稚児の黒髪を、背後の僧侶がなぶっているのは、男色関係をあらわす、という論文があったんじゃなかったっけな。私の場合、絵画資料って面白いんだなーと思うきっかけになったのが、忘れていたが、この『春日権現験記絵』巻11だった。

 会場に奈良博『解脱上人貞慶』展の目録が置いてあったので読んでみたら、これは興福寺の談義の場面だという。言われてみれば、須弥壇上に文殊像と維摩居士像らしきものが見える。この建物は興福寺金堂か! そのあと、森の中の鳥居(そばに鹿がいる)のもとに立札が立っていたのは、春日明神の本宮遷御の夢想を告げるもので、ラストシーン、雲に乗って鳥居をくぐり、、やってくる僧形の人物は、春日明神らしい。角髪(みずら)の童子が蓋を差しかけ、背後には、華やかな飛天でなく、烏帽子・指貫(さしぬき)姿の男衆ばかりを引き連れているのが面白い。彼らは何者? 春日信仰って、いろいろと興味が尽きない。

 地蔵菩薩像の解説に「春日野の地下には地獄があると言われ」とあったのも気になったので、調べたら、春日大社の公式ホームページに「春日の神様は慈悲深い神様で、春日社に縁のあった人は、罪があっても普通の地獄には落とさず、 春日野の下に地獄を構えて、毎日罪人に水を注がれてその苦しみをやわらげられた」と説明されていた。それは、普通の地獄に行くより嬉しいんだろうか…。

※参考:国立国会図書館デジタル資料「春日権現験記. 第11軸」
明治3年(1870)の模写。第12/21図に上述の場面あり。ただし、髪を握られた稚児ひとりしか描かれていない。三の丸尚蔵館本(原本、鎌倉時代)では、三人確認できたと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あせらず、無理せず/こぐこぐ自転車(伊藤礼)

2012-07-16 10:34:10 | 読んだもの(書籍)
○伊藤礼『こぐこぐ自転車』(平凡社ライブラリー) 平凡社 2011.1

 本書を見つけて、おや、これは文庫になっていたのか、と思った。単行本は2005年刊。しかし、私が本書を知ったのは、それほど前のことではない。たぶん、この1年以内。たまたまエッセイの棚、しかも比較的「中高年向き」エッセイの多い棚で読むものを漁っていたとき、本書のもとになった単行本が目にとまった。特に自転車に興味があったわけでもなく、伊藤礼という名前も知らなかったのだが、ふと手が伸びて、パラパラめくって読んでみたら、面白かった。こういう魅力的な本を探し当てる直感は、われながら、ときどき自慢したくなる。

 およそスポーツに縁のなかった還暦過ぎの老教授が、自転車の魅力に目覚め、ついには同好の仲間たちと北海道自転車旅行に出かけるまでになってしまうという、にわかには信じがたい、体験的エッセイ。文章がきびきびして、適量のユーモアに品があって、気持ちいい。著書に『伊藤整氏奮闘の生涯』があるのを見て、あ、小説家・伊藤整の息子さんなのか、と納得した。ただ、そのときは他に読みたい本が詰まっていたので、胸の内のリストに、本書のタイトルと所在を加えただけで、買わずに帰った。そうしたら、同じ書店で、この文庫本を見つけることになった。

 嘘かマコトか、自転車に乗るといえば、家から三百メートル離れた郵便局に行く時だけだった著者は、定年を直前にして、片道12.5キロ離れた職場まで、自転車で行ってみようと思い立つ。車道を走れば、ビュンビュンとばす自動車とバイク、歩道を走れば、道の狭さと凸凹、さらには排気ガスや肉体の苦痛にも悩まされ、帰宅したときは「トロイ戦争から帰ってきたオデッセウスの気持ち」になっていたという。しかし、それから自転車に乗る面白さを覚えた著者は、3年間で6台の自転車を所有する身となり、東京近郊サイクリングに飽き足らず、箱根を越え、碓氷峠を目指し、折り畳み自転車を担いで、北海道まで遠征を果たす。

 冒頭に近い一編「自転車が順繰りに増えて六台になった話」は、著者の所有する自転車の特徴、性能、メーカー、型式、なぜそれを購入するに至ったか、が詳しく語られている。これはちょっと、読み手を選ぶ内容かもしれない。私は鉄道も好きだが、完全な「乗り鉄」なので、あまり詳しい車両分類には興味がない。同様にこの一編には、やや退屈したが、以下の自転車走行編を読むための基礎知識と思ってガマンした。

