kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

学ぶ~その2~

2013-02-21 | 陸上競技
前の記事の続きを。長いので読み飛ばしてもらって構いません(笑)。

競技の指導に関して見直さなければいけないと強く感じました。それと同時に「外に出よう」という気持ちが強くなりました。これまで「自分がやってきたこと」の視点でしか物事が見れていなかったという深い反省がありました。色々な人の考え方を学ぶという姿勢を持っていたつもりでしたが知らず知らずに自分の世界で終わっていました。ここで気づけたというのは大きいと思います。この時点でもある程度指導ができていたと思います。全くできていないとは思いません。

ここで考えないといけないのは、教員というのは採用されたその日から教員になるということです。これまでの経験が云々ではなくどのような考え方でやっていても教員は教員なのです。自分自身に危機感を感じていてもいなくてもそれなりに仕事はできます。これはどの職種でも同じです。また、「親」になるのも同様。子供ができて生まれた瞬間から「親」としての行動が求められます。精神的に成熟していなくても「親」なのです。「学校教育が・・・」とか「家庭の教育力が・・・」という部分がマスコミや報道で大きく取り上げられます。考えてみればどちらも「不十分さ」が残ったままでその「役割」を求められているのです。大変な事だと思いますね。

「教員」の価値観がおかしいと言われる。それはどこの立場から見ておかしいのか?保護者が「この教員の考え方はおかしい」と非難する。確かにおかしいのかもしれません。しかし、その保護者の価値観が世間一般から見てずれている可能性はないのか?誰から見た価値観が正しくて間違っているのか?判断は本当に難しいと思います。私は現在36歳です。36歳の価値観は間違っていて50歳の価値観は正しい。これは本当でしょうか?

書いている内容、誰かを否定するつもりはまったくありません。分かりにくいかもしれませんが哲学的な考え方だと思っています。20歳の若者であっても世の中の原理原則を学ぶことができていれば考え方もしっかりとしてきます。

最も尊敬し師事している方がいます。この方との関わりが深くなってきてから「学ぶ」ということが今まで以上に必要だと感じるようになりました、同じ時期に義父からの勧めで「孫子の兵法」について読むようになりました。孔子や論語、松下電器の創業者である松下幸之助、京セラの稲盛和夫、哲学者の池田晶子、教育学者の斎藤孝の本などをひたすら読み漁るようになりました。人に何かを伝える仕事をするのであればこれまで以上に多くの価値観に触れる必要があると考えたからです。これが学ぶという事ではないかと。

以前はスポーツに関する本やトレーニングに関する本を読む事が多かったと思います。その辺りにある書店よりは本を持っていると思いますし、専門的な内容があると思います。しかし、出会いをきっかけにトレーニングの部分から考え方や生き方を学ぶことが優先されるようになりました。こちらの本物数え切れないくらい読んだと思います。保管しておく場所がないくらいの量があります。

世の中には原理原則があると思っています。時代が移り変わっても変わらないものがある。何百年も前から本当に大切なものというのは変わらないのです。論語や菜根譚(中国の故事)などを読むとわかってくることがあります。物事を上手く進めていくためには変わらない大切なことがあるのです。そこを学ぶことが今の仕事にとっては大切なことなのではないかと思います。

県内に留まらず自ら外に出るようにしました。先程書いた師事している方の仲介もあって素晴らしい指導者に会って話を聞く機会を持つことが出来ました。昨年は以前から行って見たいと思っていた宮崎の商業高校の指導者の方に会って話を聞くことができました。練習に参加させてもらうことで選手も大きな刺激を受けます。同時に私も考え方、生き方を学ぶことが出来ます。貴重な体験です。本当に素晴らしい方でした。

共通して言えることは優れた指導者は間違いなく「人格者」だということです。選手のことを考えて生活を送っておられます。偉ぶる事は絶対にありません。それどころか包み隠さず様々な話をしてくださいます。育てるという感覚が強くあるのだと感じました。

人と関わるのであれば多くの考え方に触れる必要があると思います。大企業の創始者は間違いなく自分なりの「哲学」を持っています。本を読んでいくと分かるのですが、その「哲学」は別々のものではなく多くの部分が共通するものなのです。その部分を子供達に伝えていく事が教育の根底にあるのではないかと考えます。自分なりの価値観を押し付けるのではなく、原理原則を知った上で他者に伝える事が出来なければいけないと思います。

だからと言ってその考え方が常に正しいとは限らない。更に多くの価値観に触れていく必要がある。自分自身が成長していかなければいけないと思っています。

私自身の存在を正当化する気はありません。まだまだ未熟だと思っています。だからこそ留まる事なく学んでいく必要がある。そこができなくなったら人に何かを伝える事はできなくなると思います。

我ながら面倒な性格だと思います。回りくどいというか(笑)。こんな内容を書いても文章力が無いので上手く伝える事が出来ているか分かりません。高校生にはきっと分からない内容だと思います。それでも何を想い人と関わるようにしているのかは何となく感じてもらえたらと思います。

独りよがりの文章かもしれません。それでもここ最近は教育って何か?という部分をひたすら考えています。思っている事をきちんと記しておきたいと思ってこのBlogを始めました。日記です。

公の場での日記がBlog。これにより賛同を受ける事もあれば批判される事もある。そこは覚悟しておかなければいけない部分です。誰かに何かしらのメッセージが伝われば良いと思います。

長々とすみませんでした。御許しを。
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学び~その1~

2013-02-21 | 陸上競技
思うことを。「読みたくない」という方は読み飛ばしてもらって構いません。あくまで「私見」ですから。

これは大学時代から考えていたことでもあり、今も同じく考えていることです。私はかなり前から「人の考え方を学ぶ」ということが好きでした。高校時代からなんとなくですがエッセイなるものをかなり読んでいました。これは難しい話ではなくちびまる子ちゃんの作者「さくらももこ」が書いた「もものかんづめ」や「さるのこしかけ」、柴門ふみのエッセイ、ダウンタウンの松本仁志の「松本」や「遺書」などの本です。なぜ読んでいたのか今となっては分かりません。前から「人がどのように考えるのか」を考えるのが好きでした。変わってますね(笑)。本を読むのが好きですが小説などはほとんど読みません。どちらかというと「物事の進め方」や「人の考え方」「生き方」に関心がありました。

大学4年生を終えたときに「運動心理学」を学びたいと思い大学院に進みました。この辺りは普段からの「考え方」が大きく影響していたのではないかと思います。そこで「行動心理学」や「不安の心理学」など「学問としての人の心」を一般的に学びました。これも講義で学んだというよりは自学自習的なところが多かった気がします。その代りといったらなんですが「遊ぶこと」ができません。友人たちと遊びにいったりという経験がほとんどない。こういう意味では「面白くない」人間だなと反省しています。

競技に関しても「スポーツ科学」について深く学びました。バイオメカニクスであったり運動生理学であったりとかなりマニアックに学びました。手当たり次第に「最新の技術」「最新の科学」を読み漁っていた記憶があります。これまでは「漠然と競技をやっていた」という感じがありました。通常の大学生よりは「知識」があったと思います。それが「自慢」となっていた部分もあったのではないかと。競技後半は乳酸測定を行ったりして自分の練習についてひたすら考えるという時期もありました。スポーツをしていくうえで「経験則」に頼ることが多い世界です。ここから少し脱出した気がして気持ちも高まっていました。今考えるとめちゃくちゃ恥ずかしいですが。

卒業して働くようになってしばらくは「スポーツ科学」が最優先だと思っていた時があります。「自分がやって成功したからやる」という練習は良くないと考えていました。これは単なる思い込みです。目の前の選手を見たり生徒と関わるなかで見えてくる「本当に大切なこと」を学べなかった気がします。陸上の指導ができるようになって数年は「自分は指導ができる」と調子に乗っていたかなと思いますね。大した指導もできないのに思い込み「良い指導者」だと考えていました。県外の大学に陸上競技の勉強に行かせてもらったりもしました。指導実績云々ではなく「選手としての実績があった」というところで評価を受けていました。たまたま指導し始めて数年後に0からスタートした陸上部が中国大会に行くようになったのでそこで更に勘違いがあった気がします。今がどうなのか自分自身では判断が難しいところですが当時から比べると大きな差があります。それでもある程度の「結果」が出ていたというのが恐ろしいところですね。

顧問となり初めて中国大会に進んだ後、「出会い」がありました。今でも師事している方と一緒に練習をさせてもらうことができるようになりました。これまでの自分の指導が本当に「小さいもの」だったことが良くわかりました。「選手」と「指導者」は違う。選手としての感覚と指導者としての感覚は全くの別物です。「成功体験」を他の選手に当てはめるというのは違うなと思っていたにも関わらず、知らないうちに自分自身がその「型」にはまっていた気がします。情けない話ですね。「選手」としての評価を「指導者」としての評価と勘違いする。実は良くあるパターンです。指導していてたまたま力がある選手が入学してそれなりに指導していたら上の大会に進んだ。自分は「指導力がある」と思い込んでしまう。本当は全く違うんだけどそれに気づくことができないのです。

指導者として本当に必要な事は「選手時代の感覚を捨てる事」だと師事している方に言われました。当時全く意味が分かりませんでした。情けない話ですが(笑)。感覚で教えている部分はほとんどないと思い込んでいたのもあると思います。客観的に見たら当時の私は選手の立場に立った技術指導はできていなかったのだと思います。情熱だけで選手と関わっていたのかなと。他者の考え方を学ぶというのが私の中では大きかったにも関わらず本当はそれができていなかった。今から8年くらい前の話になるのでしょうか。妙な自信があった時期だったのではないかと思います。

この方との出会いが私の人生を大きく変えて行ったと考えています。上手く書けませんが。人は他の人との出逢いの中で何かをつかみます。逆に全くつかまない人もいます。ここの差は人生を歩んでいく上で本当に大きな部分です。きっかけを自分でものにできるかどうかだと。実はできない人、ものにしようとしない人が大多数を占めているのではないでしょうか。こういう意味では私は本当に恵まれていると思います。

長くなるのでちょっと切ります。また別に。
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