行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

改めて「赤谷線」の廃線跡を辿ってみた

2024年07月23日 | 鉄道


少し宮城県から離れることにする。といっても「くりはら田園鉄道」の跡地を見て、廃線つながりから地元新潟の「赤谷(あかたに)線」を見てみたいと思った。会津に行くときによく通る県道沿いを車窓から廃線跡を追っていたが、少しクルマを止めながら足跡を辿ることにしてみた。
起点は、羽越線・新発田駅。駅構内から下り方面に出て東へカーブを切って終点・東赤谷へ向かう18.9キロの路線であった。官営の製鉄所の専用路線として敷設されたもので、赤谷鉄鉱山から鉄鉱石を運んでいた路線を国鉄(当時の鉄道省)が地元の請願を受けて、1925年に旅客路線も開業した。当初は赤谷駅までで、その後東赤谷まで延伸された。
私が乗車したのは高校生の頃。すでに当時から赤字路線として知られていたが、その数年後1984年(昭和59年)に廃止。小さいときには、新発田駅を通るたびに構内でC11蒸気機関車を探すのが楽しみだった。羽越線の踏切前で育った自分にとって、小型のタンク式機関車は珍しかったのだ。



さて、廃線跡を辿ると、しばらく住宅街を進む。遊歩道として整備され、レールや鉄道標識などは残っていないが、ここは間違いなく路線であったことを確認できる形状痕跡は残っている。赤谷線を知らない人にとっては、あまり興味を引き付けることはないのであろうが、市民には散歩コースとして親しまれている場所のようだ。
郊外に出ると、遊歩道兼サイクリングロードとなる。途切れることなく、旧赤谷駅の手前の中々山というところまで続く。ここまで13キロの道のり。廃線当時どのような議論があったか分からないが、当時からしっかりと跡地利用が検討されてきた証のように思える。
郊外に出ると林の中を進んだり、田園地帯の真ん中を走ったり、景色を楽しみながら散歩やジョギング、軽快に走り抜けるロードバイクを楽しむ人に遭遇するが、途中駅のあったいくつかの場所では、ちょっとした憩いのスペースなども整備されていることがここに赤谷線が走っていた名残となっている。



ただ、鉄道施設として残っているのは、廃線後、利用客の弁としてバス輸送を引き継いだ新潟交通のバスの車庫があった場所に旧赤谷駅の駅舎跡(降下車したはずなのに覚えがない、多分)と、赤谷駅からすぐの棚橋川にかかる橋梁の桁がわずかに残っているだけ。旧東赤谷駅にあっては、多分このあたりにとしかご紹介できないほど痕跡は少ない。



赤谷線・東赤谷駅は、国鉄唯一のスイッチバックの終着駅だったそうだ。いまは赤谷集落からは飯豊登山口に向かう県道に「道」を譲っているが、ここからの勾配は33‰(パーミル)の急勾配。製鉄施設などが僅かな平地に作られたこともあって、渓谷に少し平らな土地が広がっているのが名残。
むしろ、鉄鉱山の集積地であった東赤谷から専用線でさらに鉱山までの4キロの間には、洞門やトラス橋の遺構が残っており、加治川治水ダムまでの間の道は狭いものの、不思議な光景や見栄えのする場所としてひそかな人気を集めているともいう。



新発田市内のお店で赤谷線の写真を飾っていた店があったような気がするのだが、どうしても思い出せない。一昨年、廃線の日の様子を「写真の町シバタ」で見たことがあるので、ちょっと拝借。赤谷線を伝える資料館などはないが、以前紹介した「新津鉄道資料館」に駅名標などの資料が展示されている(下の写真以外にも館内に赤谷線の資料展示があります)。



決して自分はダムマニアでも、廃線オタクでもない。鉄道自体も土木構造物で遺産の宝庫。各地域に眠っている(場合によってはすでに開花している)地域活性化素材として、その魅力や歴史・功績を発信していきたいと思っている。

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