 自転車走行編としては「都内」「房州サイクリング」「碓井峠」「北海道」などが取り上げられている。ひとりで走るときもあるし、友人と一緒、あるいは数人のグループで出かけることもある。趣きとしては、百間先生の「阿房列車」に似たところもあるかな。こっちのほうが肉体派で、ワイルドだけど。でも、基本的に無理はしない。年相応に夜は旅館に泊まる。温泉にも入り、美味しいものも食べる。疲れたら休む。具合が悪くなれば、先途を断念して引き返す。

 多摩川の土手で、「ア!これが多摩川ですか!」と驚く青年(東京の大学に入って、地方から出てきたばかり)に出会う話とか、北海道で本格派チャリダー(自転車(チャリンコ)で旅をする人)に会って「壮士ひとたび去ってまた還らず」の趣きを感じるところとか、人間味のある印象的なエピソードにも事欠かない。

 あと、実は著者の住まいは私の実家の近所で、著者が脚力養成のために設定したルートの終着点、西新宿一丁目交差点というのは、私の現住居の近くである。むかし(もう20年くらい前か)ほぼ同じルートを私も自転車で何度か往復したことがあるので、懐かしく思い出した。さらに「碓井峠を目指す」編では、川越~東松山~武蔵嵐山~寄居と、これも一時期、東武東上線の奥地に住んでいた自分には懐かしい地名の羅列だった。このとき、著者は寄居のビジネスホテルに入ったところで心臓に異常を感じ、宿泊せずに東京に引き返している。

 しかし、気をつけてはいても、怪我はつきもの。著者は、さらりと書き流しているが、転倒したとか救急車に乗ったとか、ホチキスで縫合したとかいう話も、ところどころに出てくる。ひえ~。私は、こういう話が怖いので、思わず数行読み飛ばして、目に入らないようにするのだが、伊藤先生、気をつけて、どうぞお元気で(もはや古希を通り越して喜寿!)ペダルをこぎ続けてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵画と文献と考古学/江戸の城づくり(北原糸子)

2012-07-15 23:52:28 | 読んだもの(書籍)
○北原糸子『江戸の城づくり:都市インフラはこうして築かれた』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2012.6

 北原先生のお名前は、災害史や災害メディア史(瓦版とか鯰絵とか)の専門家として認知していたので、へえ、こんな研究もなさっていたのかと、ちょっと驚いた。もっとも本書は『江戸城外堀物語』のタイトルで、1999年「ちくま新書」の1冊として刊行されたもの。ちくま文庫は、最近、こういう改題再刊が多い気がする。

 本書は、地下鉄南北線工事に伴う江戸城外堀の発掘調査の報告書(地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会刊)のデータをもとに、江戸城外堀が、なぜ、どのように築かれたかを考える。その原点は、寛永13年(1636)の江戸城外堀普請にある。石垣を築く万石以上の西国大名60家と、堀を築く東国大名45家を動員した「天下普請」と呼ばれる大普請だった(ちなみに東国の大名は石積みの経験に乏しかった)。

 へえー。日本史の常識のない私には、初めて知る話で、いろいろ驚いてしまった。まず、徳川将軍が号令をかけると、「戦争のため」だけでなく「土木工事のため」でも、全国の大名たちを動員できたということにびっくりした。「そんなの嫌だ」「話が違う」などとゴネる奴はいなかったのか…。動員される大名の側では、戦闘能力とは全く異なる技術力(石材やマンパワーを調達し、運搬だの資材置場だのを管理運用する能力を含め)が必要だったわけで、よく対応できたなあと思う。いや、そこは意外と戦闘のロジスティックス(兵站管理)が応用できたのかもしれない。また、自分の住んでいる「東京」の原型が、全国数多の大名家の合力によってつくられた、ということに、ちょっと感動した。

 特に「枡形」と呼ばれる目立つ構造物を請け負うことは、名誉な「見せ場」を与えられることだった。都心のところどころに残る枡形の記憶を思い起こし、四谷駅前の枡形は毛利氏かー、飯田橋駅前の牛込枡形は阿波の蜂須賀氏なのかーなど、感慨にふけった。

 本書には、外堀普請に先立つ、いくつかの城郭普請の事例も取り上げられている。江戸城、大阪城、二条城など。いずれも多数の大名の「手伝普請」で成ったものだ。著者によれば、現在でも二条城の石垣には「石積みの巧拙の差を面白く眺められる」と言う。マニアックな楽しみ方だなあ。今度、近くに行ったら、気をつけて見てみよう。

