行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

胆沢川にある日本最大級の「円筒分水工」に立ち寄る

2025年02月07日 | 土木構造物・土木遺産


「円筒分水工」という言葉をご存じだろうか?以前から長野や富山にその農業用の土木構造物があると聞いていたので気になっていた。土木遺産にもなっている富山の「東山円筒分水槽」は、ついこの間行った黒部に近かったんだけど、時間の都合上パスした。調べると新潟にもあった。まあいずれもまたの機会に!
今回紹介する胆沢(いさわ)川にある円筒分水もチェックはしていたが、胆沢ダムから田瀬ダムに向かう途中、急いでいたためうっかり通り過ぎてしまった。「日本最大級の円筒分水」との看板を目にして、そうだった!とUターンしてたどり着いた次第だ。
前回の志和(紫波町山王海地域)と同様、ここ胆沢川流域・胆沢扇状地においても水争いが絶えなかった。そこで登場するのが分水工。円筒分水工は、かんがい用の水をサイフォンの原理を利用して公平に分水するもので、多くは円形の美しい形をした施設である(残念ながら、私が訪れたとき農閑期・渇水期のため沸き上がる水は見れなかった。)



やはり、胆沢川でも江戸期のこと、伊達政宗家臣で後藤寿安(じゅあん(寿庵とも)=ラテン語でJohannes(ヨハネ)、キリシタンの館主)が開削した「寿安堰」と、当時女性が中心となって掘られた「茂井羅堰」があったが、この堰は取り入れ口も近く争いの基になっていた。
山王海と同様、昭和も戦後になってからのこと、胆沢ダムの前身である北上川5大ダム・石淵ダムが直轄事業で着工。さらに食糧増産の観点から広大な胆沢扇状地が注目され、並行して国営胆沢川農業水利事業のかんがい施設整備の一環として、1948年、この胆沢川の「円筒分水工」が施工されたのである。胆沢平野土地改良区が管理運営。
その後も土地改良事業が導入されている胆沢扇状地であるが、この分水工も改修などを重ねながら、現在も「茂井羅中堰(茂井羅水系・北側)」と「寿安堰水系(茂井羅南堰、松ノ木沢川含む・南側)」に公平に分水している。日本最大級で、水が湧き出る姿が美しいとインフラツーリズムでも注目の集まる施設である。今度は水の豊富な時にでも行ってみたい!(写真下:その後、各事業・制度を活用した土地改良事業の竣工を記した記念碑、徳水園内。)

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山王海ダムの「平安」の込められた意味とは

2025年02月04日 | 土木構造物・土木遺産


山王海(さんのうかい)ダムを紹介しておきたい。岩手県のほぼ中央、盛岡市の南に位置する紫波町(しわちょう)にある。そう以前紹介した「オガール紫波」のある町、その中心部から西の方向、奥羽山脈を源とする北上川支流の滝名川(写真上)の上流にある。
農業用のかんがい用水を供給するために建設されたダムで、山あいにひっそりとその大きなガタイを隠している。中央土質遮水型のロックフィルダムで、堤高61.5m、堤頂長241.6m、3840万㎥の総貯水量は農業用のかんがい用水専用ダムとしては全国第一位の規模である。
麓の升沢地区は「志和稲荷神社」で有名だが(写真上:志和稲荷神社の大鳥居)、そこからの管理道路となっている山道は狭く、カーブと急坂が続くが、クルマで10分ほど進むと植栽で「山王海」と文字が刻まれた大きな堤体が目に飛び込んでくる(見出し写真)。不気味な真っ暗なトンネルをくぐると天端脇の管理事務所前に着くが、ゲートが閉ざされていて単なるダムマニアを寄せ付けない。(写真下:管理用道路のトンネルと管理事務所のゲート前)



先の5大ダムでも触れたが、北上川のは支川は流域面積が狭いことから、農耕が盛んになった江戸期から各支川の沿川集落では水をめぐる争いが絶えなかったという。「志和の水喧嘩」と言われるこの地の水論は三百年も続き大小の争いは記録に残るものだけで42回。中には死者を出すということもあった。
土地改良事業が始まった近代においては、北上川の鉱毒汚染事案などもあり本川の水をかんがい用に引き込むことは問題があったため、大正期のため池構想から20余年を過ぎた1952年に農地開発営団事業により山王海ダムが完成した。これが第一期のもので、その後国営山王海農業水利事業により嵩上げ工事を行い、現在の山王海ダムとなった。
旧ダムは、完成当時、日本のアースダムでは初めて土質工学を取り入れたダムで、「東洋一」の土堰堤ダムであった(堤高37m、堤頂長150m、総貯水量959万㎥)が、そのダムの堤体を取り込んで世界でも例のない嵩上げ工法により新山王海ダムが2001年に完成した。



1978年から始まった国営山王海土地改良事業では、新山王海ダムの工事とともに、南側の葛丸川に葛丸ダムを建設。山王海ダムのダム湖(写真上:ダム湖は「平安の湖」)を貯水池とするため葛丸川上流に頭首工を設け導水路を建設し、さらに取水トンネルで必要な時に葛丸ダムに水を戻すという国内では珍しい「親子ダム」とする工事も行われて、より安定的な水管理を行っている。(写真上:事務所前に設置された親子ダムを説明する看板)
堤体の「平安 山王海 2001」の文字は、水争いが永遠になくなることを意味しており、旧ダムにも同じく「平安 山王海 1952」と植栽されてた願いが継承されている。ダム事業者は農林水産省(東北農政局)で、管理・運営を山王海土地改良区が担当している。(写真下:管理事務所前の水争いのなくなる願いが込められた歌碑と、ダム堤体には「平安」も同様の意味がある。)
5大ダムの中でも北上川の本川に建設されている四十四田ダム以外では、洪水調整のほか貯水をかんがい用水や上水道などに供給しているものが多いというのも、北上川支川のダム群の特徴でもある。




