行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

まほろばの里にあった廃線跡は、いまも東西「高畠駅」を結んでいる

2024年10月24日 | 鉄道


山形の石橋を探して高畠の町を歩いていると、「高畠駅」という看板を目にした。高畠駅はJR奥羽線の駅のはずだがー、そうだ!ここには旧高畠線があって、高畠駅は高畠町役場などがある市街地にあったことに気が付く。
奥羽線の米沢・山形間が開通したのは1900年(明治33年)、前回、前々回紹介している米沢までの開通の翌年で、高畠鉄道は奥羽線の旧糠ノ目駅(現高畠駅)と旧高畠駅の間が1922年(大正11年)に開通。その後、二井宿まで延伸され、1943年、山形鉄道高畠線となった。
旅客輸送のほか、貨物の取り扱いも行っていた。というより、高畠周辺では製糸業が盛んで、生糸や製品の輸送や材木、果物などの地域の特産物を輸送する目的が強かったとも言われている。1974年(昭和49年)、水害によるダメージをきっかけに全線廃止。先に紹介した「くりはら田園鉄道」よりかなり前に廃止。「赤谷線」の廃止よりも10年前のことだ。



旧高畠駅は高畠鉄道開通後、それまでの木造駅舎から、1934年(昭和9年)立派な駅舎が完成(写真上)。これは地元の特産品である凝灰岩「高畠石」を使用しているが、石で作られた駅舎は珍しいこと。石造りのプラットホームなどとともに、登録有形文化財として保存されている。
駅舎の色彩や大正ロマンを感じさせるデザインは高畠のシンボル的な存在である。また、駅構内はきれいに公園化されており、一角には当時活躍したED1電気機関車やモハ1などの車両も展示されていることから地域住民や鉄道ファンにも親しまれているという(写真上)。



廃線跡は、赤谷線と同じくサイクリングロード「まほろば緑道」として整備がされていて、現高畠駅から「日本のアンデルセン」といわれた童話作家・浜田広介の記念館、高畠市街・旧高畠駅、「まほろば古の里歴史公園」や道の駅「たかはた」、蛭沢湖など高畠町の観光スポットを結んでいる。
高畠市街と奥羽線・現高畠駅までは5キロほど。まほろば緑道は通勤・通学など生活路線として利用されているが、沿道は桜並木があって、さぞ桜の時期には見事なのではないかと思う。前述のとおり、かなり早い時期に廃線となってはいたが、跡地はしっかりと保存されている。竹ノ森駅はポケットパークに、和田川の橋梁は桁部こそ架け替えられているようだが、橋脚は以前のもののようだ(写真下)。
まほろば緑道整備にあたっても、沿線に浜田広介記念館や道の駅などを配したことは地域の熱意を感じるし、観光面でも効果的ではないだろうか。(「高畠ワイナリー」は、奥羽線の上り方面で奥羽線を跨ぐが、高畠駅からも1キロほどなのでレンタサイクルでも行ける。)



まほろば緑道は、廃線跡をそのままに奥羽線の現高畠駅(起点・旧糠ノ目駅)まで続く。旧糠ノ目駅は、1991年(平成3年)に「高畠駅」と改称される。山形新幹線の開業前年のことである。17年振りに「高畠駅」の復活だ。
国鉄分割民営化の以前に無人駅(簡易委託駅)になった糠ノ目駅であるが、高畠駅と改称したことにより東西の自由通路の開設、東側に「太陽館」の建設に伴い駅舎機能を東側に移転、新幹線が停車する駅としてJR直営駅としても復活を遂げた(2015年から業務委託駅)。
それ以後も店舗、温泉施設、ホテルなどができて、市街地方向の東口が名実ともに高畠町の玄関口となった。高畠線の起点・糠ノ目駅のあった場所だ。まほろば緑道は、「まほろばの里」にある町の東西・新旧の高畠駅を今もしっかりと結んでいるのである。(写真下:JR奥羽線高畠駅の東口付近、自由通路入口は高畠線の始発地点であり、奥羽線東側の現高畠駅舎・太陽館は市民や観光客の憩いの場所にもなっている。)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥羽線・峠駅で「峠の力餅」の立売りの声が響く

2024年10月22日 | 食(グルメ・地酒・名物)


奥羽線・峠駅と言えば「峠の力餅」。ご存じだろうか?峠駅開業は奥羽線の福島・米沢間の開通とともに1899年(明治34年)、それ以前の1894年に創業したのが「峠の茶屋(屋号は、最上屋?小杉商店?とも言うらしいが)」である。店は峠駅前にポツンとたたずむ(写真上)。
創業130年なのだが、駅開業とともに「峠の力餅」というあんこ入りの餅を販売。なんと今現在もホームで立売りをしているお店で、取扱商品は「峠の力餅」のみ。店自身のホームページなどでも「絶滅危惧種」と紹介している。確かに肥薩線・人吉駅や鹿児島本線・折尾駅で駅弁の立売りを見たことはあったが、どうなっているだろう?
地元の新津駅や直江津駅でも、ホームの傍らに立売箱を置いた形での販売を見かけたことはあるが、パッピを覆い、立売箱を持ってホームを行き来し、車窓越し(ドア越し?)に売る光景は珍しいというより懐かしく、「未だにあったのか?」との驚きしかない。東日本では唯一ということのようだ。



峠駅は、乗降客が一日平均4.7人(山形県「駅別乗車人員の推移」、2004年)の秘境中の秘境、正に峠駅でなぜ?という思いがこみ上げてくる。以前は鉱山があって駅周辺にも人家があったらしいが、現在は秘湯として知られる滑川温泉、姥湯温泉の最寄り駅ではあるのの(確かに、宿の迎えのクルマらしいものが)、駅構内も駅前も極めて静寂に包まれている。
立売り対象列車は、早朝・夜間を除く3往復6列車。それ以外にも予約をすればホームまで届けるそうで、私が訪れた午前8時30分を挟んだ上り下りの2列車にも、入線の際に深々と頭を下げ、停車時間30秒間で4両編成の後方から立売箱を持ってくまなく売り歩いていた。
ホームに立つのは5代目の店主・小杉さん。頑固なまでに立売りを残したいという気持ちがある。日に6往復の、しかも生活路線である各駅停車のみ、「奥羽本線」とは名ばかりのローカル区間の秘境駅で、鉄道とともに歩んできたという心持ちで「最後の砦(峠の茶屋ホームページから)」を守っているのである。



私の場合は、峠駅のスイッチバックの旧駅を見学するため下車したため、購入するのに慌てる必要はなかったが、どの列車も30秒との戦いがあるようだ。そのため売値は1000円!お釣りのやり取りがないようにとのことだが、それでも売れたとしても一列車で5~6個の販売が停車時間内では限界とのこと。
さほど苦労をせずに力餅を手にすることはできたものの、最後の砦を守る力を分けてもらったような気がするのだが、家に持ち帰って写真を撮ろうと箱を見ると、すでに妻がひとつ食べてしまっていた。そりゃ力を込めて「私に買ってきたんでしょ?何が悪い!」みたいな態度でした。
なお、米沢駅前にも「峠の力餅米沢支店」というのがあって同様の力餅を販売しているが、こちらは先代の時に暖簾分けした店で全く別会社(写真下)。山形新幹線「つばさ」車内で販売しているのはこちらのお店のもの。お味は変わらないということだが、さて力が付きそうなのは?私は、ぜひまた峠駅を訪問して購入したいと思っている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥羽線のスイッチバック駅跡をジグザグで踏破