 外堀普請に必要となる石材は、伊豆の石丁場で切り出され、帆船で江戸に運ばれたという。本書には、箱根湯本の和泉屋旅館の玄関には『石曳図屏風』なるものが飾られているとある(→日帰り温泉「和泉」のことらしい。見たいな)。慶長11年(1606)の江戸城普請では、たくさんの石舟が海に沈んだ記録があるそうだ。そりゃあそうだろうなあ、と思う。

 堀の普請は、石垣よりさらに大変そうに感じた。自分の割り当て場を着実にこなすだけでなく、隣接する組と、よく調整を図らなければならない。石垣の資材搬入も難事業だったろうが、堀を掘削したあとの残土処理も大問題だったようだ。これについては、考古学調査によって、残土の再利用(町地造成)が図られたことが分かっている。逆に言うと、これらを元に戻してみると、「天下普請」以前の江戸の地形図も正しく見えてくる。

 考古学調査+絵画資料+文献資料への、分け隔てない目配りが楽しい。これからの歴史学はこうでないと。ちょうど見てきたばかりの、出光コレクション『江戸名所図屏風』に触れた箇所があったのは、思わぬ偶然。まるで祭礼図のような『築城図屏風』(名古屋市博物館)は、一度くらい見ていそうだが、記憶にない。あらためて見てみたい。それから藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』は、読みたいものリスト入り。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京の祭、江戸の祭/祭 MATSURI(出光美術館)

2012-07-14 21:48:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 日本の美・発見VII『祭 MATSURI -遊楽・祭礼・名所』(2012年6月16日~7月22日)

 17世紀初めに誕生した「近世初期風俗画」と呼ばれるジャンルから、特に祭礼や芸能を題材とする絵画を選び、その舞台となった「場」(社寺、景観)に注目して魅力を探る展覧会。

 出光コレクションの近世初期風俗画には、大好きなものがたくさんある。描写が細密で、内容豊富なので、何度見ても飽きない。本当をいうと、こういう作品は、パソコンの画面で、隅から隅まで好き放題にいじり倒したい。冒頭の狩野宗秀筆『洛中名所図扇面貼付屏風』(桃山時代)は、いいなあ。人の姿が小さくて、「人の世離れ」した平和な時間がまったりと流れている。神戸市立博物館の『都の南蛮寺図』の一具。以前、東京美術倶楽部の記事にも書いたことがある。

 『祇園祭祭礼図屏風』を初めて見たときは、祇園祭を全く知らなかったので、何もかも驚きだったが、いま見ると、現代に引き継がれている山鉾の姿に感慨を覚える。船鉾だーとか、浄妙山だーとか。母衣(ほろ)武者はこの時代だけの風俗だろうと思っていたが、まだ見たことのない花傘巡行(7/24)には登場するらしい。見たい! なお、さりげないパネル解説に、長刀鉾と船鉾の位置に注目すると、屏風絵の視点が、どの通りからどの方角を向いて描かれているか分かる、という図解があって、面白かった。

 第2章では、京都の祇園祭と江戸の三社祭を見比べてみると、後発の江戸の祭が、文化の先進都市・京都を意識していたことが分かる。でも私は東京人なのに、祇園祭には何度か行ったことがあるが、三社祭は全く体験したことがないのだ。どの程度、古い風俗を残しているんだろう? 今度、調べてみよう。『江戸名所図屏風』(寛永期)は、人々の表情が活気にあふれた楽しい屏風。江戸博から直行だったので、日本橋はどこかな!?と、まず探してしまった。もちろん、ちゃんと描かれてました(右隻の端っこ)。

 第3章の邸内遊楽図も見覚えがあったが、第4章の歌舞伎・浄瑠璃関係の屏風は、初見のものが多かった。延宝期(17世紀後半)の『浄瑠璃芝居看板絵屏風』は、金平浄瑠璃とよばれる、素朴で無骨な物語を絵にしたものらしく、絵の中では、あっけらかんと首が飛んだり、胴体が叩き斬られたりしている。元禄期の『歌舞伎図屏風』は、舞台上の整然とした様式美(右隻)と、ゴッタ返す舞台裏の様子(左隻)を対比的に描いていて面白かった。

 ほかに陶磁器、能面、蒔絵の弁当箱や化粧道具、簪・笄などが展示されていて、描かれた非日常空間を、華やかに盛り立てている。柿右衛門の色絵狛犬(ペア)が可愛くて、カラフルな水玉模様が原宿系だと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木橋から石橋へ/日本橋(江戸東京博物館) 