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気まぐれな川・松川にある「温水路」のあったかいお話

2025年01月31日 | 土木構造物・土木遺産


しかし、北上川にも見どころや歴史があるなと思いながら、あちこち流域を見て回ると、「松川温水路」という施設を見つけた。前回触れた旧松尾鉱山の近くの八幡平市松尾というところにある。(写真上:松川・金沢橋から見る岩手山と松川本流)
松尾鉱山は、明治末期に操業を開始し、最盛期は戦後の昭和30年代と言われている。一時は東洋一の硫黄鉱山として繁栄をしたが、1968年閉山。昭和初期から強酸性の鉱毒の汚染水が川に流れ込み、北上川は魚も住めずかんがい用水にも利用できないほどの死の川と呼ばれる時期もあった。
ただ、汚染水を運んだ流れは「赤川」という支川で、今回紹介する「松川」はそのすぐ南を流れる川で汚染水は流入していない。北上川の支川は流域面積も狭く、むしろ「松川」の水は周辺の農家にとって農業用水として貴重なもの。しかし、ここにも別の問題があった。



松川の水源は、岩手のシンボル的な山である「岩手山」の北側や八幡平を流域とする北ノ又川(松川の支流)の水を集めるが、麓までは急流で洪水・渇水を繰り返すことたびたび、冬季の積雪も多く7月上旬まで融雪が続くため稲作に使用する水としては極めて低温で冷害に悩まされていた。(写真上:松川も暴れ川だであることがうかがえる)
1960年代に土地改良事業により大規模な用水路改修などが実施され、その際頭首工から水を引き込み様々な自然災害から免れるようになったというが、案内板(写真上)に事業の完了は1978年(昭和53年)との記載があることから、比較的新しい施設のようで、現役バリバリ!
その土地改良事業の一つとして農業用水を階段状の水路に導き、太陽を浴び空気に触れさせて水温を上げるのが松川温水路なのである。実際には3つの温水路があるとのことで、総延長は3800メートル、全78か所の段差が築かれている。これにより、水温は3度ほど上昇させるのだそうだ。



私が訪れた刈屋地区の温水路には「明治百年記念公園(明治百年は、1968年)」と温水路脇には遊歩道が整備されている。また小水力の発電所が何か所あって、公園入口には直径6メートルの水車による発電システムを間近に見ることができる。(写真下、富山の常西合口用水にもありましたよね!
私が松川を訪れたのは昨年の11月。残念ながら水車は動いてはいなかったし、温水路の水もわずかに流れていることが分かる程度。春には遊歩道に花が咲き、残雪の山々をバックに水音も聞けることから市民の憩いの場になっているとのことから、春先にもでもまた訪れてみたいと思った。(もうすぐ春ですがね!)
なお、近くには「松尾鉱山資料館」や岩手山の伏流水の湧水群などもあることから、いずれまた紹介できる日があればいいと思っている。ここ八幡平には鉱毒水の汚染の歴史や豊かな湧水・名水の里が隣接して存在している。北上川は不思議で興味深い川という一面だ。







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観光の中心にある「御所ダム」と盛岡市至近の「四十四田ダム」

2025年01月28日 | 土木構造物・土木遺産
北上川5大ダム、四番目には「御所(ごしょ)ダム」、最後の五番目の「四十四田(しじゅうしだ)ダム」を紹介したい。(お葬式が入って、久々の投稿になります。)



御所ダムは、盛岡市内で北上川本流に合流する支川「雫石川」にある。盛岡市内からも西へクルマで20分ほどのところ、国道46号繋(つなぎ)十文字信号から少し入ったところにある。石淵ダムからすると5大ダムの中では一番最後に建設されたダムである(現・胆沢ダムを除く)。
建設計画は戦前1938年からあったというが、やはり水没物件の補償などの問題で、着工は1966年、完成は1981年という長い年月の末の遅咲きダムだ。両岸の地質の違いから右岸側は重力式のコンクリートダム、左岸側は中央コア型ロックフィルダムというコンバインダム(複合型ダム)になっている。
堤高は52.5メートル、堤頂長327メートル、総貯水量6500万㎥。洪水調整のほか、不特定利水、発電、下流河道取水による上水道は正に盛岡市の水がめでもあり、工業用水・かんがい用水にも利用されている多目的ダムだ。



ダム湖は「御所湖」、何だか気品を感じる名前。このダム湖周辺は、観光地・リゾート地として整備されているため利用者も多く、国土交通省・水資源機構のダム湖の中で年間湖面利用者が第一位になったこともある。(御所湖は田瀬湖(田瀬ダム)、錦秋湖(湯田ダム)とともにダム湖百選に選定)
とにかく県都・盛岡市からのアクセスも良く、繋(つなぎ)温泉、鶯宿(おうしゅく)温泉のほか、リゾート地である雫石や小岩井農場なども近い。スポーツ公園、グランド、漕艇場、乗り物広場、ファミリーランド、植物園、遊歩道には桜やコスモスなど、老若男女・オールシーズン楽しめる施設がびっしり!
子どもが小さいときに御所ダム管理所に近い「盛岡手づくり村」に行ったことがあったが、今でもせんべい焼き体験、はた織り体験、冷麺体験など様々なアクティビティを提供している。残念ながらチャグチャグ馬コ(うまっこ)を作る体験工房は昨年閉店していた。子どもが作った馬コ、まだ部屋に飾ってあります。



最後に登場するのは、四十四田ダム。盛岡市から北に数キロ、県庁所在地からこれほど近くに国交省所管のダムがあるのは珍しいのではないだろうか?加えて、東北の大河・北上川の本流に建設された唯一のダムであるという。1960年着工、1968年完成。
こちらはダム主体を重力式コンクリートダムとし、両側にフィルダムという複合型。北上川には複合型ダム多いんですよね。堤高50メートル、堤頂長480メートル。ダムサイトの管理事務所(写真下)では、5大ダムの統合管理をしている。ここにも「ものしり館」ありました。
建設時、市街地に近い場所で山間部の谷間のダムでもなく、良質な骨材を供給できる原石山がないことから、雫石川の川砂利を採取し、そこから不良の軟岩を取り除いたものに固体粉末を混ぜてコンクリートにしたという。品質にこだわったダムということだ。