2024年10月15日 | 鉄道


米沢訪問するからには、ぜひ行ってみたいと思い続けていた場所、それは奥羽線のスイッチバック式の駅跡だ。奥羽線の福島・米沢間には、かつて4つのスイッチバック駅が存在したが、山形新幹線開業に伴い全てが本線上に駅を移転、スイッチバックも廃止されたが、新幹線で通過する際は旧駅を車窓から眺めながら、いつか行こうと思っていた。
クルマで行くのは簡単だと思っていたが、なかなかの難所。萬世大路の栗子峠(明神越えを含む)とともに、この間を結ぶ峠道はなかなか人を寄せ付けない。古くからの難所で、米沢藩は峠越えに危険が伴うことや戦略上の理由で通行を禁止していたこともあったそうで、前回登場の土木の鬼で山形県令・三島通庸が山形発展のために明治期に入ってようやく開削を試みた場所なのだ。
どうせ鉄ちゃんを自称するなら、電車で行こうと思い立つ。しかし、そんな県境の場所を通る路線ということもあり、福島・米沢間を通しで運行する列車は一日6往復しかない。これはハイブリット方式で行くしかないなと、地図と時刻表を読み解き早朝、米沢駅に向かうことになる。(写真上:早朝の米沢駅舎とホーム)




奥羽本線は、東北本線福島駅を起点に、米沢から山形・新庄・大曲と出羽山地の内陸部を北上し、秋田、大舘、弘前、終点・青森までの484.5キロ結ぶ路線。青森、福島の両側から建設が進められたが、福島・米沢間が開通したのは1899年(明治32年)のこと。萬世大路より南の板谷峠を超えるルートである。
しかしこの板谷峠も難所。最大勾配38‰(パーミル)で碓氷峠で紹介したアプト式の採用も検討された路線。かつ豪雪地帯であったことから、米沢までの40キロ区間だけで20か所のトンネル(開通当初)と急カーブの連続、谷間を走ることから高所に鉄橋をかける必要もあった。実際、列車故障事故や積雪、豪雨などの自然災害などによる不通も多かった路線だ。
その急勾配路線に駅を設置するため、本線から平坦地に線路を引き込むのが通過可能型のスイッチバックである。それがこの区間14キロほどに4駅連続で設置されるというなかなか他では見られない路線・区間。スイッチバックでジグザグに刻まれた動脈の開通が米沢をさらに開化させた。(写真上:大沢駅とその周辺、写真下:峠駅のスイッチバック旧駅への引き込み線とスノーシェッド)



福島県側から赤岩駅(福島県福島市、2021年廃止)、板谷駅、峠駅、大沢駅(いずれも山形県米沢市)。今回は米沢市域にある3駅を訪問したが、これらの駅は山形新幹線建設に伴い標準軌に改軌を行った際に、本線上に新駅を建設することになり引き込みスイッチバックは旧駅とともに使用されなくなった。
碓氷峠と同様、勾配克服に補助機関車(4110系蒸気機関車など)を必要としていた時代からすると、山形新幹線開通に伴い導入された「つばさ(初代400系)」や719系5000番台交流型近郊電車の開発・導入により、安全性やスピードアップ化の波がこの板谷峠を通る奥羽線の路線や駅の姿、車両を大きく変えたのである。
いずれも旧駅舎などは取り壊されているが、本線から旧駅にかけての区間は現存の3駅はスノーシェッドに覆われていて、引き込み線の部分は新駅に通じる通路などとして利用されながら、鉄道遺構として保存されている。これらは近代産業遺産に認定されている。(写真下:板谷駅のホーム上からのスイッチバック線と旧駅のホーム跡)



今回、米沢駅の駐車場にいったん車を止めて、米沢7:16発→大沢7:27着、(大沢駅滞在22分)大沢7:49発→米沢8:00着、(米沢駅滞在8分)米沢8:08発→峠8:25着、(峠駅滞在12分)峠8:37発→米沢8:54着と、数少ない列車を自分自身もスイッチバックしながらこまめに乗り継いで二駅を訪問。
その後、クルマに乗り換えて、萬世大路の第三世代にあたる国道13号で西栗子トンネル経由で板谷駅へ。大沢駅、峠駅はクルマでももちろん行ける場所ではあるが、険しい山道を通る上、大沢駅と峠駅の間は道なき道(一応県道だが)を大きく迂回しなければならないことから、今回の移動手段となった。(赤岩駅跡へは、周辺の道路事情などから訪問を断念。)
最後の訪問地の板谷駅に立った時、警報機が鳴りだし列車の接近を知らせる。福島方面から下りの山形新幹線「E6系つばさ」が線路脇にある36‰を示す勾配標をものともせず「翼」を得た如く軽快に急坂を登り終え走り抜けていった。苦労してスケージュールを練って、そして時間を費やしながら鉄道遺構を見た後だったので、技術の進化を目の当たりにした感じがした。(写真下:今回使用した二往復分の切符と、板谷駅を通過する「つばさ」。左の速度制限標識の下に「36.0(‰)」の勾配標が見える。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東洋のアルカディアを潤す「水窪ダム」と国営米沢平野農業水利事業

2024年10月10日 | 土木構造物・土木遺産



前川ダムを紹介したついでと言っては何だが、米沢市の「水窪ダム(写真上)」にも触れておきたい。最上川水系刈安川にあるロックフィルダムで、農林水産省東北農政局が建設したかんがい用のダムで、米沢平野土地改良区が受託管理しているダムだ。
堤高52メートル、堤頂長205メートルで、主に農業用水を確保するための目的であるが、上水道や工業用水にも供給されており、まさに米沢市を含めた周辺地域の水ガメ。1975年に完成した後、管理用発電の機能も加えられた多目的ダムである。
前川ダムを紹介するときに少し触れたが、山形市・米沢市を含むの山形県の内陸盆地にはため池が多い。これは盆地特有の山が浅く、そこに流れ込む川は延長が短く急流、古くから洪水や渇水に悩まされたが、水窪ダムにより米沢盆地の水不足を一気に解消を図るというもの。ただ、今回の見どころはダムだけではない。



以前、米沢地域は、土地は荒廃しやせていたため、なかなか作物が育つ場所ではなかった。特に渇水期には川には水が流れなくなることもしばしばで、農業を営むには難しい土地とされていた。そこに現れたのが上杉家9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん、写真上:米沢市内松が岬公園の鷹山公銅像)である。江戸中期のことである。
鷹山というと質素倹約のイメージだが、現代にも受け継がれる米沢の特産品の礎ともなった殖産事業を奨励した。それに伴い新田開発、加えてかんがい施設(黒井堰、飯豊の穴堰などは有名)の整備も積極的に推進し、次第に農地も拡大、藩の財政は好転、米沢の町も潤ってきたのである。
鷹山が藩主に就いてから100年ほど後の1878年(明治11年)、「日本奥地紀行」で米沢を訪れたイザベラ・バードは、米沢盆地を見て「東洋のアルカディア(桃源郷)」と表現するほどに。その時代の日本に対して辛口の評価が多かったバードの旅行記であるが、それほどまでに米沢は発展したのである(写真上:川西町フレンドリープラザの庭にあるイザベラ・バード訪問の記念碑と記念塔)。