2012-07-13 23:33:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 開館20周年記念特別展『日本橋 描かれたランドマークの400年』(2012年5月26日~7月16日)

 私事(わたくしごと)から書いておくと、小学生の頃、私は『ウルトラマン』に出てきた怪獣ドドンゴが好きだった。ウルトラマンシリーズには珍しい、麒麟をモチーフにした四足の怪獣だった。あるとき、父の車で都心に出かけて、ぼんやり外を見ていたら、ある橋の街灯の根元にドドンゴが蹲っている(それもペアで!)のを見つけて、がばと車窓にかじりついてしまった。父だったか母だったかが、「日本橋だよ」と教えてくれた。以来、今でも私にとって日本橋は、ひそかに怪獣ドドンゴの橋なのである。あの麒麟のブロンズ像が、ある日突然巨大化し、東京の街を暴れまわる様子を夢見ることがある。

 閑話休題。本展は、慶長8年(1603)に架橋され、江戸・東京の象徴として愛されてきた日本橋の姿を、絵画を中心とした資料の中に探る展覧会。冒頭には、時代不同で、江戸の有名絵師たちが描いた日本橋の図が勢ぞろいする。北斎、広重、国貞、鍬形斎、それに渓斎英泉など。

 影からくり絵巻『隅田川風物図巻』は、本紙の一部を切り抜いて薄紙を張り、後ろから光を当てて、透過光の効果を楽しむもの。花火、提灯、障子に映る人影など芸が細かい。それから、なぜか版本『解体新書』があって、おや『解体新書』の版元って須原屋なんだ、と書誌事項に目がとまった。そうしたら、革新的な出版を多く手掛けた須原屋市兵衛の店は、日本橋室町にあったのだそうだ。

 続いて、多くの絵画資料に基づき、描かれた日本橋の風景・風物を見ていく。私は東京育ちにもかかわらず、日本橋の東西南北がよく分かっていなかった。橋は、西→東に流れる川(日本橋川っていうのか!)の上に南北に架かる。絵画では東側に視点をおき、橋の西側の遠景に富士山(左)と江戸城(右)を入れる構図が定番。なるほど、なるほど。橋の北側には魚市場で、南詰西側には高札場があった。いま、ネットで調べたら、南詰東側には刑場(さらし場)があったらしいが…これは会場で触れていたかしら。

 第3章、時代は幕末から明治に移り変わる。この端境期の絵画資料がなかなか面白い。明治6年(1873)には、近世の太鼓橋(ただし絵画資料によっては反りが強調され過ぎている)から、フラットな西洋型木橋に架け替えられ(擬宝珠が無くなっている!)、明治15年(1882)には鉄道馬車が敷設される。早い時期の絵画では、洋装の令嬢と棒手振(ぼてふり)の兄ちゃんがすれ違っていたり、乗り合い馬車にちょん髷のお爺さんが座っていたり、カオスな光景が見られる。高札場は、かなり後の時代まで残っていたんだな。当時の洋装婦人服や人力車(ある貴族院議員の個人宅用)の展示が珍しかった。

 日本橋の南側にできた銀座煉瓦街のレンガも展示されていた。レンガ自体は赤色だが、街並みは、ストゥッコ(漆喰)仕上げを用いていたので、白っぽかったという解説があったと思う。江戸博の常設展示場の朝野新聞社みたいな感じか。

 第4章、明治44年(1911)に開通したのが現在の石造の日本橋である。明治の絵葉書には、すでに怪獣ドドンゴ、いや、青銅の麒麟が、今と同じポーズで描かれている。「三代三夫婦渡り初め」なんていう習慣があったのか。へえーと思ったら、2011年の「日本橋架橋百年祭」でも再現されていたようだ。考えてみると、この橋は、大正12年(1923)の関東大震災や、さきの戦争の激しい空襲もくぐり抜けてきたのだ。石橋って丈夫なんだなあ。塔とか城のように目立つランドマークではないけれど、土地の記憶を支える建造物なのだということを感じ、「橋好き」の私は、ちょっと嬉しかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お金だけじゃない/どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?(内田樹、高橋源一郎)

2012-07-11 23:56:26 | 読んだもの(書籍)
○内田樹、高橋源一郎『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』 ロッキング・オン 2012.6