北上川には旧松尾鉱山の坑内から強い酸性をおおびた水が流れ込んでいて、長い期間魚は住めない、かんがい用水にも利用できない「死の川」と呼ばれた時期があった。そのため、四十四田ダムも酸性水対策としてゲートの接水部にはステンレスを使用するなどの対策が取られている。
また、この酸性水の対策として中和剤が大量に使用されたことにより、ダム湖底の堆積物に悪影響を及ぼすため、後になってダム湖上流部に貯砂床止工を設置し、重金属などが含まれていないことを確認しながら掘削を行っているという。
四十四田ダムは、北上川に清流を蘇らせるとともに、ダム湖(南部片富士湖)の東側には岩手県最大級の松園ニュータウンがあるほか、湖畔には公園、病院、文教施設、博物館などの公共施設も多く、ニュータウン住民や盛岡市民の憩いの場となっている。
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「ほっと」湯田ダム、「そんなに近くにあったのか」田瀬ダム

2025年01月20日 | 土木構造物・土木遺産
さて、北上川5大ダム、今回は「湯田(ゆだ)ダム」と「田瀬(たせ)ダム」を紹介したい。



湯田ダムは、北上川支川の和賀川にあるダムで、堤高89.5メートル、堤頂長265メートル、形式は全国でも十数例しかない重力式アーチダムで、東日本では荒川の二瀬ダム、憧れの只見川の大鳥ダムと三か所だけのもの。1965年、石淵ダムから数えて3番目に完成した。ダムの利用目的としては、もちろん洪水調整のほか、不特定利水、発電がある。(写真上:両側の岩盤の重力式コンクリート部でアーチダムを支える湯田ダムの堤体、きんしゅうこものしり館内には非常用洪水吐から豪快に放流する写真なども展示されていた。)
国道107号は走りやすい道路だが、ダム左岸の管理事務所などは急峻な山肌に張り付くようにして建設されていて、国道からの出入口は2か所ともトンネル内というところ。出るときには信号機があるが、誘導員も配置されていた。
また、2021年に発生した地震により国道107号で地滑りの可能性があるため、錦秋湖に仮橋を設置。復路に利用したが、大型車の後ろについて走行するとかなりのスリルを味わえる橋であった(写真下)。現在、迂回用のトンネル工事が行われている。



湯田ダムは、ダム湖である錦秋湖に水没する住民の移転補償が大きな問題(622世帯が水没、東京都の小河内ダムに次ぐ規模)となったほか、国道107号や国鉄・横黒線(現・北上線)の付け替え、発電用ダムの水没対応にも時間と費用を要したダムである。
ただ、その反面、多くの関係者の協力を結集した形にもなり、「地域に開かれたダム」として錦秋湖を中心とした観光地としての取り組みやスポーツエリアとして整備・利用されているのも特徴。「ほっとゆだ」駅には温泉もあって、地域住民や観光客にも人気だという。
さらに、注目したいのは錦秋湖の最上流部(ほっとゆだ駅に近いところ)に「湯田貯砂ダム」がある(2002年完成、写真上)。湯田ダムへの堆砂を防ぐためのダムだが、この堤体は通路にもなっていて流れ落ちる水の中を歩くことができる。下流部の橋からの眺めも「ほっと」するほど美しい。



田瀬ダムは、猿ヶ石川にある重力式コンクリートダムだ(写真上)。堤高89.5メートル、堤頂長265メートル、ダム湖は「田瀬湖」と命名されているが、ここの総貯水量は5大ダムでは最大の1億4650万㎥。
当初は猿ヶ石堰堤として計画されたいたが、当時の内務省土木試験所長・物部長穂の論文や技監の青山士が議長を務める土木会議などにおいて、多目的ダムの田瀬ダムが誕生することになる。用途は洪水調整・かんがい・発電、発電は電源開発(JPOWER)が事業者となっている。
というのも、戦時下、直轄ダムとしては石淵ダムより先に着工しているが、途中中断。その時点での再補償などの問題があったり、戦後の混乱の中で電気事業者も再編されたこともあり石淵ダム同様電源開発が担当することに。完成も1954年と石淵ダムより1年遅くなった。



田瀬ダムのパンフレットには、ダムの放流設備に上部のクレストゲート6門のほかにコンジットゲート4門とあって、これが国内初の高圧スライドゲートでアメリカの技術を導入したとある。以降の多目的ダム建設にも寄与したものとして、「機械遺産」に認定されている。(写真上:「田瀬ダムものしり館」内のコンジットゲートを説明する模型)その後、放流水制御のため施設改良事業を実施)
時短のために山越えルートを選択して険しい道で田瀬ダムにたどり着いたが、管理事務所やものしり館のある左岸見学後、県道にもなっている天端の道路(写真上)で右岸に渡って帰路に就く。すると見たことのある場所に出くわした!
なんとまあ、「道の駅・みやもり」だ。そう、以前釜石の帰りにわざわざ立ち寄った釜石線「宮守川橋梁」のある場所だ。そこからクルマで10分とかからない場所に田瀬ダムはあった。めったに来れる場所じゃないのにまた忘れ物をしていたか!(当時、北上川5大ダムはまだ土木遺産に認定(選奨)されておらず、ノーマークだったと思われる。)


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5大ダム登場!最古参・石淵ダムから変身した新鋭・胆沢ダムから紹介