ただ、水は足りない。大正期には電気ポンプで地下水や最上川(松川)などから用水を汲み上げるとともに、明治期から昭和初期までにため池も数多く造成されていった。それでも足りずに、1958年(昭和33年)、この地方は大干ばつに見舞われる。
農業用水確保のためのダム建設が求められ続けてきたが、1970年(昭和45年)国営米沢平野土地改良事業が起工し、水窪ダムの建設を核に盆地を縦断するように東西幹線用水路の整備、頭首工や揚水機場などが整備され、現在、米沢を真のアルカディアに仕上げたといえる。(写真上:黒井堰は土地改良事業より改修された(米沢市窪田)。もう一方の写真は、市内西側を流れる西幹線用水路の開渠部(米沢市笹野町付近))
この整備を機に、周辺の17の土地改良区・連合が合併。新たに設立された米沢平野土地改良区は、2002年(平成14年)農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)受賞。江戸期には藩主だけでなく家臣や領民が、現代も行政や土地改良区の関係者、そして受益者が心をひとつにしながら、2世紀をかけて「豊穣の土地」を作り上げたのだ。



※ダムカード(写真上)は、米沢市内、米沢市役所に隣接する「米沢平野土地改良区(写真下:米沢市金池)」の事務所受付で配布している。子ども向け(?)のパンフレット(写真上)も一緒にもらった。とても分かりやすい!
※水窪ダムは、洪水調整機能は持ち合わせていない。圏内で洪水調整をするダムは、最上川水系の鬼面川(おものがわ)支川の綱木川にある山形県営の綱木(つなき)川ダム(不特定利水、上水道、発電機能も持つ多目的ダム、写真下:米沢市簗沢)がある。
※黒井堰は、計画を立案し工事の責任者となった米沢藩の家臣・黒井半四郎忠寄(くろい・はんしろうただより)にちなむもの。黒井は「飯豊の穴堰」も計画立案したが、完成を見ないまま死去する。53歳の生涯だった。和算術に優れ、それが測量にも活かされた。
※静岡県にも「水窪ダム」があるが、こちらは「みさくぼ」と読む発電専用ダム。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河道外貯留方式の「前川ダム」発見!石橋めぐりの思わぬ釣果

2024年10月07日 | 土木構造物・土木遺産


最上川水系の須川の支川・前川で石橋を探していると、とても珍しいダムがあることに気が付いた。「前川ダム」は、山形県営のダムで、洪水調整を目的に建設されたロックフィル式のダムだ。1983年(昭和58年)完成。堤高50メートル、堤頂長265.5メートル、総貯水容量440万立方メートル。
まあ諸元だけみると普通規模のダムであるが、同じ前川から新たに河道を作り、同じ支川の小河川にダムを建設し水を貯留。ダムからの放流水をまた前川に戻すという「河道外貯留方式」という全国的に見ても珍しい方式を用いるダムなのである。
上山市や下流の山形市や山辺町などの前川・須川沿川は洪水被害が多い場所であったが、前川沿いにはダム建設の適地がなかったため、このような方式となったそうだ。ダム貯水池(忠川湖→山形県パンフレットに記載、写真下)へは約2.9キロ導水路で水を引き込み洪水調整を行うというものだ。(ダム建設前に、農業用水確保のためのため池があったことから、忠川湖にも常に水を貯留し不特定利水の目的も担っている。)



分水口は、前回紹介した石橋・吉田橋の下流300メートルほどのところ(南陽市小岩沢、写真下一枚目:右のトンネルがダム貯水池への導水路。)。この分水口を探すのに苦労したが、必ず建設時や現在も管理用として道路はあるはずだと踏んで、またまた山道にハイエースを乗り入れる。ダムを経て再び前川と合流するのは、やはり石橋・堅磐(かきわ)橋のある場所(上山市川口)である(写真下の二枚目:右に堅磐橋のある本流、左のコンクリート護岸部から流れ込んでいるのがダムからの放流水。)
導水路は5本のトンネルと開渠で構成、トンネル部は直径約8メートル。高水流量135立方メートル/秒中、分水口へは110立方メートルを導水路に導き、ダム流域から忠川湖に流れ込む30立方メートルと合わせ全量カット方式で防災に寄与することができる。
ダム本体へは、国道13号線上山バイパスの川口交差点から奥羽線のガードをくぐって5分ほど。道は狭く急坂か所もあるが、道路状況は良好。ダム貯水池はヘラブナの釣り場として愛好者に親しまれているが、釣り人は全国的に珍しいダムであることを知っているだろうか?まあ、私にとっては石橋めぐりの思わぬ釣果ではある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土木遺産・山形の石橋群6橋を見て思い巡らす

2024年10月05日 | 土木構造物・土木遺産


山形・置賜地方を散策してみた。山形県米沢や庄内、福島の会津などは新潟の自宅からも比較的アクセスも良く、クルマで片道2時間の範囲。これらの地域には何度となく足を運んでいるが、今回は明治期に作られた石橋(石で建造された橋)を探しに行く。
以前、架橋された年代は新しいものとはいえ、木の橋アーチ橋「八幡橋」を紹介した。橋とすれば木の橋は原点ということになるのだろうが、より強固なものとして石橋は江戸期から明治・大正期にかけて作られたものが土木遺産として注目を集めている。
最も多いのは九州の大分県。そのほかにも福島や今回紹介する山形では修復されながらも、保存状態も良く、かつ集中していることから、いずれも土木遺産に選奨されている。大分県の石橋は、江戸期のものもあって個別に選奨されているもののほか、緒方川のアーチ橋5か所は「石橋群」として選定されている。(写真上:中山橋2枚・上山市)



福島もそうだが山形のものもやはり九州から技術者を招へいするなどして施工されたものとのことだが、山形の場合は狭い地域に集中しているのが特徴で、特に上山市(置賜地方ではないが)、南陽市の同じ最上川の支流・須川水系に6橋が集中しているのは特筆すべきことだと思う。
須川の支川・前川には上流から南陽市に蛇ケ橋(別名・小巖橋)、その200メートル下流に吉田橋、上山市に入って中山橋、堅磐橋、須川支川の金山川に新橋、200メートルほど下流に覗橋といった具合だ。半径3キロ以内に6か所、場所を探すのを含めても2時間もあればゆっくりと回ることができる。
写真を見てわかるとおり、巧妙に弧を描いたアーチ部やきれいに積まれた取り付け(橋台部)に至るまで見どころも多い。中には石を切り抜て飾り模様が施されていたり、親柱や銘板なども実に味がある。ただ、かなり傷んでいる部分も多く、保存のための保守などは欠かせないといったところか。(写真上:蛇ケ橋(小巖橋)2枚・南陽市)



大分・九州には石橋が多く保存されているおり古いものも多くかなり広範囲に及ぶことからルーツと言っていい。福島では9か所が2022年に土木遺産。山形の場合も北は村山市から南の米沢市まで11か所が2009年に土木遺産に選奨されているが、今回の6橋は特に隣接しており、いずれも1878年(明治11年)から1882年(明治15年)と施工年も近い。
上山の楢下宿にある新橋と覗橋は羽州街道が幹線街道としての重要性があったことに起因するだろうし、前川に架かる4橋は栗子峠経由の新道開削(のちの萬世大路(ばんせいたいろ))の計画とともに建造されたのではないだろうか?いずれにしても初代山形県令の三島通庸(みしま・みちつね)が関わったとされる。
この三島通庸は薩摩の出身。山形県令に就くと反対派を押しのける謂わば強引な手法で土木事業を推進たことで有名だが、不毛の地とされた米沢をはじめ置賜地方にとって三島の手腕は、現在の都市形成や産業基盤づくり、山形県全体の流通において、後に大きな功労を与えたもので、今回紹介できなかった石橋を含め、大きな証として保存されているのである。(写真上:吉田橋・南陽市と堅磐橋・上山市、写真下:新橋と覗橋・いずれも上山市)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台形CSGダムとしては国内最大の「成瀬ダム」の現場見学で

