吊り下げられた光が太陽のようだったので、僕はいつも首をなるべく傾けて光を享受した。
(あっ、今生きてるんだなっ)
僕はその間、十分にしあわせだった。人々が考えるようなそれとは少し違うかもしれないけれど、少なくとも僕には信じるに値する光があったのだから。信じている間、僕を裏切ることなく照らしてくれた。
(そろそろ、いいかな)
ある日、突然そのように思ったのは、自分でもどうしてかわからなかった。来るべき時というのは、いつもそのようにして訪れるのかもしれない。自分が向日葵ではないということは、最初から知っていたことだ。
「これは最新のものです」
カリスマはスマートなキーボードを持ってきてくれた。コントロールキーを押しながら種々のキーを押すと特別な操作が手早く可能で、最初は難しく感じられても慣れればすべての問題が容易に解決されると言う。
「ここを押せば、早速月に行くんだね」
「そう。簡単でしょ」
失敗を恐れないでとカリスマは言った。いつでもやり直しは利くのだ。
「ここは?」
「昨日に戻るだよ」
「へー。何度でも戻れるの?」
「勿論。何度でも気の済むまでね」
もはや恐れるべき明日なんてどこにもない。躊躇するような一歩なんて、どこにもないに等しかった。
「ここはちょっと気をつけて」
キーの上に目立つように赤いテープが貼ってあった。
「ここは?」
「ミサイルが発射します」
「どこへ?」
「敵国へ」
「それはどこ?」
「それは設定で変えられるのだけど、初期設定は……」
自分にとって関係のないマニュアルほど、眠気を誘うものは他になかった。必要になる時が訪れることを考えることも嫌だった。必要のないキーに違いなかった。
キーボードをデタラメに弾く内に、触れたことのないショートカットに触れて、遠くの街まで飛ばされてしまった。
「眠い、眠い。これじゃ命がいくらあっても足りないよ」
眠いがために、猫は命が足りないと主張を展開した。
眠るところではなくても、誰も文句をつけるような人もいない。
「そうかい」
「いくらあっても足りない釜の飯だよ」
「腹も減っているの?」
「例えばね。おいらは食べ盛りの子供というわけさ」
「だから、足りないの?」
「足りないものは足りないというわけさ」
眠らなければ猫ではないと猫は言葉を続けた。
僕はキーボードを弾いて、念のために猫の主張を記録した。カップの中は、いつの間にか空っぽになっていた。あと少し、残っているはずだった。疑いの目を猫の口元に向けた。
「コーヒーのないカフェはただの休憩室さ」
「だから?」
おかわりのないカップの底を見つめていると、少し息が詰まってきた。新しい近道を探して、指はキーボードの上をさまよっている。
小道、山道、獣道をくぐり抜けて、息を切らしながらようやく館にまでたどり着くことができた。自動ドアを抜けると一目散にATMコーナーに向かう。硝子で覆われた中に入るとその中にお金を引き出せるような装置は見られなかった。表で確かめて入ったはずなのに、あるのはただくたびれた緑色をした電話機だけだった。
開かれたままの電話帳から、梅雨入りからずっと作業が中断したままの家の柱の匂いがした。表に出ると誰かの忘れていった預金通帳が落ちていた。すぐ横には紙袋も2つ、よく見ると中に見覚えのある名前を見つけた。そうだ、これは自分のものだった。先に病院でもらってきたばかりの、お薬が入っているのだった。
お金は下ろせないままテーブルに着いて、キーボードを広げた。指を走らせていると何やら隣からも耳障りな音が聞こえてきた。見知らぬ男がキーボードのような物を広げているのだ。自分の世界に集中するために、より速く打ち抜かねばならない。隣人にも対抗心があったに違いなく、テーブルの上の互いの相棒を激しく叩き合った。
「すごいね」
「上級者だね」
いつしかテーブルの周りには通りすがりの人々が足を止めて、ささやかな関心を寄せるまでになっていた。特に身を乗り出すようにして、強い興味を見せていたのは、子供たちだった。
ただ速ければ、いいのか。その先に、生成されるものについては、どうでもいいというのか……。だったらいくらでも、速く打つことはできるぞ。次第に隣人への対抗心よりも、魅せることに重きが移っていく。初期にあった純粋性が吸い取られていく。これは魂の抜けた運動だ。疲れ果てて指を止めると、人々は花火が終わった後のように静かに散っていった。
隣人も疲れた顔をして、手を止めていた。互いの相棒に目を向け合うとそれについて語らずにはいられなかった。
「これは、軽いのがいいね」
キーボードの良いところをつぶやいて、今度は相手の方に目を向けた。
「それは?」
初めて注意深く観察するとそれはPCと簡単に結論づけられるものでもなかった。張りつめた弦、先細った笛、艶やかな太鼓、サイドには小型のハーモニカが突き刺さっていた。
「楽器でしょ?」
万能の楽器かもしれない。だとしたら、多少耳障りなことがあってもおかしくはなかったと考えることができる。けれども、まだそれだけではなかった。
「実は……」
ボードの下に手を差し入れる男の鼻は、少しうれしそうに膨らんでいた。そこから現れたのは巨大な文字盤だった。
「写植だ!」
思わず叫んでいた。
「一寸の幅」
文字の並びを覚えるための地図、算数で言う九九のようなものだった。初めてそれを目にした時、その途方もない言葉の数に圧倒されて、気が遠くなったことが思い出された。けれども、呪文を覚えることで広大な世界も自由に行き来することができるようになるのだ。
「一寸の幅!」
2人はテーブルの前に立ち上がって、声を合わせて一寸の幅の呪文を唱え続けた。
来た道を戻ることはそれほど簡単ではなかった。迷い迷い上ってきただけに、再び迷いの中に陥るのではという不安が、常に足下につきまとっていた。獣道の先に、傘地蔵が待っている。小さな花が隣に挿してある。こんなに鮮やかな、色だったろうか。日射しによって、あの時は輝いて見えたのかもしれない。小さな小川の先に、無人市が開かれている。そのすぐ先には、錆びた鍵のついた投書箱があって、山の中に細い階段が現れて、それは公園へと続いている。
(待てよ)
階段の狭さは記憶通りだったけれど、脇にこんなにもたくさんのペットボトルが、並んでいただろうか。あるいは、あの時は見過ごしていただけか。
(ドラえもん)
そうだ。噴水はドラえもんだった。
昨日と同じ、大丈夫だ。
滑り台の下にドラえもん。砂場の真ん中にドラえもん。そのまた先にドラえもん。
獣道を抜けると人の声がした。校門前の巨大スクリーンに映し出される朝の占いのトップスリー。もう、誰かが来ているようだった。導かれるように校庭に入る。
その時、誰かが後を追ってくる気配がした。
(こんな道、来たのだろうか)
また、不安が戻って来た。