2025年01月17日 | 土木構造物・土木遺産


北上川は、昔から洪水による氾濫や浸水被害が多かった川であることはすでに紹介したとおり。ここにダムを建設しようと計画が持ち上がったのは、1941年(昭和16年)のこと。いよいよ「北上川5大ダム」の登場である。
5大ダムとは、下流から胆沢(いさわ)ダム(当初建設の石淵ダム)、湯田ダム、田瀬(たせ)ダム、御所ダム、四十四田ダムの国交省直轄の5つのダムである。(そのほか、岩手県の場合だと県営の洪水対策用の補助ダムが、遠野ダム含め3か所ある。もちろん宮城県にも北上川支川に鳴子ダム(直轄)、花山ダム(県の補助ダム)などがある。)
北上川中流の基本高水流量(一関市狐禅寺観測地点)13,600㎥/秒に対して、5大ダムと一関遊水地5,100㎥/秒を受け止めることができ、沿川や下流地域の洪水対策を行っている。



下流支川にあるダムから紹介。まずは、胆沢川にある「胆沢ダム」。中央コア型ロックフィルダムで、堤高127メートル、堤頂長723メートル、総貯水量14300万㎥、最初から巨大なダムの登場となる。(見出し写真を含む、写真上)
洪水調整のほか、水道用水、不特定利水(流水の正常な機能の維持)、水力発電のほか、日本三大扇状地のひとつである胆沢扇状地の農地へかんがい用水を供給している(三大扇状地?あと二つはどこ?)。北上川沿川では洪水とともに、支川は流域面積が狭いことなどから、農業用水の確保にも悩まされた地域であった。
胆沢ダムの完成は2013年(平成25年)、5大ダムとかいうけど、ついこの間出来たばかり?実は、全国でも屈指の巨大ダムができる前までは、5大ダムの中でも最古参だった「石淵ダム」が胆沢川流域の守り神として同じ場所に存在していた。



石淵ダムは、総貯水量1615㎥(胆沢ダムの1/9)。日本では初めてのロックフィルダム(表面遮水壁型)として1953年(昭和28年)完成したものの、ダム規模や貯水容量が小さいことなどから洪水被害や渇水被害が繰り返し、生活用水確保にも困難を極めていた。(写真上:国土交通省「胆沢ダム」パンフから)
その石淵ダムの再開発事業として計画されたのが胆沢ダムを建設し、治水・利水事業を向上させることになった。つまり5大ダムの中で最初に建設された石淵ダムに変わり、最も新しい胆沢ダムに変身したのである。
石淵ダムはというと、胆沢ダム完成後、胆沢ダムから上流2キロ地点のダム湖である「奥州湖(写真上)」の湖底で眠っている。あれ?どこかにもありましたね?胆沢ダム管理支所(写真下)の展示室には石淵ダムを紹介する史料コーナーもある(写真下)。係の人に聞いたら数年前の渇水期に湖底から顔を出したことがあるらしい。


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並川熊次郎の功績を称えて、北上川の分流施設が保存されている

2025年01月14日 | 土木構造物・土木遺産


早く上流に行きたいとは思うのだが、前回の話のついでと言っては何だが、北上川の付け替え、分流事業について触れておきたい。
北上川は、旧北上川の河口から30キロほどのところ、(新)北上川では追波(おっぱ)湾からだと25キロほどの地点で分水(分流)されている(一関遊水地からは約50キロ下流)。石巻市街地を洪水から守る目的で、1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)まで、なんと23年をかけて工事が行われた。
北上川の派川(川の本流が河口に出る前に分かれて海に注ぐ河川)でもあった追波川を利用することで、本川は東の追波湾へと流れを変えた。これまで登場した支川の迫川、江合川は分流地点から下流で旧北上川と合流し、石巻市街を流れ石巻湾に注ぐ。(写真上:追波湾に近い北上川河口と、石巻市街地を流れる旧北上川)



しかし、川の分水(分流)計画となると、前回も少し触れたとおり先輩格の信濃川「大河津分水」の方が有名。比して、北上川の分流事業というのはあまり大きく取り上げられることがないものの(というより当たり前の事実として受け止められている?)、信濃川同様に関係者の労苦も多かったという。
新水路の開削時の地盤との戦い、柳津(現登米市津山)の住民移転のほかに、分流地点に設ける堰についても計画変更の連続。こちらは地盤が軟弱なことから堰の上に堤防を築くことは不可能として、堰の規模を縮小せざるを得なかった。
この堰が北側の鴇波(ときなみ)洗堰(写真上:手前が鴇波洗堰、奥は新設の鴇波水門)、加えて南側の比較的地盤のしっかりしたところに脇谷水門と脇谷閘門(写真下の二枚)を設置することとなった。つまり、旧北上川へは2本の分流口があるということになる。(なお、新しい北上川には9キロほど下流に「飯野川可動堰(現在は「北上大堰」を新設)」を設けて、分流の水位を調節する。)



しかし、分流地点にあるこれらの堰も昭和初期の構造物で老朽化も激しい。平成に入ってから鴇波・脇谷の両水門を巨大な水門1基を新設して分流をカバーする計画が持ち上がった。
ところで、分水時に設計に携わった並川熊次郎(内務省技師)を知っているだろうか?大河津分水は青山士が携わったことで有名だが、並川の名前を聞いたのは私も初めてだった。この並川が鴇波洗堰を活かしながら、脇谷洗堰の設置を計画した人である。
分水開削時における並川熊次郎の偉業を称えるためにも、工事関係者や地元の方々は鴇波・脇谷の両水門、閘門を現状のまま残すことを選択し、それぞれの堰の上流に新たな水門を築いたのであった。
(鴇波・脇谷洗堰、脇谷閘門とともに、両水門の間にある「北上川河川歴史公園(写真下)」には、旧月浜第一水門(写真下の奥の構造物)なども移設展示、見出し写真の2つの洗堰を結ぶ締切堤を含めて、2004年「北上川分流施設群」として土木遺産に登録されている。)








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せっかくなので一関遊水地の中をクルマ走らせました

2025年01月11日 | 土木構造物・土木遺産


「あいぽーと」で北上川の情報を仕入れて、さらに上流に移動する。せっかくなので遊水地の中に縦横無尽に走る道路へ。管理用、農業用の道路だけでなく、ここには立派な県道も走り、生活路線として使用されている。
第三遊水地から柵の瀬橋で北上川を渡り、第一遊水地へ。第二遊水地を含めると面積は1450ヘクタール、総貯水量1億2940万立方メートルで日本では釧路遊水地(北海道)、渡良瀬遊水地(栃木、群馬、埼玉、茨城の4県にまたがる)に次ぐ国内三番目の規模である。
北上川沿いに小堤を築いた上、遊水地の外側に周囲堤がある。普段は農耕地として利用するが、洪水時には遊水地に水をためこみ、一時貯留し周囲堤外側の市街地等への浸水を防ぐととともに下流地域へのへの洪水調整の役割も担う。
(写真上:第一遊水地を走る県道14号、もう一枚は遠くに大林水門を望む。写真下:遊水地のど真ん中を東北新幹線の高架が走る、もう一枚は周囲堤の内側から)



この遊水地は、1947年(昭和22年)のカスリン台風、翌年のアイオン台風がもたらした2年連続の大洪水により、「北上特定地域総合開発計画」の一環として計画されたもの(このご紹介する5大ダム、一関遊水地の前身である「舞川遊水地計画」など)。で、徐々に計画規模を拡大していった。
事業着手は1972年(昭和47年)、昨年3月末の進捗率は87%。計画からは70年が経過しているが、まだ工事が進められている。住民の反対運動や遺跡の保護、たび重なる洪水、地役権補償などを乗り越えて、完成までもう少しというところまできた。
その工事の中には、3か所の遊水地の排水を担う水門三基のほか、周囲堤に陸閘(りっこう:堤防等に作られた水門付の通路)2か所、遊水地に流れ込む支川の改修工事、樋門・橋梁・排水機場などの建設も含まれている。救急内水排水施設、排水ポンプ車も設置され、万全な内水対策(洪水時に樋門を閉めることにより、支川の水を排水するための施設など)も施されている。
(写真下:遊水地の平面図・断面図(国土交通省東北地方整備局のハンドブックから)と、遊水地の水門を紹介するあいぽーとの展示写真)



前回も触れたが、遊水地として一関の地が選ばれたのかというと、下流26キロの宮城県境まで及ぶ狭窄部があること、一関より下流では極端に勾配が緩くなり河川の流下能力が低くなり、流しきれない水が一関・平泉地区にあふれ出すという洪水が起こりやすかった。
狭窄部を切り開くためには硬い岩でできた川岸を大幅に削るというのは難工事。トンネルを掘って太平洋に流すためには40キロのトンネルは必要で工費や時間がかかりすぎるということもあって、5大ダムとともにこの地に広大な遊水地を整備することになった。
なお北上川は下流に分水路があり、追波湾(おっぱわん)に注ぐ新北上川(新川)と石巻市の中心地を経由して石巻湾に注ぐ旧北上川があることはご承知のとおり。こちらは1934年(昭和9年)完成。信濃川の大河津分水よりも少し後輩。
(写真下:周囲堤の高さを実感できる写真と、周囲堤上の管理道路から。右手に遊水地、左に住宅地が見える。)



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北上川学習交流館の「あいぽーと」は防災センターでもあった

2025年01月08日 | 土木構造物・土木遺産


さて、いよいよ北上川に行こうと思う。長さ249キロメートル(国内第5位)、流域面積10,150平方キロメートル(国内第4位)、流域人口は139万人、奥州藤原氏の繁栄と平泉文化(世界遺産→「平泉‐浄土思想を基調とする文化的景観」)を生み、森林・水田など豊かな自然に恵まれた東北随一の大河である。
ナイル川やチグリス・ユーフラテス川にも言えるように、産業や文化の形成にも川があるということは重要な要素。川があるところに人が集まり文化が栄えるといってもいい。北上川もそう言えるのだが、やはり日本特有の地形から洪水などの災害も多かった川でもある。
水防という観点ではすでに北上川流域には足を踏み入れている。以前紹介した鳴子ダムは江合川に、長沼ダムは迫川など、それぞれ北上川の支流にあるダムだ。そのほかにも石巻のかわまち交流拠点震災遺構・大川小学校でも北上川に触れている。



見どころ、紹介しどころはたくさんある北上川流域だが、前回紹介した福島の荒川同様、川の歴史などを紹介する施設を探していたところ、中流の岩手県一関市に「北上川学習交流館・あいぽーと」という施設があることを発見!まずは、こちらにお邪魔してみることにする。
場所は、一関駅から東へ2キロほどのところ。北上川支流の磐井川に架かる東大橋の西詰、周辺には体育館やサッカー場、一関遊水地記念緑地公園などの公共施設が集中する場所に、国土交通省(東北地方整備局)所管の立派な外観の建物があいぽーとだ。
その展示室には床一面に流域のマップが描かれていて、それを囲むように沿川で発生した水害の歴史パネルやダムなどの水防施設の写真・説明が並んでいる。図書コーナーや学習スペース、幼児用のお遊び広場なども備えている。



北上川を学ぶ施設としては期待どおりの内容だが、施設の3階には展望室を備えているのが特徴。ここからは一関遊水地が一望できる。手前(北上川下流)の第一遊水地から北上川左岸の第三遊水地、かなた上流に第二遊水地も。(写真下:展望室から遊水地を見る。もう一枚は、大林水門付近の北上川)
この後紹介する北上川流域5大ダム群とともに、北上川遊水地は下流に控える北上川最大の狭窄部があるため、県南地域の守り神として存在する。それを一望できる場所にあいぽーとがあるのだが、実はこの施設は国土交通省の一関防災センターが併設されている。
実際、2008年(平成20年)の岩手・宮城内陸地震では災害対策拠点として、2011年の東日本大震災では全国各地から災害対応・支援のための車両が集結した拠点にもなった。洪水時は2階の集中管理センター災害対策室で情報の一元管理をする拠点にもなるのだ。



それにしても、あいぽーとではパンフレットがたくさん展示されていて、自由にお持ち帰りが可能。「いただいていいんですか?」と受付のお姉さんに一応断って、立派なハンドブックや分厚い写真集なども手にした。これは凄い!(写真下:展示提供するパンフレット類の書棚と持ち帰った資料)

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通販番組を見て、初めて「おせち」を注文してみたら

2025年01月06日 | 食(グルメ・地酒・名物)


先日のこのブログで「冷凍食品の可能性」という記事を書き込んだ。その際も触れていたが、今回のお正月の「おせち」にも冷凍食品の登場となった我が家。さて、冷凍食品の可能性はさらに広がっただろうか?
年末のテレビショッピングでは、猛烈におせちについての広告・番組が多かった。老舗料亭や一流ホテルの料理人監修をうたった豪華なものから、家電通販のあの会社までおせちを販売している。一時通販のおせちは、触れ込みやサンプルと違うとの指摘や開けてみたらガサガサっていう問題も多かった。
我が家はその中でも、ベルーナという通販会社。訪問販売・カタログ販売などが事業の始まり、アパレルやインテリアなどといったイメージが強い会社ではあるが、冷凍食品も早くから取り組んでいる。自分自身は減塩弁当を頼んだことがあって、なかなか美味しかったので今回はベルーナのCMを見て、初めて通販のおせちを試してみることにした。



ベルーナのおせちの味は弁当で確認済みといえそれほど期待はしていなかった。ただ、三段重で10,800円。魅力的な価格?というか、初めてなのでハズレても諦めのつく価格?何よりも、冷凍状態でのお届けと、各お重ごとに包装され冷凍庫に収まりやすいというのが魅力だった。これは気が利いていると思う。
私が留守中に家族に「おせちが届くから」と言ってあったが、荷物を受け取った妻は「小さい」とのコメント。確かに小ぶりの容器ではあるが、ぎっしりとご馳走が詰めてある。見栄えはいい。味もびっくりする美味さとは言い難いが、何の問題もない。娘二人が正月休みに遊びに来て3~4人で食べるのに丁度いいし、何よりコストパフォーマンスは最高だと思う。
ネットでの評価はわからないが、「ベルーナで頼もうかと思って」というと、周りでも気になっていた人が多いようだし、頼んだけど売り切れていたとの声も。通販番組の女王・中野珠子氏(写真下)が渾身のアクションと声のトーン(この人、通販番組に出過ぎ!嘘くさく思えてくる)、冷凍弁当の実績(写真下・再掲)から早めに頼んで正解!

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冬場の仕事「薪ストーブ」のお世話係になって

2025年01月03日 | 仕事(教育活動・いちご・建設・選挙含む)


そろそろ現役引退?と考えていたが、少人数で店と工場を運営している中、几帳面で器用な取締役が体調不良で療養中になったこともあって、店の雑用係として延長登板を続けている。
年も明けて、三が日はお休みだったのだが少し雪が積もったので、明日からの営業に備え仕込みのため出勤するキッチンクルーの駐車スペースを確保するため除雪作業に出動。自分も新年初出勤となった。
店自体は休みだったので、駐車場などの機械除雪は明日に持ち越しすることとして、明日の除雪に要する時間を少しでも確保するため、休憩スペースに設置された薪ストーブの掃除を前倒しで行うことにした。



この仕事、先年までは病気療養中の取締役専任の仕事だったのだが、掃除や点火作業、薪の支度など、見よう見まねで薪を追加して燃やすことはしていたが、除雪を含めて新しい冬場の仕事が増えてしまった。これが結構時間と手間がかかる。面倒です、ハッキリ言って!
特に薪ストーブは、前日消火を確認した後、朝から灰や煤(すす)まみれになって掃除。店に立つときのユニホームの袖口を汚すことも多々ある。手順を間違えたり上手く火がつかないと部屋に煙を充満させることも。
薪ストーブを稼働させて1か月、ここにきてだいぶ要領を得てきてはいるが、それでも朝の除雪があるときはスコップを持ちながらストーブの火を確認したりするため、時間的にもかなり余裕がなくなるときがある。



でも、ガラスを磨いたりするとピカピカになってくれるし、上手に火が起きるとゆらゆらと炎は暖かい笑顔を見せてくれる。火が見えるっていうのは心も暖かくなるし、何よりお客様は「とても優しい暖かさだ!」と喜んでくれる。苦労も吹っ飛ぶ嬉しい瞬間でもある。
まあ、手間のかかる分、何かゆったりとした気分にさせてくれたり、人の気持ちもほっこり暖めてくれると言い聞かせ、掃除したりする手間や時間も大事にしていきたいと考えている。
「忘れかけていた大切なもの見つけませんか?薪ストーブを囲む暮らしで、心までも暖かく」は、このストーブ導入に際し販売施工をしてくれた「雪国科学」という会社のホームページの言葉。そのとおりだと、一人うなずき今日も手入れしてきた。(雪国科学のホームページに、施工実績として店の紹介が掲載されている。)



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自然派のおばちゃんと荒川の水防林・霞堤をデートして

2024年12月27日 | 土木構造物・土木遺産


福島・荒川を訪れる際に予想してはいた。砂防堰堤は数も多いし、なかなか見ようとしても険しい場所にありそうなこと。事前に地図を見ていると、荒川のほとり小富士橋の右岸の橋詰めに「荒川資料室」というのを見つけた(写真上:外観と内観・展示資料)。
荒川の歴史を紹介する施設で、荒川の氾濫時の資料や治水事業を模型で展示、荒川に親しみを持ちかかわりのある人の交流の場となっているという。福島市が設置する資料室。まず、ここを訪ねて情報を入手しようと考えた。(前回の記事と前後しての紹介となる。)
キャンプ場などもある「水林自然林」という公園の入り口に瀟洒(しょうしゃ)な白い建物が荒川資料室。ガラス越しに中をのぞくと誰もいない?だが、扉を開けると初老の女性が奥から出てきて声を掛けてかけてきた。ちょっとびっくり!



國原よし子さん(写真上)は、長いこと資料館の管理をされている。地元の方で、荒川の恩恵を受けながらも、暴れ川の一面も目の当たりにしながら、川とともに暮らしてきた。水害の歴史や堰堤をはじめ水防施設の話を丁寧に説明してくれる。
いろいろ資料・パンフ類も提供してくれた。が、ネットで見た地方整備局(福島河川国道事務所)が作成したパンフレットの話をすると、すでに配布は終了してしまったというものの、奥の方から最後の一部を探し当て惜しげもなく分けてくれた。貴重な荒川土木遺産絵図(写真上)も頂いた。
なんでも上司の方と川を歩きながら堰堤や床固の現場にも足を運んだということで、「クルマで近くまで行けるところ」という自分勝手な条件にも、前回紹介した地蔵原堰堤と東鵜川第一堰堤の場所(道順やクルマの駐車場所まで)を詳しく教えてくれた。



その後、公園内を案内もしてくれた。この公園は水林自然林というだけあって、江戸期から植林されてきた水防林が生い茂っていて、植物や野鳥も多い。その林内にはひっそりと石積みの霞堤も保存されている。何回か積みなおしたものだというが現在も機能しているという(写真下)。
國原さんはあまり草刈りなどを好まない様子。「自然のままがいい」とポツリとつぶやく。私は堰堤(土木構造物)を求めてここに来たため「植物には興味がない」と告げると、少し残念そうな顔をする。超自然派なんだなー。
一時間ほど一緒に歩き回り、帰りに土湯温泉も勧められた。温泉に入る時間はないが、温泉街の堰堤をバックに自撮りした写真を見せると「堰カード(ふくしま荒川・砂防堰堤カード、見出し写真)」がもらえるとの情報も。こりゃ、見透かされていたなと思いながら、お薦めの堰堤を見た後、温泉街の案内所に向かった次第だ。

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役割の重さ歴史の深さを背負って、福島「荒川」の砂防堰堤群がある

2024年12月25日 | 土木構造物・土木遺産


米沢に通っているときから気にはなっていた。今回紹介するのは、福島の阿武隈川の支流の「荒川」だ。第四世代の「萬世大路」である東北中央自動車道の長大な栗子トンネルを使うと、米沢から1時間弱でたどり着ける場所だ。
荒川というだけあって昔から暴れ川。その流れは2000メートル級の吾妻連峰峰から阿武隈川合流地点までの26キロほど延長で1800メートルの高低差で駆け下ることになる。豊かな大地を育む反面、豪雨の際には土石流や氾濫の被害が多発した川である。
ここには、古くから霞堤や水防林がといった洪水対策が施されてきたが、大正期から砂防堰堤や床固工が設置されており、その基数は支川の須川、塩の川、東鵜川などを含めると数えきれないほど施されている。勾配はかなわないけど、あの常願寺川上流と似ている?
(写真上:荒川の小富士橋から上流・下流の風景)



常願寺川の場合、カルデラ出口に白岩堰堤、扇状地のかなめ部分の岩峅寺付近に狭さく箇所がある(まあ、これも厄介者ではある)が、流れを右に左に変える扇状地の先に富山市があり、海抜の低い大都市に洪水被害をもたらしていた。
一方、荒川の場合は、土湯温泉付近から一直線に県都・福島市に向けて流れていて、結局阿武隈川がその水を飲み込めずに合流地点である福島市周辺にたびたび洪水被害をもたらしていた。(阿武隈川は、福島市下流にも上流にも狭くなる場所多い川なんですよねー。)
ここに大正期に設置された「地蔵原堰堤」のほか、昭和期に入って国の直轄事業となり、荒川本流に9基の堰堤、塩の川・東鵜川の支川に5基、そのほか荒川第四床固が施工され、その後も須川流域を含めて堰堤・床固・階段工・流路工などの工事が現在も進められている。
(写真上2枚:地蔵原堰堤は1925年完成、その後の補修などにより様々な石積み工法が見れる、砂防の父・赤木正雄お墨付き!写真下2枚:東鵜川第一堰堤は温泉街の通りから容易に見ることができる。)



ただ、谷が深く、かなり険しい山中に設置されており、設置工事も大変な苦労があったとは聞くが、中流部の床固工施工か所以外はなかなか見ることがかなわない。クルマ移動だと地蔵原堰堤と土湯温泉街の東鵜川第一堰堤しか拝めなかった。
コロナの影響でこのところ開催されいないというが、年に一度だけ川沿いを伝ってトレッキングツアーなどが開催されていたそうである。こちらもなかなか厳しそうな行程のようであるし、重装備も求められるのではないだろうか?
堰堤ほか近世の治水事業を含め「荒川流域治水・砂防事業」として土木学会選奨の土木遺産に認定。1957年(昭和32年)までに設置された堰堤・床固工15基は、歴史的な景観も寄与しているということで国の登録有形文化財でもある。確かに役割の重さ、歴史の深さを感じさせる福島の守り神である。
(写真下:クマ出没の看板脇にクルマを止めて地蔵原堰堤へは徒歩5分。飯坂温泉が福島の奥座敷なら、土湯・高湯温泉は福島の離れ(写真は温泉街遠景、土湯展望台から撮影))




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喜多方の人気ラーメン店「喜一」は、以前は洋食屋だった

2024年12月21日 | 食(グルメ・地酒・名物)


減塩中にもかかわらず連続ラーメンネタ。米沢では一挙にお店を紹介した感があるが、話は福島・喜多方に飛んで「喜一」という店をぜひ紹介しておきたい。なぜか会津地方のラーメン店は一店ずつ紹介しているんですよね。
喜多方ラーメンを提供するの店は、米沢と同じ100店ほどあるそうだが、人口比にすると日本一の密度を誇るラーメンの町だ。特徴は前回触れたとおり、多加水平打ち熟成麺、太くて縮れを特徴とする。シコシコ、モチモチの食感が楽しめるため、全国からラーメン好きが訪れる町になっている。
そんな喜多方の人気ラーメン店として、以前「坂内食堂」を紹介したことがあるが、今回紹介する「喜一」は2005年開業と比較的新しい店でもある。これが今や「食べログ」をはじめ、グルメや観光の紹介サイトでも人気が沸騰している店となっているのだ。



実はこの店の店主は、喜一の開店前までは洋食屋だった。ホテルなどでの修行経験もあって今でも「マスター」と呼ばれている。この洋食の要素を取り込んだラーメンが一代・20年弱で喜多方の代表格ともなったのである。
ホームページによると、スープだけでなく、麺とチャーシューにもこだわって、絶妙なバランスを保っているようだ。スープは鶏と焼きあごの出汁、醤油はほのかに香る程度にというが、ベースは中華よりも洋食に近いくらいという。店構えもフレンチか?イタリアンか?みたいな。
もちろん麺は平打ち太麺を手揉みしているが、塩・味噌などのメニューもある。実は組合で「会津山塩(裏磐梯の山塩)」を使ってラーメンスープを作ろうと公募したところ、喜一の味が満票を得て、この話題により店名も全国にも広まったのである。店の入り口には「福島県民ラーメン総選挙・二年連続第一位・殿堂入り」のエンブレムが掲げられている。



その塩は現在「日本海藻塩ラーメン」というメニューがある。新潟・村上市の笹川流れで昔ながらの手法で作られている塩を使用している。ラーメンに「淡麗Sio」との表記が…あれっ?その表記、どこかの店にもありましたよね!
そう、前回紹介した山形・高畠町の「山喜」である。山喜のラーメンを食べたときには会津若松の「うえんで」系かと思っていたが、「喜一」との「喜」繋がりはうっかりしていました。山喜の店主は、喜一で修行をした方だそうで、双方姉妹店として紹介している。どちらも朝9時から営業する喜多方スタイル。
そんな繋がりをたどっていくとまた面白い。ラーメン求めて新潟から会津へ、会津から米沢へ。俺は上杉家か!病気が判明する前とはいえ、ラーメンを追いかけることが体を張った取材になっているのかもしれない。


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減塩中にもかかわらず、「ラーメンのアルカディア」を紹介します!

2024年12月19日 | 食(グルメ・地酒・名物)
前回、減塩食を紹介した際に「大好きなラーメンを封印!」と記したところ、どうしてもラーメンについて触れたくなった。これまでも、新潟の5大ラーメン(プラスα)会津のお勧めラーメンに触れてきたが、今回は米沢ラーメンだ。(病気発覚前に取材したものばかりなのだが、すいません!以下紹介する中で1か所だけこの夏に食べちゃってました。)
記事にたびたび登場しているとおり、新潟からだとお隣という場所の良さ、景色や町がきれいなこと、興味深い歴史があること、美味しいものなども豊富なことなどから、我が家でも米沢を含む置賜地方はドライブコースにもなっている場所。米沢牛も有名だが、近年は「米沢ラーメン」が人気を集めている。(写真下:人気の米沢ラーメン店の「ひらま」と「かわにし食堂」。)




米沢ラーメンは市内でも提供する店(ラーメン専門店以外の飲食店含む)が100店以上あるという。そのほか高畠町や赤湯市、川西町など近隣の置賜地方のラーメンも「米沢ラーメン」と言っていい。地元では「ラーメン」ではなく「中華そば」という呼び方が一般的のようだ(全国一位のラーメン消費量を誇る山形県では、今はあまり使われなくなった「支那そば」と呼ぶ店も多い。新潟でもそう呼ぶ店は多いけど。)。
何でも大正時代に中国人が始めた屋台が始まりだそうだが、その後「米沢ラーメン」としての食文化が確立していったのは、東京で修業をしてきたコックが手揉み麺を始めてからで、さまざまな改良が加えられて現在の「米沢ラーメン(中華そば)」になたようだ。




会津・喜多方に似ている?確かに縮れ麵と透きとおった醤油のかえしのスープだけ見ると一見同じようにも思える。麺の製造工程で見えないところではあるが、多加水麺(水分を十分に含んだ麵)であることに加え、熟成期間を設けていることも同じである。
ただ、喜多方は平打ち(太麺)で、米沢は細麺という決定的な違いがある。スープも、会津・喜多方は豚骨系と煮干しなどのブレンドなのに対し、米沢は鶏ガラと煮干しが基本。米沢の方があっさり、これは食べてみるとハッキリわかる。てか、多分並べてじっくり見ると違いも分かるんでしょうなー。(写真下:米沢市近隣のまちのラーメン。)




ただ、米沢も会津・喜多方も見た目や味に特徴がないと酷評する人もいる。確かにその通りかもしれない。特に米沢のラーメンは、ここで紹介しているとおり、写真で見るとこの店のものかを区別するのも難しい。でも、それがいいんですよ!どの店でもちゃんと味に特徴がある。そこそこのクオリティーが保たれているのだ。
それでも、このところ少し変化がみられるようだ。かたくなに自家製麺や手揉みにこだわっている店がある一方で、味噌味や塩といったスープに挑戦したり、トッピングに変化や工夫を凝らしたりして、伝統を守りつつも店の名物づくりにも取り組んでいる店も出てきた。
(写真下:「山大前やまとや」の野菜炒めを乗せた中華そばが人気、「めんこう」のメニューにはあっさり、こいくちのほかに、みそ、辛みそ、塩なども。トッピングも豊富。)




同じ置賜地方ではあるが、早くから赤湯からみそラーメンを開発・提供してきた赤湯市の「龍上海」(写真下:「赤湯ラーメン、赤湯からみそラーメン」は店の登録商標。監修のカップ麺もある)、見るからに会津の流れではあるものの人気店となった高畠町の「山喜」は異彩を放っている(写真下)。この地方を「ラーメンのアルカディア(桃源郷)」と呼ぶべきかな。







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