2024年09月30日 | 土木構造物・土木遺産


念願の「成瀬ダム」の建設現場を視察する機会をいただいた。秋田県の雄物川水系成瀬川の上流に1983年(昭和58年)から秋田県によって実施計画調査を開始し、1997年(平成9年)建設着手、ダム本体工事を2018年着手し、いよいよ2027年に完成を目指す国交省直轄の多目的ダムだ。
このダムは日本生まれの新しい技術であるCSGダムというもの。CSGは、「Cemented Sand and Gravel(石や砂れきとセメントを混合する材料)」のことで、現地で発生した材料を使用し、CSGを断面が台形に積み上げた成瀬ダムは「台形CSGダム」と呼ばれるものである。
日本でもまだ数少ない型式のダムであるが、現在建設中のものを含めても成瀬ダムの規模は群を抜いている。堤高114.5メートル、堤頂長755メートル、総貯水量7850万立方メートル。完成すればCSGダムでは国内最大級、他の形式のダムを含めても東北地方でも屈指の規模ともいえるのではないだろうか?(堤高では長井ダム(山形県)ほか、堤頂長では森吉山ダム(秋田県)、有効貯水量では玉川ダム(秋田県)ほかが上回ってはいるが…)



このダムの特徴とすれば、現地の材料を使用することで環境負荷の低減が図れること。台形という形状は構造上必要強度を小さい上に強度を保てるため永久構造物としての品質(安全性)を確保できること。工期が短くコストが低減できることなどが挙げられている(鹿島建設の見学テラスの資料などから抜粋。建設費用は約2600億円、先に紹介した八ツ場ダムの半分以下だ。)。
さらに目を見張るのは、鹿島建設が開発した建設機械の自動化建設生産システム「A4CSEL(クワッドアクセル)」など、最新鋭のICTを駆使した施工技術が採用されている。特に少人数のオペレーターが複数台の重機を操作するなど、生産性や安全性を飛躍的に高めている。
すでに堤体の工事も最終盤で、堤頂部の洪水吐のゲート工事に差し掛かっていることから、残念ながら無人のブルドーザーが動くシーンは見られなかったが、重機を遠隔操作をしていた鹿島建設「KAJIMA DX LABO(写真下)」は、見学者に説明をするスペースとして開放されている(実際、オペレーションをした部屋は見学不可でした。)。



今回の見学には、「鹿島・前田・竹中土木特定建設工事共同企業体・成瀬ダム堤体打設JV工事事務所・KAJIMA DX LABO」のコンシェルジュ・鈴木さんが現場を案内してくれた。成瀬ダムでは、見学者を積極的受け入れてくれるほか、前述のテラスからの見学や現場内へのクルマでの先導のほか、KAJIMA DX LABOでは大型スクリーンやVR・タブレットを使いながら専属のコンシェルジュが案内・説明してくれる。
その鈴木さん、契約社員とのことであったが、東成瀬村の出身でUターンでこの仕事に就いたそうである。余計なことではあったが、「ダム建設によって、村も潤いましたね?」との言葉にそっと頷いてくれた。ダム現場から10数キロを下流の場所には現場事務所が「町」を形成していた(写真下)。村の人口より工事関係者が多いのではないかと思わせるくらいだ。(東成瀬村の人口は2,363人=東成瀬村役場、工事関係者はJVと協力会社を含めて約600人(2022年10月時点))
何回となく鈴木さんとはメールのやり取りをさせていただき丁寧に対応いただいたが、なにせ2名以上での見学でないとダメだというのでこの点は苦労した。遠い秋田の山間部、往復600キロ、しかも平日、ダムの工事現場しかない場所であるから、人を誘うにも気が引けてしまう。



新潟からだとクルマで5時間、非常にアクセスは悪いし、ルートの選択も難しい。東成瀬村に入っても30分以上の山道を行かなければならない。今回はハイエース小僧の大学生・ハヤタに「運転をさせてやるから。稲庭うどんをご馳走するから」と就活中にもかかわらず頼み込み、日帰り強行に踏み切った。
もちろんダムには興味はなさそうだったが、女性の鈴木さんがダム現場で働く姿を見て、見学後、現場を走り回ったハイエースを高圧洗浄機で洗ってくれている姿を見て、何かを感じてくれたらとも思った(かなり本題からは外れてしまったが、遠くまで来て感動的なシーンも多かったはず…)。
ダムは水を貯めて人々を守り、下流に住む人の生活を潤し、田畑を潤す。ダムは村の経済も潤す。そして見学者の我々に感動を与えてくれて心を潤す。台形CSGダムの特性から、この地でなければならなかったこともあるだろうが、重厚な周辺施設整備を伴った八ツ場ダムとは一味違ったダムのあるべき姿を見たような気がする。



ところで、この成瀬ダム、「念願の」と最初に強調したことに触れておきたい。成瀬ダムについては、3年ほど前の「ICTセミナー」で講演を聞いたことがきっかけとなる。自分は技術者ではないが、「成瀬ダム」の話があるということで、お手伝いとして参加した。(CSGダムについては<リンク>で詳しく解説してある。)
とにかく、最先端のICT技術が駆使されているDX LABOの話を聞いて、「絶対に行かなくてはならない!」と思った。が、時はコロナの渦中にあり、新しいプロジェクトのお手伝いをすることになって、なかなか行く機会を見出せなかった。こんなに工事が進んでしまっているとは。
あれ!セミナーの時に講演をされて、その後の懇親会で「見学させて!」と頼んだ三浦悟さん?鹿島建設の技術研究所のプリンシパル・リサーチャー?自動化施工推進室長?DX LABOに写真とコメントを発見(写真下)。そんな偉い人に気安くお声がけして申し訳ありませんでした。これまた感動で涙が出るほど潤いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津「柳津西山地熱発電所」の熱で可能性を感じる

2024年09月24日 | 土木構造物・土木遺産


ダムを見に行くわけでもないのに、今回もまた山の中を走っている。これまでも奥会津地方には何回か訪れ、只見川の電源開発に関連施設を求めて行き来してきたが、今回は少し山の中に入ることになった。今回の目的地はダム式の水力発電所ではなく、地熱発電所である。
走り慣れた国道252号から少し県道を入り、柳津町と三島町の境界を何回かまたぐ道のりは10キロ弱。西山温泉を通り過ぎて寂しい山の中ではあるが、道路は完全に舗装されておりくねった道を進んだところに突如大きな建物が現れる。東北電力の「柳津西山地熱発電所」である(管理は「奥会津地熱」、熱源供給会社)。
地熱発電は、地中深く地熱によって暖められた蒸気を利用しタービンを回す発電方式で、二酸化炭素の発生は火力にと比べてはるかに少なく、再生可能エネルギーとして注目を集めている。ダムばかり追いかけ、揚水発電の蓄電装置やコストなどの課題にぶち当たり、他の発電方式にも触れておこうと調べてみると、新潟からも日帰りのできる場所に、しかも白洲次郎氏が日本の発電事業のため力を注いだこの地に地熱発電所があることを知り出かけてみた。
(写真下:柳津西山地熱発電所の本館(発電所)と冷却塔)