 2010年12月刊行『沈む日本を愛せますか?』の続編。前著と同様、インタビューアーの渋谷陽一さんを加えた鼎談である。第1回(2011年冬号)だけが震災前で、その後の5回+総括対談は震災後に行われている。全編読み終えての感想は、内田さんも高橋さんも、だんだん本気で怒り始めているなあ、という感じだった。

 本書を手に取った特殊な動機を書いておこう。このところ、大阪市長の橋下徹が気になっている。私は好きではないが、大阪市民が選んだことだし、放っておけば、そのうち消える人物だろうと思って、目障りだけど傍観していた。そうしたら、文楽協会への補助金凍結問題がおおごとになって、長年の文楽ファンとして、肝を冷やしている。

 なので、第6回対談のタイトル「我々が、橋下徹を生み出した」を見て、本書を衝動買いし、この第6回から読み始めた。二人とも、橋下徹「嫌い」の立場だと思うが、単純にそう言わないのが面白い。高橋源一郎氏は、橋下徹研究のため、著書を読みまくったという。で、「だんだん好きになってきちゃったんだ」というのが可笑しい。

 「人間を信じていないってことを公言しているわけだからね」「つまり、一種の復讐譚なんだ。ルサンチマンの持ち主だよね」「『俺を後援する奴らはバカだ』っていういらだちがスピーチの中に伏流している」等々。カフカだ、『罪と罰』だ、いや『赤と黒』のジュリアン・ソレルだ!という文学的「見立て」がものすごく面白かった。橋下徹の著書も読みたくなったし、むかし読んだ『赤と黒』も、読み直してみたくなった。さらに内田さんが「(でも)シンプルな復讐譚の枠組みに自分の人生を無理に押し込んでいるところもあると思う」と喝破し、高橋さんが「そう。だんだん気の毒になってきちゃった(笑)」と応ずるあたり、おじさんは余裕だなあ、と思う。

 おじさんの余裕は、ひとつには、幅広い知識(+体験)から来るのだろう。本書第6回に紹介されているアメリカのフリースクールの実践ってすごいなあ。クラスもカリキュラムもなくて、先生たちは、生徒が何を考え何を求めているかを見守りながら、「教えて」と言われるのをずーっと待ち続けるのである。

 第5回に語られている山口県の祝島(いわいしま)の話も興味深かった。上関(かみのせき)原発建設計画に対し、30年間、反対運動を続けている。中国電力から強制的に、祝島の漁協に10億8000万円が振り込まれたこともあるが、供託しっぱなしで受け取っていないという。

 こういう話を読むと、「結局、お金でしょ?」というのは子供のリアリズムであり、「人間の価値観っていろいろあるよね」というのが大人のリアリズムである、という考え方に首肯できる。

 では、どうすれば子供のリアリズムを脱却できるか。本書には、さまざまなオルタナティブ(のヒント)が語られている。たとえば、身体の有限性の自覚とか。「おぼさんっぽい父親」像とか。もうひとつ、天皇制とか…これはさすがに驚いたけど、今の日本で経済よりも国土保全、国民の安全が第一ということを言えるのは天皇だけじゃないか、という指摘には、本気で考えさせられた。

 それから、夏目漱石が担った役割(近代日本の男性の自己形成の筋道をつけた)の話、石坂洋次郎の『青い山脈』は敗戦直後の日本のリアルな姿でなく、「戦後日本はこうあるべきだ(だった)」という、1947年時点で切望されたリアリティだった、という話も興味深く読んだ。これは、震災後(原発事故以後)の日本は「こうあるべき」というユートピアを本気で語る文学者なり政治家なりが、これから現れるのか、という問題につながってくる。「どんなに空疎な美辞麗句であっても、それで実際に何十万の人が動いたら、それはもうリアルなんだよ」というのもいい言葉だと思った。

※7/12補記:中ほどにある「中国電力」←コメントにより誤記を訂正。

祝島ホームページ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012護国寺(四万六千日)

2012-07-10 19:49:11 | なごみ写真帖
今週末の出勤の振替休を急遽取ることになって、調べたら、観音縁日の「四万六千日」に当たっていることが分かった。昨年は、浅草寺の四万六千日(ほおずき市)に詣でたので、今年は音羽の護国寺に行ってみることにした。

↓護国寺の仁王といえば、漱石の「夢十夜」。


三門前には、ぽつぽつと露店が並んでいたが、参詣の人は少なかった。そりゃあそうだな、都心の平日の昼下がりなんて。夜になると、もう少し人が出るのかしら。

本堂に上がって、本尊・如意輪観音に参拝。おお、まれに見る美しさ! 特にやわらかく曲げた右肘のあたりが…。え?これって江戸もの?と思ったら、とんでもない。平安後期のほとけ様だった。護国寺のサイトに写真がある。綱吉の生母・桂昌院の念持仏だったというが、その前の由来はどうなっているのだろう。ふだんは毎月18日に御開帳されているそうだ。

明治、大正期の火災で堂宇の多くを失ったというが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を残す。重厚な建築材、華麗な天井画、厨子、多くの伝来仏など、見どころが多い。東京国立近代美術館に寄託されている原田直次郎の『騎龍観音』は、本堂の左奥に実物大のイミテーションが掲げてあった。たぶん写真なのだろうが、だいぶ色が褪せている。

↓浅草寺と同様、「四万六千日」ご縁日の二日間だけ雷除けの護符を授与していただける。下記の伝統バージョン(500円)のほか、装飾増しバージョン(1,000円)もあり。



↓裏面。無地かとおもったが、小さな文様(梵字?)あり。如意輪観音の種字とはちょっと違う気がする。昨年、浅草寺でいただいた雷除札にも同じ文様が折り返しのところに二つ描かれていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多彩な活躍/浮世絵師 溪斎英泉(千葉市美術館)

2012-07-10 10:09:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
千葉市美術館 『浮世絵師 溪斎英泉』(2012年5月29日~7月8日)

 最終日にすべりこみで参観。私はあまり浮世絵に関心がないので、絵師の名前もそんなに多くは知らない。「溪斎英泉」という名前は、マンガ家の故・杉浦日向子さんが推していた絵師としてのみ記憶していた。念のため検索してみたら、代表作『百日紅』に池田善治郎という名前で登場しているのだという。うう、記憶にない。もう一度、買いなおして、読みなおしてみるか。

 杉浦日向子さんは、英泉の描く女性像の魅力を熱く語っていたと思う。典型的な美人ではなくて、どこか崩れた、だからこそ仇っぽく、妖艶な美人。そう思って、この展示を見に行った私は、初期の作品の中に、むさくるしい髭面の武者絵を見出して、へえ、こんな絵も描いていたのか、とちょっと驚いた。でも、男性像もなかなかいいじゃないか。

 さらに驚いたのは、多数の風景画。英泉が活躍したのは、」まさに「風景画の時代」だった、という解説に納得。広重ばりに静謐な風景を描いた作品(『周防岩国錦帯橋之図』など)もあれば、両国花火の賑わいを面白おかしく表現した『東都両国橋納涼之夜景』みたいな作品もある。どぎついピンク色が目立つのは、版元(摺師)の好みなのかな…本所の羅漢寺(のち目黒に移転した五百羅漢寺)の図とか。遠近法や蘭字枠(アルファベットもどきを文様とした枠)の使用にも、多様な文化が庶民のもとに雪崩れ込んだ時代の雰囲気を感じた。

 肝腎の美人画については、自然なポーズで描かれた女性が多いように感じた。男性の視線に媚びるためのコケティッシュに演出されたポーズではなくて、腕を組んだり、脚を投げ出したり、存在感のある肉体に仇っぽさがある。晩年の「契情道中双六」シリーズでは、文房四宝を並べた机に向かい、筆を取って思案する遊女が描かれていて、笑った。これが真実の姿なのかどうか分からないけど、それぞれ自由と個性に生きていて、よいなあ。

 全体を通して感じたのは「中国趣味」の強さである。美人図に漢詩を添える(それも法帖ふうに黒背景に白抜き)とか、花魁の衣装にも、龍や唐子図など、中国趣味がふんだんに現れる。江戸の遊郭文化(吉原だけ?)って、けっこう異国趣味=中国趣味の基地だったのではないかと思った。これはまだ印象のみ。それとも、英泉が武士の出身であることと関係があるのかしら。

 英泉が得意としたという「あぶな絵」は、ごくごくサワリのみ。まあ…展示できないだろう。まして本格的な春画になると。覗き窓をつくって展示するとか、駄目なのかな。版本の挿絵は、非常に多くを手がけていることが分かった。美術館の展示としては地味になるだろうが、このへんはもう少し見たかった。

 晩年は『考古集覧 革ぜん図考』などという楽しく美しい図録も制作刊行している。どのくらい楽しいかは、早稲田大学図書館の古典籍総合データベース(画像あり)で。あらためて書誌を確認して、版本(色刷)であることに驚いた。

 併設の所蔵作品展『モダンガール万華鏡』(2012年5月29日~7月8日)も楽しかった。これは独立企画でやってもいいのに、と思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンポジウム・発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本

2012-07-08 23:42:36 | 行ったもの2(講演・公演)
国際日本学シンポジウム「文字・表現・交流の国際日本学」セッションI『発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本』(2012年7月7日、13:00~)

 「つきあい」で聞きに行ったシンポジウムなのだが、意外に面白かったので、ここに記録しておくことにする。

 広開土王(好太王、好大王)は、4世紀末~5世紀初め、高句麗最盛期の王。広開土王碑は、次代の長寿王が、父の功績を称えるために建立した石碑であり、中国吉林省集安市に現存する。長く忘れられていたこの石碑が再発見されたのは1880年頃で、以後、多くの広開土王碑拓本が日本に将来された。今回、お茶の水女子大学で発見された拓本は、同大学の前身である東京女子高等師範学校が、1923年の関東大震災以降に購入もしくは寄贈によって入手したものと考えられているが、詳しい経緯は不明である。

 以上、比較日本学教育研究センター(主催)のセンター長・古瀬奈津子氏から趣旨説明。続いて、4件の研究発表に移る。

・武田幸男「広開土王碑の真意を求めて」

 広開土王碑研究の第一人者である武田先生からは、碑文の基礎レクチャー。冒頭から第1面6行目までが第1段(序論)で、高句麗の王統、始祖開国神話を語る。第1面7行目から第3面8行目途中までが第2段(本論)の一。王の事跡を編年体で語る。記事には「前置き文」があるものとないものの2種類があり、ある場合は、必ず「高句麗にとって困った事態」が発生し、それを王が打開した、という構造を取る。第3面8行から最後までが本論の二。守墓人の制度について述べる。

 碑文にある「永楽」は最も古い朝鮮半島の独自年号で、朝鮮は基本的に中国王朝の暦を用いていたが、時々ひそかに独自年号を用い、バレると中国に怒られている、という話も面白かった。

・徐健新「広開土王碑拓本研究とお茶の水大学本の年代」

 中国社会科学院世界歴史研究所の徐健新先生は日本語で講演。徐先生は、中国各地で広開土王碑の早期拓本(原石拓本)の探索を続けているが、最近、北京で、1881年制作の墨本(拓本)を得、その跋文に「陳本植」「李超瓊」という人名を見出した。陳本植は清朝の地方官として、民国時代の『安東省・安東県志』に名前が載る。李超瓊は陳本植の幕僚の一人。最近、その子孫が北京で生活していることが分かり(公安にいる友人を通じて調べてもらったって…さすが中国w)訪問調査の結果、李超瓊が1881年から1883年に書いた「遼左日記」なる自筆文書を発見した。

 1882年(光緒8年)の記事を数箇所、引用で示してくれたが、李超瓊が高句麗墓碑(広開土王碑)の拓本を得たこと、紙(二刀=200張)を送って再び取拓を依頼したこと、伝聞による碑の状態、取拓が困難な様子などが詳しく言及されている。すごい! 徐先生、ここで初めて発表するとおっしゃっていたけど、第一級資料の発見じゃないか。いいかな、ここに書いてしまって。

・早乙女雅博「製作技法からみたお茶の水女子大学拓本の年代」

 広開土王碑拓本の類型と年代判定について、武田幸男先生が「墨の付かない空白部の着墨パターン」、徐健新先生が「石灰補修碑字の字形比較」という手法を用いていることは、著書を通じて知っていたので、両氏が、それぞれの方法論に基づき、新出のお茶大本を1920年代中後期の制作と判断されたのは予想の範囲内だった。ここで、早乙女雅博先生から、全く新たな年代測定法が示される。それは「小拓紙の大きさと継ぎ貼り方」だという。

 広開土王碑は全長6メートルを超す巨大な石碑なので、その拓本は何枚もの拓紙を貼り継いで制作される。お茶大本はだいたい52~53cm四方の正方形の小拓紙を11×3列に並べており(第1面)、これは、九州大学本、目黒区本と同形式だという。結論は変わらない(1920年代中後期)のだが、パネルディスカッションでもおっしゃっていたように、最低でも三つの異なる方法論によって検証することができれば、その結論は非常に安定する。なるほど、一見、定説が出来上がっていて、何も付け加えることはないように見えることでも、切り口次第で、研究の余地がある、ということが、新鮮な発見に感じられた。

・奥田環「東京女子高等師範学校の学術標本-教材としての広開土王碑拓本の背景-」

 お茶大において学術標本の調査・整理にかかわってきた奥田環先生は、史学科1973年卒業生が「73~75年頃、研究室で拓本を見た覚えがある。女高師時代に修学旅行で行った先生が購入されたと聞いた」という証言をもとに、1939年の大陸視察旅行(有志生徒40名)が該当するのではないかと推測する。

 なお、パネルディスカッションでの武田先生のコメントによれば、広開土王碑の拓本制作は1938年に禁止されているので、古書店などから1920年代の拓本を買い求めることは十分あり得るとのこと。一方、早乙女先生から、修学旅行で購入という伝聞にはこだわらないほうがいいのではないか、という意見もあった。

 パネルディスカッションの司会は、山形大学人文学部の三上喜孝先生が担当。実は、山形大学小白川図書館でも昨年、広開土王碑第3面の拓本が見つかったが、その由来は全く不明だという。

 これについて、早乙女先生から、京都府福知山高校に伝わる拓本が、旧制高校時代、足立幸一という篤志家・実業家から、将来、朝鮮半島や大陸に雄飛する人材を育成するため「満蒙文庫」の一部として寄贈された、という事例に注目が促された。また、三上先生によれば、山形県からも多くの人々が満蒙開拓移民として大陸に渡っている(長野県に次いで2番目に多い)という。この点では、教材としての広開土王碑の伝わり方は、近代日本における朝鮮半島の歴史の教え方を考える素材になるのかもしれない。

 というわけで、最後は、現代の両国関係に直結する問題にまで広がり、いろいろと面白いシンポジウムだった。

お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ「広開土王碑拓本」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の凝りをほぐして/福田平八郎と日本画モダン(山種美術館)

2012-07-07 10:06:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 特別展 生誕120年『福田平八郎と日本画モダン』(2012年5月26日~7月22日)

 6/26から後期となった会場に初訪問。すごく混んでいるのに驚いた。福田平八郎という名前には記憶がなたっかが、『筍』『芥子花』を見て、ああ、あの絵を描いた人か、と分かった。本展は、福田平八郎(1892-1974)だけでなく、小野竹喬、山口蓬春など、同時代に活躍した画家たちのモダンで洗練された作品を集めて展観する。「日本画モダン」は、同美術館顧問の山下裕二氏が考えた造語だという。

 確かに、日本画・日本美術を見ていると「モダン」と形容したくなる作品に出会うことがある。明るく、オシャレ。のびのび自由で、斬新な発想。理知的だけど、あまり思想的でない。「近代的」に置き換えると、そのニュアンスが消えてしまうのは、日本文化独特の事情を含んでいるような気もする。

 私は小中学生の頃から、わりと同時代の日本画を見る機会が多かった。当時(1970年代)は、もう少しテーマの重い作品が主流だったが、こういう、美しい色彩・斬新な構図が、直接、感覚に訴えてくるような作品も、ずいぶんあった気がする(すべて子どもの記憶だけど)。だから、この展覧会は、新しいような、懐かしいような、不思議な感じがした。

 代表作だという『漣』は前期展示で見られなかったが(どうやら私は『画家の眼差し、レンズの眼』展で同作品を見ているらしい…あまり記憶になかった)、『雨』が見られてよかった。黒い屋根瓦をクローズアップで描いた作品で、会場に行って『雨』というタイトルを見て、はじめて、整然とした瓦の列に、ポツポツと落ちかかる雨滴の跡に気づいた。

 福田が30代のはじめくらいに描いた『牡丹』は、まだ伝統的な東洋絵画の技法にのっとり、紅白の牡丹の株を偏執狂的な細密さで描いている。いつも不思議に思うのだが、画家って、洋の東西を問わず、若い頃は伝統的な技法をきっちり勉強し、老年に至ってから、驚くほど自由でみずみずしい(若々しい)作品を描き始める人が多い職業だと思う。

 前田青邨の『おぼこ』は、水面に集まったボラの幼魚を描いたもので、思わず、ふふっと笑いがもれてしまうような作品。ドラマチックな歴史画のイメージが強い青邨に、こんな愛らしい作品があったとは。山口蓬春も、これまで、あまり注目したことがない画家だったが、本展で見た『夏の印象』や『榻上の花』は一目で好きになった。

 肩の凝らない、というか、肩の凝りも心の凝りもほぐされる作品の多い展覧会である。この展覧会に出ているような作品が一枚でも、日常、目にできる範囲にあったら、どんなに幸せだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする