ここ最近の教育に関するバッシングは本当にすごいものがあります。ここまでくると今の仕事をしている意味はほとんどなくなってしまう可能性があります。「学校」は生徒が好き勝手にやる場所。高校を卒業しないと就職や進学ができないから行くだけいく場所。気に入らなかったら「保護者に言ってもらう」というのがまかり通る場所。それが本当に「教育」なのかというと疑問を感じます。
「良い子」を育てるというのはどういう意味でしょうか?表面的に教員の言うことだけを聞く。自分の進路に直結する部分だけはまじめにやるがそれ以外は手抜き。そういう生徒を世の中が求めているのでしょうか。何度も言いますが「体罰」は決して許されることではありません。「罰」を与える必要がある場合、高校では「停学」があります。これは「形式的な反省の場」になる危険性もあります。「すみません」と謝っておけば済む。極論で書いているので批判をされるかもしれませんが、「時間が経過したら終わり」という部分です。
教師が生徒に発した言葉の一部が抜き出され「暴言」と取り上げられる。生徒から教師に対する行き過ぎた発言などは無視。それに対してきつい言い方で注意するとこれも「暴言」と判断。教育とは何でしょうか?暴言を吐かれても我慢。挑発されても我慢。これは仕方ない部分だと思います。歩いていて暴言を吐かれた相手を殴ったらこれは当然「暴行」ですから。しかし、教育の場面では他の場面よりも多く「注意を必要とする」ことがあります。これに対して生徒は素直に従うわけではありません。「何でこんなことをいわれないといけないのだ」と反抗をする者も少なからずいます。それでも辛抱強く我慢我慢です。
教育現場での問題は全て「教師が悪い」と言われています。一部では「ゆとり教育」の弊害だと。だから「土曜日授業」を再開するべきだと言われる。これにより民間は週80時間労働のところを、教師は84時間動労を強いられる。さらに月100時間の時間外労働を「ボランティア」で行う。それは「教師だから当たり前」とマスコミが取り上げ世論はそういう方向に流れる。理不尽なことがあっても「生徒の意見」「保護者の意見」が最優先される。それが今の教育現場です。「問題なく時間が過ぎ去ればいい」と思って教育活動を行うほど面白くないものはありません。
基本的に「お金のため」に今の仕事をしているわけではありません。どちらかというと仕事に関わる出費がかさむことのほうが多い。それでも今の仕事を続けています。それは目の前の生徒に対して「想い」があるからです。クラスの生徒の前で話をしました。本当はもう少し話をしたかったのですが時間の関係で「想い」の100分の1の話しかできませんでした。私は生徒に好かれようとは思いません。変な理想を掲げる気もありません。それでも私が何を思い何を考えているかの断片くらいは伝えられたらと思っています。
「信念」を持つこと。これが全てだと思っています。何をやっても必ず批判はされます。その時にどのような形で「責任」を取るのか。これまでクラスマッチや文化祭の展示などかなりの時間を割いて取り組んできました。その様子を見て「何をやっているんだ」と言う人も当然います。こんなに時間をかけて・・・とか遅くまで残ってやらせるのは問題ではないのかと言われます。人によっては「学校行事」は煩わしさが増えるだけと感じる部分もあるのでしょう。そこまでしてやってもどうせ壊すだけだという人もいます。しかし、私は生徒にやらせていることに対しては「信念」をもっています。この部分で問題になるのであればその「責任」は生徒ではなく私にあります。この感覚の「差」は一生埋められないと感じています。
「信念」を持って生徒と向かい合う。卒業の日にいろいろやりたいなと考えていることがあります。学内の人には一切迷惑はかけません。しかし、この姿を見て絶対に非難が出るでしょう。「何をやっているのか」「問題だ」と。それが本当に問題行動であり生徒のためにならないと保護者から苦情があれば私は受け止めます。今考えるうえで「問題」にあたる部分は一切考えれません。それでも批判は出る。世の中そういうものです。それに対してどう向かい合うのか。一緒に時間を過ごした生徒たちの中に「何か」を残せる。高校卒業の日の「記憶」として残る。これがこの子たちの中に「種」として残りいつか芽を出してくれるだろうという「信念」がある。それを「何をやっているのだ」と批判するは簡単なことです。では子供たちに何を伝えるのか?それがないのであれば批判されてもその批判には意味がないと思います。
私はこういう性格だから100人いたら60人くらいは好きと言ってくれるだろうが40人くらいは大嫌いだと思うと話しました。実際そうだと思っています。クラスの生徒が全員私のほうを向いているどうかは分かりません。無難に生きて100人から「普通」という評価を受けるよりも「信念」を持って生きて「60人から好かれるほうが良い」と思います。何かをすれば人の目につきます。人の目につけば賛同してくれる人もいれば絶対的に批判する人もいる。陸上に対する取り組みも同様です。「良い指導者」と言ってくれる人もいるでしょうがそれと同じ数だけ「最低の指導者」と言われていると思います。無難に生きることは私らしくないと思っています。問題行動は許されない。しかし、誰のためなのかを考えるときに「信念」をもって示せるか?ここだと思います。
まとまりがありません。この手の内容を文章で上手く説明するのは不可能です。文章力がないというのもあると思うのですが、あまりにも微妙な話が多すぎて深く書くことができません。「金」のために働いているわけではない。今の仕事に誇りを持っています。それでもこう周りが騒ぐと・・・。
また書きます。多分。
「良い子」を育てるというのはどういう意味でしょうか?表面的に教員の言うことだけを聞く。自分の進路に直結する部分だけはまじめにやるがそれ以外は手抜き。そういう生徒を世の中が求めているのでしょうか。何度も言いますが「体罰」は決して許されることではありません。「罰」を与える必要がある場合、高校では「停学」があります。これは「形式的な反省の場」になる危険性もあります。「すみません」と謝っておけば済む。極論で書いているので批判をされるかもしれませんが、「時間が経過したら終わり」という部分です。
教師が生徒に発した言葉の一部が抜き出され「暴言」と取り上げられる。生徒から教師に対する行き過ぎた発言などは無視。それに対してきつい言い方で注意するとこれも「暴言」と判断。教育とは何でしょうか?暴言を吐かれても我慢。挑発されても我慢。これは仕方ない部分だと思います。歩いていて暴言を吐かれた相手を殴ったらこれは当然「暴行」ですから。しかし、教育の場面では他の場面よりも多く「注意を必要とする」ことがあります。これに対して生徒は素直に従うわけではありません。「何でこんなことをいわれないといけないのだ」と反抗をする者も少なからずいます。それでも辛抱強く我慢我慢です。
教育現場での問題は全て「教師が悪い」と言われています。一部では「ゆとり教育」の弊害だと。だから「土曜日授業」を再開するべきだと言われる。これにより民間は週80時間労働のところを、教師は84時間動労を強いられる。さらに月100時間の時間外労働を「ボランティア」で行う。それは「教師だから当たり前」とマスコミが取り上げ世論はそういう方向に流れる。理不尽なことがあっても「生徒の意見」「保護者の意見」が最優先される。それが今の教育現場です。「問題なく時間が過ぎ去ればいい」と思って教育活動を行うほど面白くないものはありません。
基本的に「お金のため」に今の仕事をしているわけではありません。どちらかというと仕事に関わる出費がかさむことのほうが多い。それでも今の仕事を続けています。それは目の前の生徒に対して「想い」があるからです。クラスの生徒の前で話をしました。本当はもう少し話をしたかったのですが時間の関係で「想い」の100分の1の話しかできませんでした。私は生徒に好かれようとは思いません。変な理想を掲げる気もありません。それでも私が何を思い何を考えているかの断片くらいは伝えられたらと思っています。
「信念」を持つこと。これが全てだと思っています。何をやっても必ず批判はされます。その時にどのような形で「責任」を取るのか。これまでクラスマッチや文化祭の展示などかなりの時間を割いて取り組んできました。その様子を見て「何をやっているんだ」と言う人も当然います。こんなに時間をかけて・・・とか遅くまで残ってやらせるのは問題ではないのかと言われます。人によっては「学校行事」は煩わしさが増えるだけと感じる部分もあるのでしょう。そこまでしてやってもどうせ壊すだけだという人もいます。しかし、私は生徒にやらせていることに対しては「信念」をもっています。この部分で問題になるのであればその「責任」は生徒ではなく私にあります。この感覚の「差」は一生埋められないと感じています。
「信念」を持って生徒と向かい合う。卒業の日にいろいろやりたいなと考えていることがあります。学内の人には一切迷惑はかけません。しかし、この姿を見て絶対に非難が出るでしょう。「何をやっているのか」「問題だ」と。それが本当に問題行動であり生徒のためにならないと保護者から苦情があれば私は受け止めます。今考えるうえで「問題」にあたる部分は一切考えれません。それでも批判は出る。世の中そういうものです。それに対してどう向かい合うのか。一緒に時間を過ごした生徒たちの中に「何か」を残せる。高校卒業の日の「記憶」として残る。これがこの子たちの中に「種」として残りいつか芽を出してくれるだろうという「信念」がある。それを「何をやっているのだ」と批判するは簡単なことです。では子供たちに何を伝えるのか?それがないのであれば批判されてもその批判には意味がないと思います。
私はこういう性格だから100人いたら60人くらいは好きと言ってくれるだろうが40人くらいは大嫌いだと思うと話しました。実際そうだと思っています。クラスの生徒が全員私のほうを向いているどうかは分かりません。無難に生きて100人から「普通」という評価を受けるよりも「信念」を持って生きて「60人から好かれるほうが良い」と思います。何かをすれば人の目につきます。人の目につけば賛同してくれる人もいれば絶対的に批判する人もいる。陸上に対する取り組みも同様です。「良い指導者」と言ってくれる人もいるでしょうがそれと同じ数だけ「最低の指導者」と言われていると思います。無難に生きることは私らしくないと思っています。問題行動は許されない。しかし、誰のためなのかを考えるときに「信念」をもって示せるか?ここだと思います。
まとまりがありません。この手の内容を文章で上手く説明するのは不可能です。文章力がないというのもあると思うのですが、あまりにも微妙な話が多すぎて深く書くことができません。「金」のために働いているわけではない。今の仕事に誇りを持っています。それでもこう周りが騒ぐと・・・。
また書きます。多分。