この発電所では、最大出力3万kW(キロワット)の発電を行っているが、以前は6万5千kWで一つのユニット(タービンを回すまでの一連の設備セット)では日本で最大の地熱発電所を誇っていたという。完成が1995年(平成7年)ということで、運転開始から20年経過し、蒸気量が減少し効率化を求めてタービンの更新をしたため計画出力の変更に至ったそうだ。
確かにこの発電の運用は低迷していた時期があった。火力発電用の燃料が安かったことが大きな要因であるが、最近の化石燃料の高騰や価格不安定、輸入に頼らざるを得ない状況に加え、災害事故のリスク回避やクリーンエネルギーの活用などが叫ばれてきたことにより、再び熱を上げているようである。
再生可能エネルギーの中でも風力や太陽光は自然の力を利用するが、水力と同様に天候にも左右される。その点、無限ともいえる地熱エネルギーは安定性は抜群で、発電施設も更新を続ければ長寿命化が図れる。そして、何と言っても純国産という点で今後無限の可能性があるというところであろうか?
(写真下:発電所に続く道路脇に見ることができる蒸気パイプ(送水用か還元用かは不明)と2017年まで使用されたタービン(実物))



地熱発電は、地下深くマグマ溜まりの上層から蒸気を汲み上げる。柳津西山の場合も、複数の掘削井を地下1,500~2,600メートルへ折れ曲がるように掘られている。地中深いことから高度の技術必要であり、開発にかかる時間や経費は掛かる。綿密な調査と的確な掘削が採算のカギを握る。ただ、日本を含む火山帯の多い太平洋沿岸や構造帯付近はその可能性が大きいという。
発電所にの近くには大概温泉がある。温泉への影響は全くないとは言えないが、地底のキャップロック(帽岩=ぼうがん)の存在により地熱貯留層のほうが深い場所にある。むしろ、国内では山の中とはいえ自然公園内に設置されているものが多く、自然環境への影響や景観上を問題、火山性ガスの排出を指摘する声もあるとか。
ただ、柳津西山では発電所建設のための森林伐採は最小限にとどめているし、発電に使用した熱水や冷却水は再び地中に還元している(他の地熱発電所でも同様)ことや、地中から噴出する硫化水素等を改修する設備を設置し肥料などに利用している。他の地域では地下還元熱水を利用したハウス栽培などの例もある。環境への配慮、地域への社会貢献という面でも魅力が多いと感じた奥会津での柳津西山地熱発電所との出会いであった。
(写真下:発電所に併設されている「PR館」と掘削井を示した模型の展示物)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山北の謎の卵の自販機&おしゃれな卵料理専門カフェの紹介

2024年09月21日 | 食(グルメ・地酒・名物)


新潟県村上市の旧山北町(さんぽくまち)を訪ねた際には、どうしても気になるところがもう一か所、ネットやSNSで話題となっていたところで、何やら不気味(?)な「卵の自動販売機」があるとのこと。寝屋漁港や八幡橋のある勝木地区からさらに北へ数キロ、県境に近い中浜地区(新潟県では最も北の集落)に向かう。
国道7号沿いにその自販機はあるが、周りには何もなく、ポツンと海岸寄りにたまご型のオブジェ(?)に「たまご直売所」と乱雑な手書きで文字が書いてある。そばには小さな小屋。この小屋の中に自販機が並んである。数種類の卵があるようで、6個480円と1個80円?確かに最近高くはなっているが、物価の優等生である卵としては破格の値段だ。
以前、米沢にあるufu uhu garden(ウフウフガーデン)の卵を紹介したが、そこでも1個30円を少し上回る程度だったので、そこから比べても倍以上の値段。安易な自販機販売と思いきや、なかなかこだわりがあるようで恐る恐るいくつか買ってみることにした。



昼近い時間の訪問。丁度、自販機に卵パックを詰め替えに来たお店の方に聞いてみた。まとめ買いする人も多くて、一日何回か切れ替えをしなければならないほどの人気ぶり。確かに、家に帰っていただいたが、黄身がしっかりして見た目はきれいだし、味わい深く、「あっ!卵の味だ」といえるものである。
なんでも、すぐそばにある海岸端の農場で、鶏を放し飼いにして飼育しているらしい。鶏舎をオープンにして、屋外に出るか出ないかは鶏任せ。ストレスフリーの飼育で、平飼いとはまた違う方式。その昔、仕事で10万羽以上飼育する農場を見てきたが、ここでは3,000羽に行かない飼育数だそうだ。
こちらの売りは「素王卵(そおうらん)」というネーミング。何でもビタミンEが普通の鶏卵より10倍、コレステロールが20%減とのこと。飼育環境だけでなく、資料配合にも強いこだわりがあるほか、HACCP方式の徹底した衛生管理を取り入れているという。その最前線の販売所が、この自販機ということになる。



この農場と自販機、オークリッチという会社の経営。そのオークリッチでは事業再構築補助金を活用して2023年5月、自販機のある場所から少し新潟寄りの海岸線に、放し飼い卵の専門店「海辺のテーブルエッグ」というカフェをオープンした(写真上:外観)。自販機とはかけ離れたおしゃれな外観・内装である。
店に入るとショッピングコーナーに例の卵が並べられている(写真上)。右手のカフェスペースは海が見える最高のロケーション。これまたおしゃれなテラス席からは粟島も望める。店内奥の壁一面にはきれいな海岸が描かれた幕絵(タペストリー?)が飾られてあるが、マッチしているというよりは「どこだ?」というインパクトがある。外のお庭などがもう少し整備されるといいかも。
さて、お客さんも少なかったので、中央の大きなテーブルに座りメニューを見ると、もちろん卵料理。オムレツやカルボナーラなどもあったが、迷わず「卵かけご飯(メニューでは「これが卵かけご飯」1,000円)」を選んだ(まあ、塩分制限の件もあるのですがー)。



確かに美味しい。ただ、1個80円?卵かけご飯1,000円は安いとは言えない。もちろん、先に触れたとおりこだわりが詰まっているのだし、いくら高くなっているとはいえ普通にスーパーに売っているのからすればプレミアム。まあ、人気だとは言っても、私としては特別な時にってところですかねー。
それにしても、料理を運んできてくれて説明が長い。卵の種類や自家製野菜(これは新鮮で美味かった!)、そして食べ方や小皿の品の詳細説明まで。料理担当や店員の方々もみんなこだわりと誇りを持っているんでしょうねー。
ちょっと身近過ぎるたまごでしかもシンプル料理なので食レポにはなっていないが、味や価格を考えるとufu uhu gardenのほうがコストパフォーマンスが高い感じはする。ただ、オークリッチのこだわりと安心安全の取り組みは拍手を送りたいし、今後の事業展開には注目していきたい。また足を向けた際には立ち寄ってみたいと思う。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地域を支え、林業を支える生活道路にある木製アーチ橋「八幡橋」

2024年09月17日 | 土木構造物・土木遺産


前回、新潟県村上市の寝屋漁港を紹介したが、今回は、その近くにある橋を紹介したい。以前から気になっていたものだが、近くに出かけたら立ち寄ろうと決めていた。
橋の名前は「八幡(やわた)橋」、木製の2径間の下路式アーチ橋だ。長さ42.4メートル、幅7メートル(有効幅員)。市道に架かる橋で、2002年(平成14年)に市の単独事業として現在の橋に架け替えられた。床板にプレストレストコンクリート(PC)板、横桁に鋼材を使用しているものの、アーチ部・主桁・吊材・補材を含めて杉の集成材を使用している。
一度姿を消しかけた木製橋だが、日本の林業を見直しの動きや木製材の製造・加工技術の進化向上により、主に公園や観光地での歩道橋、もちろん神社や仏閣の参道などに取り入れられているが、この八幡橋はれっきとした生活道路上の橋であり、もちろん車両の通行も可能な橋なのである。



以前、九州・大分の佐伯市浅海井(あざむい)にある「合掌大橋」という木橋を紹介したことがある(この時は感動ものだった)。群馬・碓氷峠を紹介した時には碓氷湖の「夢のせ橋」に触れたが、いずれも公園内のシンボリックな位置づけの橋である。
日本三大名橋の山口・岩国の「錦帯橋」、静岡の大井川に架かる「蓬莱橋」などは歴史的な橋で有名であるし、木製トラス橋である埼玉・日高市の高麗川にかかる「あいあい橋」(日高市には個性的な橋の宝庫!)、長野県南木曽町の「桃介橋(福沢桃介にちなみ命名)」は吊り橋で全長247メートル。ただ、これらの橋はすべて歩道橋である。
今回の八幡橋は、それほど交通量はないとしても、生活に溶け込み、道路橋としてひっそりと市民を支えている。地味で、あまり脚光を浴びることのない橋であるが、自分はそれが橋の本来の姿であると思っている。その奥ゆかしさと担う役割こそ土木構造物の真価なのである。



地域的な事情というか、これまた生活産業に密着した所以がある。これは橋が架かる村上市山北地域(旧山北町:「さんぽくまち」)は、9割以上の土地が山林。地元の特性や地場産業、特産品を利用し、何とか林業を活性化させたいとの思いが込められている。現にこの地域にある小・中学校、市役所の山北支所は木造でできている(写真上)。
このような地域は、日本の国土の各地にある。しかも古くから林業は日本の建築物を支えてきている中、外材の輸入などにより地域産業として衰退し、少子高齢化、過疎化を生んでいる山間部の小さな村も多い。そんな中で国産材をアピールするための八幡橋の存在意義は大きいのではないだろうか?
八幡橋には、2径間の途中の海側にバルコニーがあって、日本海に沈む夕陽や八幡(はちまん)岩を見ることができる(写真下)。林業の町でありながら、前回紹介した寝屋漁港や笹川流れの海の景色も楽しめる。これまたなかなかない特徴なので、今後のまちづくり・地域おこしの展開が楽しみな「マディソン郡の橋(クリントイーストウッド監督主演映画。ストーリーはフィクションらしいが、木製橋はアイオワ州で実在)」ならぬ「岩船郡の橋」なのである。(「岩船郡」=旧山北町を含む郡名)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山形ロケに唯一食い込んだ、新潟・寝屋漁港の魅力とは?

2024年09月10日 | 本・雑誌・映画


ひょんなことで映画を見た。といっても2年前に公開されている邦画「アイアムまきもと」という阿部サダヲ主演の映画がテレビで放映されていた。そのロケ先がどうしても見たことのある場所のようで気になって調べてみたところ、やっぱりということで腰を上げて出かけてみることにした。
映画の内容は、海外のヒューマンドラマを原作に、日本版にシリアスでもありコミカルでもあるが、何か社会問題を問いかける内容のもの。身寄りがなく亡くなった方の葬儀や埋葬を担当する市役所「おみおくり係」の牧本(阿部サダヲ)のお話だが、ここでストーリーには触れないことにする。
冒頭、「庄内市役所」が映し出され、その後の風景などを見ても、そこ(ロケ地)が山形県庄内地方であるということが容易に理解できる。市役所は酒田市役所、住宅は鶴岡市の市営住宅、火葬場は庄内町ということだが、墓地だけは景色が変わるのでどこだろうと調べると山形市の霊園だそうで、いずれにしても庄内・山形でのロケであることが分かる。庄内を舞台にする映画、多いですよね!(写真下:映画のPRとロケ地紹介のパンプレット。酒田観光物産協会「やまがた酒田さんぽ」から掲載。)



確かに山形市の霊園ロケ地ほど違和感は感じなかったのだが、庄内地方にも岩場の海岸線があるのに、海岸端にある独特の形の岩と漁港は見たことがある風景。そう、お隣の町・村上市の笹川流れにある寝屋(ねや)漁港の風景だ。「鉾立岩」は笹川流れの奇岩の中でもシンボリックな岩場ですからね。
映画で、市営住宅で亡くなった蕪木(宇崎竜童)の家族を探すため、漁港で食堂を営む蕪木の元恋人・みはる(宮沢りえ)を訪ねた場所が寝屋だった。鶴岡市にも、由良(ゆら)や小波渡(こばと)などの漁港はあるのだが、多分、鶴岡市の海岸線を南下しながらロケ候補地を探し、港湾指定の鼠ヶ関港へ来たところでもう少し南へ、県境を越えた第二種漁港・寝屋港にたどり着いたのではないかと予想している。
映画の解説やロケ地紹介でもほとんどこの寝屋漁港については触れられていないが、鉾立岩が見える場所で、港の防波堤、入江を挟んだロケーションに加え、雰囲気を醸し出す食堂(実は、JFの直売所)の景色がこの映画の監督・水田伸生が描いたイメージだったに違いない。



映画の中ではみはるの働く「みはる食堂」、実在するのはJF新潟漁協山北支所の直売所で、屋号は「新鮮屋」という。漁港で水揚げされた新鮮な魚介を提供する店だが、これまた口コミなどで調べてみるとこの店が気になって仕方なくなる。(こちらも詳しくは触れないが、評価が真っ二つに分かれているので各自で検索してほしい。)
店は映画のシーンそのものにテラス席テーブル席が並び、そこから漁港や鉾立岩が望める。宮沢りえとは相当のギャップで接客に対応するお兄さんも、ニヤリとしてしまうくらいこの土地の魅力を醸し出す。そんな魅力を感じてだろうか、山形県ロケに唯一新潟県の地が食い込むほどのシチュエーションが揃っていたんだろうな。(ロケ中に阿部サダヲと直売所のお兄さんの会話はあったのだろうか?どんな会話だったのか気になる。)
私が訪れたのは8月末。この地方では岩ガキの季節で、「笹川流れ」といわれる風光明媚な海岸線沿いの食堂や民宿では岩ガキが提供される。直売所・新鮮屋でも新鮮な岩ガキの殻をその場でむいて提供している。テラス席に一人座って漁港を眺めながら美味しくいただきました。1個800円。これは紛れもなく口コミでも高評価をしてもいい品でした。(写真下:岩カキの写真で、レモン果汁は持込品です。)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

碓氷第三橋梁(めがね橋)はもちろん、見どころ満載「アプトの道」

2024年09月05日 | 鉄道


群馬訪問最終章は「碓氷鉄道文化むら」の記事の続きになる。鉄道文化むらがある信越本線・横川駅から軽井沢間の碓氷峠越えの区間の約11キロ、アプト式時代に使用されていた旧線は1997年に廃線になったが、現在その一部は「アプトの道」として遊歩道(ハイキングコース)として整備されている。
その途中にあるのが写真の通称「めがね橋」と呼ばれる旧信越本線「碓氷第三橋梁」である。全長91メートル、高さ31メートル、イギリス人技師により設計されたというレンガ造り4連アーチ、使用したレンガの数は200万個とも言われている。1893年竣工。現存するレンガ造りの橋では国内最大規模で、国の重要文化財である。
碓氷峠の山の中にあるのだが、遊歩道でのアクセスのほか、私のような汗をかきたくない、時間がないという者のため?旧国道18号からすぐ橋梁下部に容易にアプローチが可能で、遊歩道に続く階段で橋の上まで登ることができる。(当然、遊歩道利用者は階段を降りて下から見上げることも可能。)旧18号沿いには駐車場やトイレも完備されている。紅葉の頃は人気スポットだという。



この第三橋梁、歴史的に見ても価値があることは間違いないのだが、実は先の富岡製糸場の世界遺産登録が検討されている時点では、構成遺産群の一つとして候補に挙げられていたものの、橋梁の建造目的は繭や生糸などの貨物輸送よりも、旅客輸送に重点が置かれていたことから削除された経緯がある。(せめて土木遺産であってもいいと思うのだが…)
ただ、遊歩道は横川駅(鉄道文化むら)から途中の6キロの旧熊ノ平までであるが、その間にある第三橋梁を含む5つの橋梁、10か所のトンネル(遊歩道区間すべてのトンネル)、加えて丸山変電所蓄電池室及び機械室、熊ノ平変電所本屋と18もの鉄道関連施設が国の重要文化財に指定されている。遊歩道を歩かなかった自分はかなり損をしていますね!
前回からの繰り返しにはなるが、鉄道文化むらだけでなく、アプトの道を歩くことによて貴重な鉄道遺産に触れることができるほか、周辺には碓氷関所、坂本宿、峠の湯、碓氷湖など見どころも多い。上信越道「碓氷橋」(全長1,262メートルの斜張橋)」、碓氷湖の「夢のせ橋(碓氷湖の人道橋)」、アプトの道には含まれないが「碓氷第十三橋梁(重要文化財)」などなど、周辺には群馬が誇る橋の数々、こちらもぜひ見てほしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「鉄道文化むら」は、碓氷の峠の高みを目指して!

2024年09月02日 | 鉄道


今回の群馬訪問で最後に紹介するのは「碓氷(うすい)峠鉄道文化むら」だ。ついに、錆びついた自分の鉄を磨くため?鉄ちゃんの聖地でもあるので、まあ以前にも来たことはあるものの、敬意を表して帰路に就く前に訪問しようと決めていた。
長野新幹線が開通し、信越本線の横川・軽井沢間は1997年には廃止が決定された。旧松井田町(現・安中市)は、横川駅構内の運転区の施設を地域活性化に役立てようと、地域住民や周辺の自治体などとも協議を重ね、この鉄道文化むらを整備することとなった。
碓氷峠で活躍した鉄道車両や資料を展示するほか、JR線直結という利点を活かし、国鉄時代の車両や機関車を展示する一大テーマパークとなった。動力車・車両・貨車など現在40数両を保有。施設は安中市が所有、指定管理者として一般財団法人・碓氷峠交流記念財団が運営している。



資料館朝一番の入場。夏休み期間ではあるが施設内はガラガラ。ちょっと張り切って、駐車場で開館時間になるのを待っていた自分が恥ずかしくなる。以前は混んでいた記憶がある。でもその分、短い時間ではあったが、ゆったりと十分に観覧することができた。
旧運転区の事務所を改装した資料館には、信越本線最大の難所・碓氷峠との闘いの記録がパネルで展示されている。勾配66.7‰(パーミル=1000分の1、1000メートルで66.7メートル昇降する勾配)に挑む鉄道マンの労苦や輸入機関車、日本初の幹鉄路での電化、アプト式(敷設したラックレールに動力車に設置した歯車をかみ合わせて勾配を上る方式)の峠越え専用のED40電気機関車の開発、峠のシェルパ・EF63電気機関車の開発・導入に至るまで、急勾配克服と時短を図るための歴史がここにある。
一方、屋外には貴重な車両が静態保存されているとともに、運輸区車庫を活用した鉄道展示館にはEF63の展示や運転を体験できるシミュレーター、何と動態保存されたEF63そのものを運転できる体験コース(400メートル)なども備えている。(有料の、学科・実技講習を受講する必要あり。)




めちゃくちゃ興味深い場所であるが、どうしてもわくわく感が湧いてこない。自分にはあまりにもマニアックすぎるからか?そうでもないとは思うのだが、入口ゲート前には遊園地のような乗り物が並び、園内にはミニSLや「あぷとくん」という園内周回するファミリー向けのミニ列車が運行されて人気となっている。
ただ、奥の車両展示スペースには、各地から集められた貴重な車両が展示されているものの、こちらの客入りはガラガラ。展示車両の部品は心無いマニアにより盗難されているというし、車両そのものは劣化も激しく、補修・整備に要する費用が急増している状況にあって、運営する財団では一般市民からの寄付や協力を募っているそうだ。
コロナ感染症の影響もあるのだろうが、鉄道文化むらの滞在者数は2019年56万人だったものが37万人台と落ち込んでいる(資料:安中市道の駅基本構想検討基礎資料集、入園者数とのカウントの方法が違う?)ようだが、この重厚でマニアックな資料や施設環境と、一般入園者を呼び込むためのファミリー向け遊園地化がどうしてもミスマッチに思えてならない。



展示資料の保存環境、一貫性、地域との密着感は先に紹介した「くりでんミュージアム」の方に強く魅力を感じる。子どもが鉄道という乗り物に親しめるという点では、立地は厳しいものの糸魚川の「ジオパル」をお勧めする。個人的な意見ではあるがー。
もちろん、鉄道文化むらの取り組みを否定するものではない。なにせ貴重な資料の数々は間違いなく鉄道資料館としては最高峰であり、歴史的な土地、首都圏からもアクセスが良く、後背地には軽井沢という一大観光地も控えている。滞在者数の記事にもあるように隣接地に「道の駅」設置などの新たな構想もあるようだ。
中山道・碓氷峠をベースに、先に紹介した富岡製糸場や甘楽町小幡、地元の坂本宿の歴史、次回紹介するめがね橋などの鉄道遺産の数々、そして信越本線横川駅とともに140年の歴史を持つ「峠の釜めし・おぎのや」などとの連携によって、さらなる魅力を引き出してもらいたい。(これまでも「碓氷峠鉄道文化むら」と「おぎのや」はたびたび周年事業などでコラボしている。おぎのやの前向きで積極的な経営は、常に峰の高みを目指している(おぎのや4代目は、故・高見沢みねじ氏))

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おっと!六合(くに)村には鉄道が走っていたんだって

2024年08月31日 | 鉄道


実はノーマークというか、まったく眼中になかった、ハッキリ言えば知らなかった。俺の「鉄」は錆びていることを改めて実感したのは、八ツ場ダムから吾嬬橋へ向かう途中、クルマから何だか貨物貨車のようなものが見えた。吾嬬橋の帰りに立ち寄ってみることにした。



「旧太子(おおし)駅」の跡地を活用した復元・展覧施設があった。軽井沢のように「軽便鉄道があったのか?」と思ったら、れっきとした旧国鉄線。吾妻線(当時は「長野原線」)の駅だったという。それはそれは小学校4年生から日本交通公社の時刻表をバイブルとしてきた自分にとって不覚であったし、ショッキングなことでもあった。
群馬鉄山の鉄鉱石の搬出のために整備された貨物専用線で、1945年吾妻線の長野原草津口まで開業と同時に営業を開始した路線(5.8キロ)と駅であるが、その後国鉄に移管。翌年、長野原線に組み込まれ旅客営業も始めたという。当時は、終着駅ということですかね。
歴史ある5.8キロの区間であるが、鉱山の閉山とともに1966年貨物輸送が廃止、渋川・長野原間の電化からも見放されて、長野原線の西への延伸(当時は「嬬恋線」)に伴い、国鉄の分割民営化議論を待たずに1971年に廃止。長野原線は吾妻線と改称され「大前」が終着駅となった。この複雑な歴史に、当時の自分は付いていけなかったのだろう。



吾嬬橋を紹介した時にも触れたが、「太子」は旧・六合(くに)村の中心地で、群馬鉱山(群馬鉄山)は北に8キロほどのところにあった。日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)が採掘をして、鉱山から太子駅までは8キロにも及ぶ索道で鉄鉱石を運び貨物列車に積み替えて、京浜工業地帯に運び出していた。
1965年に露天掘りの鉱山資源が枯渇し閉山、間もなく太子線・太子駅も廃止となるのだが、現在、駅舎や駅構内は中之条町により復元されているが、鉄鉱石を貨車に移すためのホッパーを中心とした遺構としてそのままの状態で保存されている(国の登録有形文化財)。
復元駅舎内には当時の写真や鉄道関連品などが展示されている。屋外には、鉄鉱石を運び出すのに使用した無蓋車、大井川鉄道から譲り受けたという貴重な有蓋車なども展示している。また、JR東日本には長野原線で使用していた蒸気機関車を譲り受ける交渉もしているとか。六合という土地の持つ歴史を後世に伝えようとしているのである。



本来であれば、廃線跡を辿りながら鉄道遺構を探したり、鉱山跡地(現在は、国内でも最大のチャツボミゴケ生息地として公園化されている。国の天然記念物に指定、正に「六合(くに)」の宝だ!)にも足を運びたいところでもあるが、まったく予想もしていなかったことで、県境を越え南相木ダムへ移動を急がなければならなかったため、ホントにザックリの紹介になることをお詫びしたい。
前回、八ツ場ダムでも少し触れたが観光面いどう活かしていくか!歴史を絡めて地域の魅力を伝えていくか!特に、六合へは、長野原町を経由するルートが一般的だし、中之条町との間には東吾妻町がある。すでに実施されているとは思うが、吾妻川でつながる草津町や嬬恋町とも広域的な町村連携がカギになる。
太子駅復元、ホッパーの修復にはクラウドファンディングにより多くの一般市民から寄附があったと聞くが、ぜひ多くの方々の思いを寄せ、地域住民が協力しながら、今後の吾妻川流域・吾妻線沿線の観光地としての方向性を見出し、盛り上げてほしいと思う。そのベースキャンプの役目を負うのが八ツ場ダム周辺なんだろうなー。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八ツ場ダム!建設費は日本ダム史上最高額というが

2024年08月29日 | 土木構造物・土木遺産


決してダムづいている訳でもないのだが、群馬を訪れたからにはこのダムを紹介しないわけにはいかない。それが「八ツ場(やんば)ダム」だ。
利根川の支流である吾妻(あがつま)川の中流、群馬県長野原町にある国土交通省関東地域整備局が管轄する多目的ダムだ。堤高113メートル、堤頂長291メートル、重力式コンクリートダムで、洪水調節、不特定利水、上水道、工業用水、発電を目的として2019年に完成した若いダムである。
大規模ダムの多い利根川水系において、奈良俣ダム、八木沢ダムの大きさにはかなわないものの、群馬の最大観光地・草津温泉に続く国道145号沿いにあり、山奥のダムと違って容易に目にすることのできる巨大多目的ダムとして、その観光面でも機能し始めている。丁度、景勝地の「吾妻峡」の上流部にダムがある。



なぜこの若いダムを取り上げるかというと、八ツ場ダムの着工は1967年(昭和42年)、利根川改訂改修計画が打ち出されたのは1952年(昭和27年)ということは、着工して52年、計画発表段階からだと67年もの長い時間をかけて、ついこの間出来たというダムなのである。
経済成長にあった当時、度重なる台風被害や高まる電力需要とも相まって必要性が叫ばれていたが、建設予定地のいたるところで地域住民の建設反対運動が巻き起こっていた。利根川の悪例として「沼田ダム」という日本でも屈指の大規模ダム(総貯水量8億トンとも9億トンともいわれた。)は、計画途中の1972年に中止が決まったというのも八ツ場ダム建設にとっては逆風だったのではないだろうか。
ダム建設によって固定資産税を確保しようとする地元自治体の思惑やダム建設反対の町長の就任、中曾根康弘(地元選出、当時自民党幹事長、建設反対)vs金丸信(国土庁長官、建設推進)といった中央政界の大御所を巻き込んだ対立も生んだ後、このダムを一躍有名にした民主党政権の中でのマニュフェスト・事業仕分けなど、幾多の困難を乗り越えて2011年に建設は再開、本体工事は2014年になってから始まったダムなのである。
(写真上:整備局八ツ場ダム管理支所建物と建物内に設置されている「なるほど!やんば資料館内部の展示室。苦難の歴史を紹介する年表パネルも見える。)



この八ツ場ダム、何が日本一かというと総事業費5320億円で、まあ年々事業費はかさむ傾向は否めないが、長期にわたったということからしても日本のダム建設史上では最高額になる。まあ、決して誇れることではないかもしれない。
次々に目的が付け加えられてダム自体重厚な設備になったこと、移転補償はもちろん、堤体脇に資料館や「やんば見放台」という展望所、堤体内のエレベーターの開放などの見学者サービス施設の設置、地元の要望などによりダム管理施設の八ツ場資料館、JR吾妻線の付け替え工事と新駅(川原湯温泉駅)、道路・橋梁の整備、「道の駅・八ツ場ふるさと館」や「川原湯温泉あそびの基地NOA(日帰り温泉・キャンプ施設)」などのいわゆる地元に対する見返り施設も建設されている。
先にも触れたとおり、既存の観光地と八ツ場ダム関連施設がさらなる観光客を呼び込むことになっている現状はあるようだが、「ダムで発展した町」だけでは長続きしない。前回、歴史深い土地(吾嬬橋)と紹介したが、その辺の眠った観光資源を発掘しリンクさせるとともに、首都圏を守るというダムそのものの役割や計画から半世紀以上の歴史を発信していくことも、新たな魅力を創造することになるのではないだろうか?
(写真上:堤体内に設置されているエレベーターは見学者にも開放されている、下から八ツ場ダムを見上げるとその大きさを感じることができる。写真下:「道の駅・八ツ場ふるさと館」脇の「不動大橋」は世界初の複合トラスエクストラドーズド橋、パンフレットはJR吾妻線の付け替えにより廃線跡を利用したレールバイク「アガッタン」のPR用。)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする