素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 四国北西部そぞろ歩き 🐾

2016年05月10日 | 史跡・名勝探訪

3000年の歴史をもつ道後温泉は日本最古の名湯です。                   古今の著名な文人、墨客が遊訪しており、この地域に豊かな歴史、文化を育んできました。

                                                道後温泉のシンボルである道後温泉本館は、100年以上前に建築されたが今なお現役の浴場として多くの人々の絶大な人気を集めており、木造三層楼の建物は国の重要文化財に指定されています。

夏目 漱石が、松山中学の英語教師としてこの地を踏んだのは、明治28年4月。    その頃の道後温泉は木の香りも新しい建物であったことから、「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙で書き送っています。

漱石は、病気静養のため帰省していた正岡 子規と50日余り同居生活し、子規高浜 虚子としばしば道後に出かけています。

                                               道すがら交わした文学論や、神仙体の俳句は、英語教師:夏目 金之助から文豪:夏目 漱石へ変身する発端になったようです。

松山の田舎ぶりを辛らつにからかった「坊っちゃん」も、当時新築の道後温泉には脱帽です。団子を食べ、湯船で泳ぎ、随分と楽しんでいます。                             赤手ぬぐいに因んで、今も道後温泉で貸し出されるのは赤タオル。                                     3 階の「坊っちゃんの間」では、夏目 漱石が通った頃の面影を今でも味わうことができます。

5月10日(火)道後の宿を8時半に出発し、四国に来たからには、四国でしか見られないという「四国カッコソウ」を見ようと山深い河野山「高縄寺」へ。

                                                    中型バスで地元のドライバーさんが、狭い林道を見事なハンドルさばきで連れて行って下さいましたが、到着が遅かったもので、ご住職が心配され、作務衣姿に長靴で山門で待っていて下さいました。9時半到着。

                                                花期は普通5月連休頃までらしいのですが、標高が約千mの高縄寺では2株咲いており、皆さんの歓声と四国カッコソウが恥ずかしいと言うくらい、シャッターの嵐でした。

                                               花弁はピンク色で葉や茎に白の細い繊毛があるのが特徴とのことです。           来た甲斐がありました。

高縄寺を10時20分に出発。 次は今治(いまばり)市へ。                        今治と言えば「タオル」、そんなことで「タオル美術館」に向かいました。11時15分到着。

                                                   今治タオル産地は、高縄山系を源流とする蒼社川の伏流水や霊峰石鎚山より流れ出た地下水など、晒しや染に適した良質の水が豊富にあり、これにより今治タオルの染色技術が向上し、伝統的な製法技術と最新技術を巧みに融合させながら、使い心地の良いタオルが生産できているとのことです。

その使い心地の良いタオルには、四国タオル工業組合による独自の品質基準が定められています。                                    その1つに、『タオル片が水中に沈み始めるまでに要する時間が5秒以内(沈降法)』というのがあります。                                これは、洗わなくても使い始めから水を吸うタオルということなのです。            今治タオルは汗や水分を素早く吸収し、お風呂上りに体を拭いても、汗をぬぐってもべとつかず、お肌にやさしいのが特徴です。  是非、ご利用ください。                                また、製造工程の見学やタオルを使用した様々なアート作品の展示もあり珍しい美術館です。

12時40分出発し、今治ICを12時58分に入り、愛媛県今治市と広島県尾道市の間の瀬戸内海に浮かぶ島々を9つの橋でつなぐ瀬戸内しまなみ海道を走りました。  好天であれば沢山の島々と各種の工法で造られた橋を見ることができたのでしょうが、あいにくの雨天で大きな橋が霧の中に消えていました。

しまなみ海道の中間地点にある島「大三島」に降り、日本総鎮守と呼ばれ、全国に一万社余りの分社を持つ神社大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を参拝しました。  13時45分到着。

何故、わざわざ高速を降りてまで神社を参拝したのか  

それは、私たち山仲間にとって是非とも参拝しなくてはならない神社だったのです。                                                                                                                                                         天照大神の兄である大山積大神を祀る神社で、海上安全の守護神として、日本の国土全体を守護する神として、また、その昔は水軍の武将たちの信仰も集め、「海の神」・「山の神・「戦の神」として尊称されていました。                                                そんなことであり、皆さんで今後の安全登山を祈願して来たのです。

伊藤 博文は自らを伊予の河野氏、河野 通春の子孫であると称しており、松山を総理大臣として訪問した際に、自分の先祖の土地であると集まった聴衆に語り、その際に石柱にある神社名を揮毫したものだそうです。

境内の中央には、樹齢約2600年の御神木である大楠が鎮座しています。        息を止めて3周すると願い事が叶うという言い伝えがあるそうです。                       昭和26年に国の天然記念物に指定されています。

14時25分、参拝が終了し、しまなみ海道から山陽自動車道にて岡山駅に向かい16時45分に無事到着しました。お疲れ様でした。                                         ドライバーさん、3日間行動を共にし2日雨にたたられながらも細かい御配慮を頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 

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▲俱留尊山ハイク▲

2016年02月15日 | 史跡・名勝探訪

奈良県桜井市にある宿を8時出発。                           曽爾(そに)村役場の観光課に寄ってから俱留尊山(くろそやま)登山口の曽爾高原駐車場へ9時半に入った。                                   役場の観光課は曽爾村を知ってもらうために大阪・名古屋方面には宣伝をしているようですが、神奈川県から来たということで大変親切な対応をして頂きました。

曽爾(そに)村をご存知ですか? 今、日本中に村って、幾つくらい在るのでしょう エッ

場所は奈良県の東北端に位置し、三重県境に接し静かな曽爾川の流域に開ける村です。                                      村の大半を占める山地は室生火山群に属し、西側の岩肌もあらわな鎧岳、兜岳などの珍しい柱状節理の美景は国の天然記念物に指定されています。

                                                  また、東に位置する俱留尊山(1037m)、亀山などのなだらかな山々とその山麓に開ける雄大な曽爾高原一帯は室生赤目青山国定公園に指定されています。

現在、全国には183の村があるそうです。  一番多いのが長野県。                             曽爾村は人口1,610人(2015.5.1現在)の小さな村ですが、日本の農山漁村の文化や景観の継承を目的として運動を行っているNPO法人「日本で最も美しい村」連合に加盟されています。                                         その土地でなければ経験できない独自の景観や地域文化を持つ村とされており、人の営みが生み出した美しさがある村が選ばれています。                                          曽爾村には、曽爾高原のススキ野原と曽爾の獅子舞があるとのことです。

雨上がりの青空でとても気持ち良い高原です。                           3月には山焼きが行われるようですが、2月でもまだまだ高原一面を覆う、金色の幻想の世界を楽しむことができました。                           高原の中央にある「お亀池」を左手に見ながらススキの登山道を登り、亀山峠に10時05分到着。

                                                       尾根に出たら風が冷たい、そのうえ徐々に雲が日をさえぎり寒さ倍増。      皆さん防寒対策を万全にした。

高度を増して行くと岩が見え始め、積雪もあることから慎重に歩を進めた。          少し登ると樹林帯に入り、少し風は防げた。

                                               その先に大きな看板と小屋が見えた。 入山料の徴収小屋のようです。            この山は個人所有の山であり入山料を徴収しているようです。                     初めての経験でビックリしました。

小屋のすぐ先が「二本ボソ」(996m)、10時40分到着。             山頂風になった所だが、何故か風がなく、ちょっとホッとできる場所でした。10分休憩。

                                               目指す「俱留尊山」が直ぐそこに見えたが、1峰1峰が独立峰になっており、目的の山頂には一度下ってから登り返さなくてはならなかったが、皆さん黙々と頑張られた。

この山は第三紀に活動した火山の名残りで、三重県側斜面には火山岩による柱状節理が見られると言われ、見てみたい気がした。

11時20分、三等三角点の設置された俱留尊山登頂。  

この所の暖冬で霧氷が大分消えてしまっていたが、降り始めた雪もあり山頂部では、まだ見ることができた。                                             振り返ると先ほど通過して来た「二本ボソ」の山頂と小屋が見えた。

                                         雪の山頂で風もあり、ベンチにも雪が積もり、ノンビリ休憩もできず15分ほどで下山の途についた。

 

寒さで体の動きも鈍ってきており、下山時は登り以上に慎重に歩を進めた。  周りのあらゆるものが滑りそうに感じ、気を引き締めた。

往路を戻り、二本ボソ着12時。                                       風の強さが増し、吹雪が頬に当たり痛くて長時間歩いていたら完全に凍傷になったと思われる厳しい気象状況であった。                                             宿での天気予報は終日曇りであったのに、山での気象状況は予想外である。

そんな状況下であり、周りをキョロキョロすると霧氷が成長しているように感じた。

樹林帯を抜け右手下方にススキの曽爾高原が見えたら、更に吹き上げてくる強風に参った。                                       右頬が痛いのと口の動きも悪くなり、皆さんのお喋り声も聞こえなくなった。

亀山峠着、12時25分。                                           腕に付けた温度計は通常、体温に近い温度を示しているのに、この時は-1度とビックリした。                                              風が強いので体感温度はマイナスであった。                                   帰りは、お亀池に下らず亀山(849m)経由で駐車場へ向かった。

亀山山頂は吹雪の状態で休憩せず12時40分通過。

                                                 10分ほど下ったら樹林帯に入り、多少風が穏やかになりホッとした。            私もそうでしたが、皆さんも山で吹雪かれた経験は初めてとのことでした。

                                                   1,037mの麓の近い俱留尊山で吹雪の激寒状態を体験できたことは実に有意義なことであったと思う。                                         この様な経験は中々できません。無事下山、本当にお疲れ様でした。

 

 

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◎涼を求めて「白糸の滝」◎

2015年05月25日 | 史跡・名勝探訪

5月も後わずか、この頃は天候により、夏日や真夏日となることもしばしばあります。                                      体も冬から夏への体調替えの時期です。                     富士を見ても雪を被った秀麗富士でなく、わずかに雪を残した秀麗富士に変わっています。                                      日本一の富士山もこの時期には徐々に山容を夏向けに衣変えしているようです。

こんな暑い日は天然のシャワーが浴びられる滝に行くのが一番かな?と思い、富士山方面に向かい、白糸の滝に寄ってみました。                      日曜日であり混雑を承知で出かけてみたが、意外と道路も観光地も空いているのにビックリした。

平日のようで、何か得した気分になりました。                                                お昼の時間であり観光地での食事は期待していませんでしたが、お土産物店の並ぶ中の食堂に入り「富士宮焼きそば」を注文したら、何と これがとても美味しかったのです。                                           嬉しかった半面、自分に与えられた小さな運を使い果たしてしまったような気がした。

                                                                       知らない街に行って「良かった」・「嬉しかった」と感じることに遭遇すると旅全体が忘れられないものになりますね。

お腹が落ち着いてから滝の見学に向かいました。                   まず、進行方向左手にある『音止の滝』を覗いてみました。            名前から想像して滝壺が深くて落ちる水音がしないのかな?と思いましたが、高さ25mの絶壁から落ちる水は辺りに轟音をとどろかせ、勇壮な迫力ある滝でした。

その昔、曽我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ相談をしていた際、滝の音で声がさえぎられたため、しばし神に念じたところ一瞬滝の音が止んだという伝説から、この名が残されているとのことです。

次に、今回のメインの滝『白糸の滝』に100段ほどある階段を下って向かいましたが、何と先ほどの「音止の滝」とは様子が一変し、映画館のシネマ・スコープ画面の様な印象を受けました。

幅150mの湾曲した絶壁の全面にかかる白糸の滝は、左の本滝の一部を除いてそのほとんどが富士山の湧水だそうです。

                                                                     岩壁の間から白い絹糸のように流れるさまは、白糸の名にふさわしく、女性的な美しさの景観を見せながら周囲にマイナスイオンを含んだ冷たい風を運んでいます。

年間を通じて水温12℃、毎秒1.5トンの湧水が流れ出ているとのことです。

戦国時代末から江戸時代初期、富士講の開祖とされる「長谷川 角行」が修行を行った地とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となったことでも知られています。

 

 

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🏯 春の小田原城 🏯

2015年04月02日 | 史跡・名勝探訪

15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名「北条早雲」が乗っ取って以来、関八州に君臨する北条氏の本拠地となっていた。

豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築造された、城下町を囲む延長9kmに及ぶ総構えの出現により城の規模は最大に達しました。

天正18年(1590)豊臣秀吉により北条氏政・氏直父子討滅を策略、大軍にて小田原を包囲、関東各地の支城を次々と攻略された。

                                                                                                                                   その間、石垣山に一夜城を築かれた北条氏は度肝を抜かれ、降伏に至る。

北条氏滅亡後、秀吉から関東を与えられた徳川家康は家臣の大久保忠世を小田原城主とし、城は改修され近世城郭の姿になりました。

                                                  大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主となると、再び改修工事が実施され城の姿は一新、貞享3年(1686)に大久保忠朝が父祖の地に再封され、その子孫が明治維新を迎えた。

明治3年、廃城となり、売却された後次々と解体されましたが、昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興され小田原のシンボルとなっています。

天守閣は3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1,822㎡となっています。                    国指定史跡に指定され、今も整備が続けられています。

                                                   標高60mの最上階からは相模湾が一望でき、真鶴半島また良く晴れた日には房総半島まで見渡す事ができます。

平成22年度から史跡整備に伴う発掘調査を行っている、史跡小田原城跡の御用米曲輪(ごようまいくるわ)や23年度には、石垣を伴う障子掘(しょうじぼり)が発見され戦国時代の小田原城でも石垣が使われていたとのことです。

天守閣への正規な登城ルートは、お堀端通りにある正面入口、馬出門土橋を渡り馬出門(うまだしもん)を抜け馬屋曲輪(うまやくるわ)を通り住吉橋へ、銅門(あかがねもん)から階段を登り常盤木門を抜けると左手本丸に堂々とした天守閣が確認できます。

 

 

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◎小江戸めぐり“佐原”◎

2015年01月21日 | 史跡・名勝探訪

利根川沿いにある道の駅「水の郷さわら」に10時55分到着。                                 ここを起点に佐原の町『小江戸めぐり』をするため、早めの昼食を取った。

                                                                   利根川には白鳥が優雅に泳いていました。

12時出発し、江戸との深い経済・文化の交流を持つ歴史の町《佐原》に足を踏み入れた。

  “お江戸見たけりゃ 佐原へござれ 佐原本町 江戸まさり” 

利根川から舟で物資を江戸へ運ぶための小野川沿いに栄えた《佐原》。         昔のにぎわい、 雑踏・・・        かつての華やぎは「江戸まさり」とまでうたわれたほどだったと言われています。

道の駅を出て、小野川沿いの右岸を伊能忠敬旧宅まで進み見学、その後 樋橋(ジャージャー橋)を渡り、忠敬記念館へ。

                                                                   50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、我が国最初の実測日本地図を作られた偉人。

                                                                    個人の資金で測量を始めた東北北海道地区は現在の衛星写真より、わずかに東寄りとなっていますが、西日本は幕府の援助もあり多くの人材を得て測量に取り掛かり、ほとんど衛星写真と代わらない事にビックリしました。 

忠敬の測量技術や江戸時代の測量機械製作技術にも驚き、

 

                                                                    日本の精密機械製作技術は江戸時代から日本民族に培われていた事に誇りを感じました。

小野川両岸とその周辺には、河岸問屋や醸造などの商工業者が軒を連ね、現在も隆盛を極めた当時を彷彿とさせる古い商家が建ち並び、商都としての歴史的景観を残しています。

この町並みを活かした町づくりへの取り組みもあって、平成8年12月には関東地方で初めて《重要伝統的建造物群保存地区》に選定されたとの事です。

                                                                   この一帯は、昔からの家業を引き継ぎ、今も営業を続けている商家が多いことから、『生きている町並み』と評されています。

水郷佐原山車会館にも立ち寄り、佐原の大祭で曳き廻される絢爛豪華な山車を見て来ました。                                    華々しい独自の文化を開花させ、その文化の集大成である「佐原の大祭」「佐原囃子」は重要無形民俗文化財として国の指定を受けているとの事です。

丁度、大正3年(1914)に西洋建築の流れをくみ建築された、レンガ積みの「三菱館」の前では利根川から水郷そして歴史的町並みの中を走る観光用水陸両用バスも見かけました

  

この素晴らしい町並みは、是非大切に後世に残したいですね。 

 

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◆紅葉の井川湖畔を歩く◆

2014年11月22日 | 史跡・名勝探訪

奥大井・井川湖畔遊歩道紅葉ハイキング。                                                            廃線小路とレトロな町並みを歩いてみました。                  新東名の新静岡ICを出て県道189号線を約1時間半走り、大井川鉄道あぷとライン最北の駅『井川駅』に11時15分到着。                                                                           細く曲がりくねった道が続き、中々個人で行くには大変な所です。

大井川鉄道は日本で唯一のアプト式鉄道。                                                                        機関車とレールの歯車を噛み合わせながら、急勾配を登る鉄道です。                            急勾配で有名な箱根登山鉄道は1,000分の80という勾配ですが、大井川鉄道井川線のアプト式区間は1,000分の90という日本一の急勾配との事です。

 

井川駅を出発し、10分で井川ダムに到着。                       ダムや中部電力の井川ダム展示館を見学し、廃線小路へ。

井川ダムは昭和32年に完成、日本で最初の中空重力式ダムで出力は62,000kw、貯水量は1億5千万t。

廃線小路は井川ダム建設当時の資材搬入駅(旧堂平駅)へと続く廃線部分を、線路を残したまま整備した遊歩道で、線路の上を歩くことができるコースです。           短いトンネルもあり、ちょっとした冒険気分でハイキングが楽しめました。

                                                                         また、右手の井川湖や線路上の紅葉がとても綺麗でした。

旧堂平駅跡に12時10分到着。廃線の続く小路はここまででした。           ここには休憩舎やベンチが置かれた広場になっており、12時40分まで昼食と休憩時間にしました。

                                                                        部分的には素晴らしい紅葉が見られましたが、全般的には時期は過ぎた感じでした。

昼食の堂平広場からノンビリ歩いて20分。                    長さ80m、高さ30mの井川湖上にかかる「夢の吊り橋」に到着。                大人5名までの制限付で参加者37名が渡るのは大変でした。

                                                                       吊り橋は苦手という方や平気だよと言う方もいて皆さん童心に返り、高さと揺れにはスリルがありキャ~、キャ~と楽しい一場面でした。

吊り橋から井川大仏まではキツイ登りがありましたが、13時15分に到着。                       大自然の中の白亜の大仏様には違和感がありました。                高さ11m、昭和55年11月1日開眼。元井川診療所の歯科医師である佐藤平一郎先生が60余年間の健康に対し、感謝の意を込めて4年の歳月を費やし建立したものだそうです。歯の痛い人にご利益があるとか・・・・・

井川大仏を抜けて井川本村の昭和初期と言うかレトロな街並みに入ります。 

                                                                        自分は今回のハイクで楽しみにしていた個所の1つで、行く前から映画にあった『ALWAYS 三丁目の夕日』にあった街並み 想像していたのですが、確かに ふれあい通りには、魚貞商店、杉山玩具店、鈴木和菓子店等スーパーや百貨店でなく一業種を取り扱う個々のお店を見る事ができました。ただ商店街でなくお店が点々と存在しており、レトロな街並みらしい写真は撮れませんでした。残念。

街並みの一画で子供たちが駐在所の若い巡査さんと遊んでいる様子はほのぼのとした感じを受けました。                                 そんな井川本村を今では中々見られないレトロな街と表現しているようです。     山だけでなく小さな町を歩くのも、とても楽しいと感じました。            バスの待つ井川観光会館には丁度14時に到着し、14時半に秋の井川湖を後にしました。

 

 

                                                  

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🐾 歴史ある木屋町通りを歩く 🐾

2014年10月19日 | 史跡・名勝探訪

東西の二条通り、御池通り、三条通り、そして鴨川と同様に南北に通る木屋町通りを歩くようになったのは、1998年(平成10年)第5回京都シティーハーフマラソンに参加してからである。                            ハーフマラソンのスタート、ゴールが平安神宮の赤い大鳥居であったことから、平安神宮に近い宿を取ったのが始まりでした。

折角、京都まで来たのでホテルでの食事で無く、京都が感じられるところで食事をしようと探したのが『がんこ二条苑でした。

                                                            観光雑誌に出てくるような料亭ではなく、お手頃価格で一般人も京都を感じられるお食事処で、以後友人と京都旅行をした時は、必ず寄っています。               目の前には高瀬川の流れも見られます。

京の人々に古くから親しまれ愛されてきた高瀬川の流れは、豪商「角倉 了以」の別邸跡『がんこ高瀬川二条苑』を通り、木屋町通りをくぐって再び姿を現します。

                                                                    おおよそ400年前の慶長16年、角倉了以によってつくられた、がんこの庭園はその後、明治の元勲「山縣 有朋」の別邸『第二無鄰菴』となり、第三代日本銀行総裁「川田 小一郎」の別邸、阿部 市太郎の所有を経て、現在は大岩邸として伝わり、がんこ二条苑 高瀬川源流庭園となっているとの事です。

この付近は、幕末の志士の足跡が残る地域としても知られています。 

                                                                   1867年11月15日、河原町蛸薬師にある醤油屋「近江屋」の2階で、坂本 龍馬と中岡 慎太郎が刺客に襲われ殺害された。                                                                      現在、近江屋はなく、繁華街の一画に記念碑のみが建っているようです。

がんこ二条苑の近くで、松代藩士「佐久間 象山」が元治元年(1864年)7月11日刺客に襲われて死亡し、明治2年(1869年)9月4日には長州藩士「大村 益次郎」が刺客に襲われて死亡した遭難之碑が建っています。

この遭難ノ碑の反対側には、「桂 小五郎」と芸妓「幾松」が住んだ寓居であった料亭『幾松』があります。                                                                                                      もともと長州藩の屋敷であったので、部屋の前の廊下には抜け穴があり、鴨川の河原、木屋町のどちらにも抜けられるようになっているようです。

幾松は現在でも料亭として営業しており、当時の遺品が数多く残されており、食事に訪れれば当時の志士たちの遺品や暮らした跡を見る事ができるそうです。 

 

 

 

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◆妻籠宿◆

2014年10月14日 | 史跡・名勝探訪

秋にはまだ早い時期に京都へ行く事になり、いつも変化の無い高速道路を利用しても眠くなるばかりなので、今回は甲州街道から杖突街道、中山道と普段走らない一般道をノンビリ周りの景色を楽しみながら向かった。

平日で幹線道路を外れて行くと故郷の様な田園風景の中を快適に走れて、車内を流れる風が心地よい。

                                                                       車も少なく、信号も少ない。                                 「快適ドライブはこれだね。」と感じる、そのものでした。

途中でリンゴ狩りをしようと思っていたが、道を間違えたらしくリンゴ農家は1軒も無く、残念ながら失敗した。

江戸と京を結ぶ『中山道』は、山深い木曽路を通ることから「木曽街道」とも呼ばれていました。

                                                                           中山道69宿のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていたようです。

中山道は 五街道の1つで、江戸日本橋から板橋へ出て、上野(こうずけ)・信濃・美濃などを経て、草津で東海道に合流し、京都に至る街道。

                                                                        五街道(江戸日本橋を起点とした五つの主要街道)東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道の総称。

町並みは、明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどりましたが、昭和40年代になり集落保存と景観が修復され、妻籠宿の町並みが見直されました。

妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を「売らない・貸さない・壊さない」を中心とする住民憲章をつくり、ここで生活をしながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えようと努力をされています。  

巨大勢力の台風19号が本州に向かっているという天気予報でもあり、三連休と言へども外出を控えられているのか、観光客はほとんどなく、ほぼ貸切状態の妻籠宿でした。

天気は良いし、時をタイムスリップしたようで、ここも日光江戸村の様にせめてお店の方々だけでも、江戸時代の衣装で顔を見せて下さったら、もっと盛り上がるように感じました。

 

 

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❀早春の渉成園❀

2014年03月30日 | 史跡・名勝探訪

京都駅に近い烏丸通東側の飛地境内にある東本願寺別邸の渉成園散策して来ました。

                                                                                             風雅な建物が点在する池泉回遊式庭園であり、年間を通して花木を楽しむ事が出来ます。京都駅からノンビリ歩いて15分程です。

昔は周囲に枳殻(からたち)が植えられていたため、枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれています。

はじまりは、徳川家康から教如(きょうにょ)上人(東本願寺十二代)に烏丸六条の地が寄進されて現在の場所に東本願寺が分派したのち、1641(寛永十八)年には、徳川家光から宣如(せんにょ)上人(東本願寺十三代)にその東方の地が重ねて寄進されました。

これが渉成園の始まりであり、中国の詩人「陶 淵明」(とうえんめい)の『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣」(園、日に渉って以って趣を成す)より名づけられました。

宣如上人は、ここに屋敷を造営して1653(承応二)年に隠居し、亡くなられるまでの5年間に文雅の著名人で詩仙堂などで有名な石川丈山(いしかわじょうざん)の趣向をいれた作庭を行いました。

建物に関しては、1858(安政五)年の火災、1864(元治元)年の蛤御門(はまぐりごもん)の変で焼失し、現存のものは全て明治以降に再興されたものだそうです。

一方、庭園については、ほぼ当初の作庭状態を伝えており、極めて貴重な庭園遺構文化財となっています。

庭園内には「渉成園十三景」と称される樹石と建物の風雅が各所にほどこされており、それは1827(文政十)年作の頼山陽(らいさんよう)の『渉成園記』に紹介され高い評価がなされています。

印月池の南西に位置し、水上に乗り出すように建てられた『漱枕居』 (そうちんきょ)。四畳半に三畳敷きの続く座敷と土間からなり、三畳の東には左右に手摺付の縁があります。

「漱枕居」の名は、旅路にあることを意味する「漱流枕石」の語から採られています。

 

 

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🚉 東京駅 🚉

2013年03月31日 | 史跡・名勝探訪

1914年(大正3年)、首都の玄関として建設されて以来、歴史と風格が感じられる丸の内地区の中心的存在として親しまれてきた赤レンガ駅舎。

東京駅の位置は、江戸時代からの繁華街である京橋側ではなく、建設当時はまだ野原だった丸の内側に建設された。                                                                                                 皇居の正面に設定され、丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口が造られたことから分かるように、国家の象徴的な位置付けであった。

JRでは東京駅を『中央駅』と位置付けており、前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代から列車の進行方向を示す『上り・下り』の基点となっていた。

現在、中央本線は東京駅~神田駅間は戸籍上「東北本線」となっているが、起点であった東京駅へ向かう列車が引き続き「上り」とされている。                                                    なお、『中央駅』である東京駅は東京都区内および東京山手線内各駅を発着するJR線長距離乗車券の運賃を算出するためのキロ数基準駅ともなっている。

1889年に国鉄東海道本線の新橋~神戸間が全通し、私鉄の日本鉄道が上野を始発駅として青森に向けて線路を建設していた。                                                                              そこで、新橋と上野を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。

実際の建設は日清戦争と日露戦争の影響で遅れ、建設工事は戦争終了後の1908年から本格化し、1914年12月18日に完成し、同時に『東京駅』と命名された。

東京駅本屋は、辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545㎡・長さ330mの豪壮華麗な様式建築である。                                            1914年の開業年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、中国・青島周辺のドイツ租借地を占領した陸軍の司令官「神尾光臣」中将が凱旋して皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。

当時は南北にドーム状の屋根があり、また丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分かれていたようです。

2003年に国の重要文化財に指定され『関東の駅百選』認定駅である丸の内駅舎を、駅、ホテル、ギャラリー等としてより多くの方に利用して頂くと共に、より充実した交通機能と歩行者空間をあわせもつ魅力的な『都市の広場』を目指して駅前広場を整備していく計画のようです。

 

 

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