kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

練習をする

2013-11-24 | 陸上競技
色々と思う事があり練習についてはほとんど書いていません。練習はやっています。木曜日からテスト週間に入ったのでかなり抑えめにしていますが。勉強会は学校で行っています。保護者の方が見ておられたらその部分は安心していただければと思います。土日は学校で5時間以上はやっていると思いますが、あとは家に帰ってどれくらいやってくれるかです。学校でやったから大丈夫と安心してしまうのが一番怖い。ここが本当の頑張りどころです。今後の事を考える上で私の目を離れたところで自分でどれだけ勉強できるかというのは本当に大きな事だと思います。叱咤激励してやってもらえたらと思います。競技だけやれば良いわけではないと常々考えています。

こちらが前面に出ない形で練習をしています。もちろん指示は出しますが私だけが全力でやっても今後の事を考えると意味はないですからね。本人達がやる気があって自分達でインターハイを目指すのであれば本当に努力をしないといけないというのは分かり切っています。目標を掲げて自分達で進んで行くというのであれば、それに見合う努力をしなければいけません。頑張るという気持ちだけではなく本当にそれに向けてやっていくことが必要になるのです。

先週の火曜日から練習を再開していますが、基本的には短い距離しか行っていません。うちは地味にやっていくのが基本だと思うのでガンガンやるというだけではなく動きに重きを置いた練習をしていきたいと考えています。時間的にも長時間とならないようにしています。距離も短い。これで本当に走れるようになるのか?といわれるとなんとも言えませんがなります。これは比べてもらったら一目瞭然だと思いますね。自画自賛するつもりはないですがかなりの水準で取り組めていると考えています。

練習の基本はソリッドで進めています。苦手な選手にとっては苦痛以外の何物でもないでしょうね。それでも取り組んでいくことで大きく変わってくると思っています。様々な練習パターンで行うよりも課題を明確にしてその克服に向けてやっていくことが私のやり方です。退屈な練習かもしれませんがその練習を続けていくことで必ず結果がついてくると思います。単調な練習なので選手の意欲次第でその成果は大きく変わってきますが。集中して物事に取り組めるかどうかは大切です。ここは勉強も同じだと思っています。

練習の進め方としてはかなり形になってきていると思いますね。前の記事に書いた私が高いレベルを求める云々とは別問題として。ここはある程度自信が持てるようになってきたとは思っています。ある程度の力がある選手であれば1年くらい地道に取り組んで行けば結果がついてくると思います。強くなってきたことで安心してしまわない限りは強くなれるはずです。

時間はかかりますが地道にやっていきたいと思っています。選手の意欲次第で結果は変わるはずです。見守っていきたいですね。

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考えていく

2013-11-24 | 陸上競技
金曜日にかなり話をしました。あっという間に4時間が過ぎてしまった感じがあります。年代的に思うことがたくさんあるのだと思います。特別何かテーマがあって集まったというわけではないのですが・・・。

話をしていく中で考えることがたくさんありました。私自身がチームに求める水準が年々高くなっていること、その水準は選手にとって初めてのことであり戸惑いが大きいこと、直線的にチームが成長していくことはないこと、多くの話を真剣に話していきました。いやー、周りから見るとちょっと変わった人たちですね。個室で良かった。こういう話を公の場で話すのはやはり良いことではないと思っています。プライベートであってもプライベートではないですから。

私自身、もっともっと「原点に帰る」という部分を重視していかないといけない。いつもいつもあがっていけるわけではないのです。こちらが求める水準と選手の立っている場所を常々確認しておきたいと思います。以前は「中国大会に行く」という分かりやすい目標をみんなで共有していました。これは比較的簡単(失礼かもしれませんが)。学年全員が中国大会を経験したという年もあります。「中国大会に行くのは当たり前」と全員が認識していたので自然にそれくらいの水準になっていたのだと思います。

しかし、今は「インターハイに行く」という高い目標に推移しています。これは簡単なことではありません。中学時代に全国を経験したことのない選手達がいきなり「インターハイ」という高すぎる目標を掲げてもそれに対応できない部分はあるのだと思います。私自身はそこが「当たり前」だと感じる部分でも選手にとってはイメージしにくい。中国大会を経験することさえそれほどなかった選手達が大きな舞台をイメージするというのは厳しいものがあります。

上級生が経験したとはいえ直接その舞台を見たわけではない。だからやはり「現実味がない」目標となる。本気でインターハイを目指すという気持ちはあると思います。しかし、こちらからすれば「物足りない」と感じてしまう。そこの大きなギャップが存在しているのだと思います。それを私も選手も受け入れていかなければいけない。その部分が私の認識の甘さだったのかもしれないと感じています。

「もっとできる」と感じる部分と「自分たちは今までよりも練習できるようになってきている」と感じる部分のギャップ。普通の高校であれば「十分すぎる」と言えるレベルであるのかもしれません。求めるレベルが高すぎるのかもしれません。もう一度私自身も原点に帰ってみる必要があるのかなと。よく考えると前は練習中に他の学校の生徒に手を振ったり、練習中にトゥトレで引っ張り合って転んで骨折をするとか・・・。試合のときに化粧をしてレースの出るというパターンもあった気がします。そのレベルから考えると大きな成長ですが。競技に向かってきたという話でしかないのですが(笑)。

基本の徹底をしておきたいと思います。挨拶をする、返事をする、明るい雰囲気を作る。そういう部分を徹底していくことは強い弱い関係なくできると思います。まずはそこの部分ができて次の部分なのかなと。自分が何をしないといけないかを考えていきたいと思います。
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原点に戻る

2013-11-23 | 陸上競技
競技のことを少し。

思うことがありもう一度技術的な部分について考えていました。気が付くとある程度のことはできるようになっていますがもう少し動きの部分を細かく確認する必要があるかなと感じていました。脚運びという地味な部分を丁寧にやっておきたいと考えました。「走っていたらそのうち速くなる」と考える指導者もいるでしょうが、私は「地道な積み重ね」で速くなると思っています。どの考え方が正しくて間違っているというのは分かりませんし、すべてが正しいのかもしれません。私は繰り返し練習しかないと思ってやっています。

脚運びに意識を置くことで「進まない状態」が生まれます。何を言っているのか分かってもらえないのかもしれませんがこれまで見てきた中でこれは間違いない事実だと思います。うちの練習で脚運びや階段をひたすらやることがあります。このことにより「目指す脚運び」に近づきますが一番大切なところができていないので進みません。

数日間脚運びを中心に行いました。長い目で見たときには絶対に必要だと思います。じっくり見ていると「脚が流れる」「回転が後ろになる」選手には共通する特徴がありました。これは顕著な特徴です。走っていて「流れる」というだけではなく、基本的な脚運びの段階で「流れる要因」があるのです。ここは意識的に改善していく必要があると感じました。時間はかかると思いますが・・・。

同じ動きを行わせてもやはり各自で異なります。「個性を生かした走り」が理想だと言われます。腕ふりも脚運びも修正する必要がないと。私はある程度は修正が必要だと考えています。身長が違えば走りも異なる。当然のことです。うちにはタイプが全く異なる選手がいます。その選手達が全く同じ動きを目指すというのは不可能ですし意味がありません。ストライドで持っていくタイプとピッチで持っていくタイプ。2人が同じ動きをしているとは思えません。しかし、「基本的な部分」は共通する意識でやらないといけないと思います。

身長が低くピッチで走るタイプは他の選手よりもスピード持続能力が必要になります。筋持久が身長が高い者よりも優れていなければいけない。ダラダラ走る持久力ではなく速い動きを持続する力です。だから走練習がすごく大切になる。疲れてからのスピード持続(心肺的)な部分も必要になりますが負荷をかけて後半でピッチを維持させる練習が必要だと考えています。タイヤ引きなどはすごく苦手な練習になるとお思います。それでも後半の持続のことを考えると短い距離でのタイヤ引きは効果があると感じています。時には長い距離(120mくらいまでですが)やりますが・・・。しんどい練習に耐える力が求められる。かなり精神的に強くならないといけないと思います。

身長が高くストライドで走るタイプの選手は筋力が必要になります。大きな身体を動かすというのは簡単ではありません。手足が長くなるということは支点からの足先までの距離が大きくなりそれを動かすというのは簡単ではありません。大きな力を必要とします。脚運びの部分も他者よりは必要な部分です。支点から足先までの距離を小さくしなければ回転が上がりません。身長が低い者よりは間違いなく大きな筋力が必要になります。走る練習も重要ですがトレーニングの必要性は大きいと思います。筋力を上げるというのもかなり大変です。余程の意識でなければ必要な筋力は上がらないからです。

タイプが違えば必要な要素も変わってくる。それは当然のことです。しかし、根本的な部分は同じ。特に「脚運び」と「移動」は絶対にはずせない要素です。これまでは「脚運び」を最優先してきました。これはこれで大事だと思います。しかし、これだけに特化すると「移動」の部分が疎かになり全く動かなくなる。脚運びだけがきれいになっても一番大切な部分ができなければ意味はなくなってしまいます。これが今までの一番の反省点だと考えています。

基本的ない部分に力を入れながらも「移動」も入れていく。これが正しいかどうかは分かりません。繰り返しになりますが走っていたら速くなるという可能性も十分あるからです。しかし、継続的に結果を残す学校にはそれなりのノウハウがあるはずです。良い選手が集まったから一時的に強いというのではなく高校に入ってから伸びるというのには必ず理由があると思います。この部分が確立できたらと考えています。

長くなりました。競技にかなり意欲がわいてきてたということでお許しを。
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「月」と「太陽」

2013-11-23 | 陸上競技
思うことを少し。

昨日親しい人と4時間以上話をしていました。その時感じたことを記録として残しておきたいと思います。かなり真面目な話を何時間もするというのはなかなかできることではありません。ある程度価値観が近かったり向いている方向性が同じ人としか時間は共有できないと思っています。雑談というよりは真剣にあれこれ話したという感じでしょうか。

ここ最近(数年?)ずっと感じていたことがあります。前も書きましたが私自身「エネルギーは無限大」だと思い込んでいました。「何かをしよう」と思ったらそれに対してエネルギーが沸いてくる。特に何かを意識しなくても活動ができるという部分がありました。周りから「よくやるね」というようなことでも自ら進んでやるという感じがありました。これも「性分」なのだと思います。とにかく動き続けておきたい。活動することで次のエネルギーが発生するという感じでしょうか。

しかし、少し前に「エネルギーが尽きた」と感じる時期がありました。これはしんどかったですね。どう考えても活動できない。モチベーションが低下するというのもあるのでしょうが本当に「活動できない」と感じていました。「疲れた」としか言えない状態。本当に疲れ切ったという感じがありました。肉体的にも精神的にもしんどいなという時期です。

自分の中ではそれが「許せない」というところがありました。いつもアクティブにいたい。自ら進んで動いておきたいという気持ちが強くなるのですがそれが行動に移せない。そんな自分自身が嫌だなという感じがありました。結構大変な話です。これまでとは違う自分がいてそれを自分自身が受容できない。とはいえ、行動ができるかというとそれはできない。うーん、という感じですね。

そこで「他の人にエネルギーをもらおう」と考えました。自分自身で動けないなら他者からエネルギーをもらってそれを力に変えて動きたい。それ以外の方法が思い浮かびませんでした。「頑張りたい」という人間のそばにいることでそこからエネルギーをもらえるのではないかと考えたのです。しかし、それは一瞬でした。他者からもらったエネルギーを自分のものにしてその力で動き続けるというのは私にはできませんでした。自分の中から湧き出てくるエネルギーがない限り「kaneko」という人間は動けないのだと悟りました。

「動き続ける」というのは簡単なことではありません。誰かと真剣に向き合ったり、多くの人を動かすというのは楽な作業ではないのです。大きなエネルギーが必要になる。そのエネルギーをどこから手に入れるのか。「そういう気持ちになるのを待つ」しかないのかもしれません。それでも私がエネルギーを発し続けなければ多くのものが動かないというのも感じました。休む間もなく動き続けなければ先には進めないのです。それをこの数週間で強く感じました。

逆にエネルギーを発し続ける人がいるから「力」を発揮できるタイプの人もいる。「月」と「太陽」の関係です。自ら輝かなくても「太陽」が輝くことで自分自身の「力」を発揮できる。「太陽」はその「月」がいてくれるおかげで夜の間は休める。常に「太陽」が出続けることはありませんし、常に「月」が出続けることもない。お互いがその存在に支えられて価値を見出しているのです。私は性格的に「太陽」なのだろうなと感じています。自分がエネルギーを発し続けることでその存在の価値がある。受け身になっていたらその存在は誰にも多くのプラスにはならない。私の存在を支えてくれる人がいるから輝き続けることができるということも忘れてはいけない。その人たちのためにも「動き続ける」ことが必要なのだと感じました。

正直、「太陽」であり続けることは簡単なことではありません。時にはエネルギー切れを起こすこともあるのかもしれません。しかし、これでは先には進めないのです。申し訳ないのですが少し止まりました。止まったことで多くの人に迷惑をかけたり、不快な思いをさせたのかもしれません。しかし、一人の人間として考える時間というか自分自身の時間が必要だったと思います。これが将来的にプラスになると信じたいと思います。

「太陽」として輝き続けることができるか。それは今後の取り組みを見ていただくしかないと思います。「太陽」でありたいと願います。
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指導に関して

2013-11-21 | 陸上競技
指導を続けていく中で感じること・・・。これを少しずつ記しておきたいと思います。興味がない方は読み飛ばしておいてください。というか、そこまで私が気を使う必要があるのかどうかというのもblogを更新するうえで非常に疑問を感じる部分ですが。まー書いておきます。

人は多様な価値観を持って生きています。ある人にとっては「正しい」と思う事でもある人にとっては「正しくない」と判断される。当然起こり得ることです。世の中で争い事が起きる一番の原因は「価値観の違い」や「考えの違い」だと思います。ある人にとっては「当たり前」でもある人にとっては「当たり前ではない」ということがストレスの原因となってトラブルとなる。ここは現状では避けて通れないことだと思います。全員が「考え方が同じ」というのは恐ろしいですからね。

部活動の指導や学校生活の指導は「ある一定の方向性」で進まないといけないと思っています。各自がそれぞれの基準で物事を進めていったら話はかみ合いません。集団ですからなかなか「一定の方向性」に進むというのは難しい。高校生の「基準」に合わせていたら大変な事になります。人によっては「別に良いじゃないか」と思うこともある。しかし、ある人は許してある人は許さないというのを「同一集団」で行っていたらこれはかなり混乱を招きます。ある一定の水準で集団をまとめていくことが必要になります。

中学生や高校生は「子供」です。これまで家庭である程度の指導は受けていると思いますが、「自分が中心」で進んできていますから「何がいけないの」という観点から抜け出せない部分があります。言われている内容の理解というのが非常に難しい。「自分は悪くない」という視点からスタートしていますからどれだけ話しても先には進みません。結局、根負けして話が終わる。それの繰り返しです。しかし、それで本当に良いのでしょうか。

私自身非常に未熟な部分があると思っています。それでも多く人を動かすという経験を積んでいますからそれなりに視野は広がっていると思っています。自分のことになるとまだまだできていないなということもあります。「他者にだけ求めて自分はできていないではないか」と言われるとその通りかもしれません。「聖人君主」のようにすべての面で清く正しく美しく「完璧」であることは不可能です。「出来ていないことを教えるな」と言われることもあるでしょう。「指導をする」というのは「完璧にできたこと」を指導する訳ではないと思っています。

競技を例に挙げれば簡単です。世界記録を持つ選手を指導する。「自分にできないことを指導するな」と言われたらこの時点で誰も指導はできません。世界で一番の記録を持っているのだからそれ以上の記録を持って指導をすることはできないのです。それでも物事に対しての指導をする。指導者と同じように選手自身も完璧ではないからです。50歳になったら100mを10秒台で走るのはかなり厳しい。そうなると50歳になった指導者は指導することはできないのか?これは違うと思います。

様々な場面で指導することがあります。多分他の人よりも多いのではないかと自負しています。大抵の場合「自分はやっているのに」という感覚を相手は感じています。しかし、本当はできていない。それを指摘されるのは非常に嫌なものです。自己肯定感が強い人間に関しては特にその部分が大きくなると思います。「注意を受ける=否定される」と感じる部分があるのでしょう。この状態では話は先に進めません。「違うんだ」と伝えていくためには尋常ではないエネルギーを使います。

相手に好かれようと思えば言わないのが一番。生徒に好かれようと思ってその生徒に迎合するというのは簡単です。私にはできませんが。見て見ない振り、気が付かない振りをすればそれで終了。お互いに「適度な距離感」を取っておけば人から嫌われることはないのですから。それが本当に「教育的な行為」なのでしょうか。保護者によってはその部分を全く求めていないという人もいるのではないでしょうか。「学校に行けば良い」という感覚の人も少なくない。その子供たちの将来のことまで考えて指導をするというのは非常に困難なことなのです。

一方的に価値観を押し付ける。それは良いことではない。私自身も分かっています。しかし、ある一定の価値観の中で指導をしていかなければ話は一向に進みません。「価値観の押し付け」ではなく「価値観の共有」でなければいけない。繰り返しになりますが「価値観の違い」というのはこれまで育ってきた環境や接してきた人間の影響が強い。一瞬で変わるようなことはないと思います。それ故、地道な指導が必要となる。時間も労力もかかります。しかし、誰かがやらねばそれは一生変わることはないと思っています。これは私の「私見」なので社会一般的に見ると全く異なると言われるのかもしれませんが。

「自分はこんなにやっているのに何故注意を受けるのか」と言う。当然ですね。自分の「価値観」の中で生きているのですから。しかし、少し違う視点から見たときに「ちょっと違うんじゃない?」と指摘されることは必要だと思います。注意を受けたら「自分は正しい」と正当化するだけでは成長はないと思います。私自身不十分な点があれば自分を見直さなければいけない。「指導する側」が毎回正しいというわけではない。相手側の言い分もあるでしょう。その部分にも耳を傾けていかなければいけなくなる時代は間違いなく来ています。生徒に迎合する気はありませんが。

長くなりました。その上意味が分かりにくい文章ですね。読み飛ばしてください。
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言葉で伝える難しさ

2013-11-20 | 陸上競技
今更ですが「言葉」で伝えることのむずかしさがあります。これはこれから先も解決しないのではないかと思いますが・・・。同じ言葉であっても捉え方によっては全く違います。前後の文脈によっても全く感じ方が異なる。ここ最近、「競技の指導がしたい」と強く思っていました。3か月間は競技の指導もしてきましたがそれ以上に日常生活の指導が大きい。「更生部」ではありませんから放課後の練習時間くらいは競技を指導させてほしい。そう強く思っていました。

そのため繰り返し繰り返し話をする。練習の時間を割いてまでやるというのが本当に良いのか分かりませんが・・・。「強ければいい」とは思いません。他者から応援されるようなチームでなければ今後活躍しても意味がないと考えています。物事に全力で取り組むということができなければ上の大会に勝ち進んでもそれほど意味がないのではないかと。ここは選手とは大きなギャップがあると思います。競技は競技、日常生活は日常生活と完全に区別して考える者もいるでしょう。

ある選手の日誌に「一人が乱しても良いではないか。他の者がそれをカバーすれば問題ない。」と書いてありました。本当にそうでしょうか?これまで話をしてきたことは伝わっていなかったのだなと強く感じました。この状態で練習をしても何も生み出さない。がっかりするというよりは諦めるという感じでしょうか。本当に難しい。「一度きりの高校生活だから文化祭も練習も楽しみたい」と書いている者も。それはそれで良いと思いますが、部活動の方針とは大きく異なります。文化祭を楽しむなとは一度も言っていません。できる時間にやれば良い。練習の開始時間が遅れてまでも何時間も準備をするというのは違うのではないかと思っています。こういう書き方をすると「価値観の押し付け」といわれるかもしれませんね。こういう時代ですから書いたことの「表面的な部分」だけをとらえられる可能性は十分ありますから。

「普通に練習する」ということがどれだけ大事か。結局、こちらの思っていることが選手に伝わっていないからこのような話になるのだと思います。基本的には練習優先。勉強があれば勉強優先。いつも通りにいつもの練習をする。これだけです。ここ最近日常生活の指導が中心となり競技面の指導が不十分だと感じています。自分たちのためにやっていてその時間帯に指導する側が合わせているのです。そのことさえも感じ取ってもらえない。勤務時間外に指導するということの意味。見ているだけではありません。選手一人一人を見ながらあれこれ考えています。それは分かってもらいたいと思うのは私のワガママでしょうか。

強くなりたいという意欲はあると思います。しかし、それだけで本当に良いのか?全て選手中心で選手の思い通りにやる。そのようなチームになるのは絶対に避けたい。そう思って何年も指導してきました。

私が「指導したくない」と思ったのは勘違いで起きたことでも何でもありません。この状況に置いて「基本的なこと」を何度も確認しなければいけない状況に疲れたのです。そのことが理解できずに「本当は違うのに」「自分たちは強くなりたいのに」という話の流れになっていたというのは「言葉」で伝えることのむずかしさがあるのだと思います。

一人の人間として「疲れる」ことは許されないのでしょうか?教育に関わる者は24時間全てを犠牲にして他者のための務めるのが「当然」なのでしょうか?こういう部分を考えるとすごく疲れます。競技の指導に持っているエネルギーを使いたい。特に放課後は。それができないのであれば部活動の指導をしないでのんびり過ごすほうがストレスを感じません。

何時間もかけて話をしました。個別にも。これでどれだけ分かってくれるでしょうか。大きなエネルギーを使うという部分が分かってもらえるでしょうか。なかなかしんどい部分です。
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どこまでやるのか・・・

2013-11-19 | 陸上競技
先週はほとんblog書く気0。色々ありました。周囲の雰囲気は「文化祭モード一色」です。この中でどれだけ練習に取り組めるかというのはすごく大切なことです。それでもなかなか集中することは難しい。ある日、「文化祭の準備が終わってから練習しても良いか」と言われました。「はい?」という話です。ここで完全に気持ちが切れました。何を言っているのかとう話です。「競技優先」で学校生活を行っていくと話をしてきました。考えないといけません。

その後、「今後の予定を教えてほしい」と別の者に言われる。うーん、どうなんでしょうか。基本的に「通常通りに練習をする」と話してきました。予定を把握する必要はないと思っています。「通常通り」です。特別な日程変更を行うときには話をします。しかし、それがないということは文化祭があろうがなかろうが「通常通り」が普通です。かなり激怒しました。流れがありますから必要以上に頭に来たというのもあったとは思いますが。

ここに始まったことではありません。これまでの積み重ねです。1週間目の日誌の未提出の件も同様。部活の中のルールとして「当たり前」としていることが「当たり前」ではないというのは大きな問題です。「日誌は毎日出す」というのが約束。それが慌てていたので忘れていた。良く確認すると1年生から「提出しなくていいのか?」と聞かれた者が「他の人に聞かないと分からない」と返答。ありえません。何から何まで他人任せとなっている状況で本当に部活動をする意味があるのか。

こういう様子を見ていて情けなくなりました。これまでやってきたことは何だったのか?大切なことはほとんど伝わっていないではないか。そう考えると「競技以前の問題」をもう少し考えさせる必要があると感じていました。練習どころではありません。「もう指導する意味がない」と話をしました。私が指導する必要が本当にあるのか?基本的なルールを守る、練習場所に集まる時間以外の生活をきちんとするというのが大事だと考えてきました。こういう意味ではかなり厳しい指導なのでしょうか(普通だと思っていますが)。

あまりにも激怒していたのでかなり話をしました。人間というのはエネルギーの総量が決まっていると思っています。おしゃれをしたい、友達と遊びたい、ゲームをしたい、勉強もしなければいけない。そして「インターハイに行く」という大きな目標を掲げている。それは無理だと思います。10あるエネルギーを全てに均等に使うのであればほんの少ししか競技には使えません。「文化祭の準備」をするなと言っているわけではありません。与えられた時間内でやればいい。放課後は「練習の時間」です。そう決めて取り組んできたと思っています。

本当にこれから先、「インターハイで戦いたい」と思うのであれば周囲に流されたり、目の前にある「一時的な楽しさ」に惑わされていはいけないと思います。「指導はしたくない」とかなりしつこく言いました。もっと厳しい言い方で。「競技の指導」をするための部活動に行っています。ここ最近それ以外の指導が多くなりすぎている。部活動の時間と日常生活の結びつきが選手の中に見られません。これでは「サークル」です。ここを変えなければいけない。これで変わらなければ「私が指導する意味は0」という判断です。

選手の中に指導に対する不平不満はあるでしょう。私の言葉の裏を読むことができるかどうかというと難しかったかもしれません。「先生に見捨てられた」と感じたものが大半だったと思います。ここは私の「甘さ」ですね。もっと分かりやすく話せばよかった・・・。そのため数日間の時間を要しました。本質的な部分が伝わらないのであれば話をする意味さえないですからね。

真剣に考えたいと思います。勝負をするのであればそれに見合う覚悟が必要。それができないようであればどちらにしても「インターハイで戦う」というのは夢のまた夢。伝わらないのであれば「本当に指導しない」と考えていた部分はあります。

かなりしんどい日々でした・・・。私以上に選手はしんどかったか?ここは分かりませんが・・・。
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・・・

2013-11-15 | 陸上競技
ここ数週間、正確に言うと3か月間色々と考えることがありました。自分自身の中で上手く処理できない部分があるのですが少しだけ自分自身について考えてみたいという気持ちになっています。

「熱意」という部分だけでこれまで活動をしてきた気がしています。特別優れた能力があるわけでもなく、偉くなりたいという上昇志向があるわけでもない。普通の人間で平凡に生きている。しかし、「誰かのために」という部分がかなりあってそれが自分の中から湧き出してくる。それがあるから動き続けることができる。その「熱意」だけは他の人には負けないなと思っていました。そこが尽きることはないと勝手に思い込んでいました。

が、気が付くとそこまでのエネルギーが自分の中に存在していなかった。考えてみると「担任」「科長」「総合実践」「部活」という大きな部分を担っていてそれをやらないといけない。一つ一つが楽なことではない。それを一気にやり続けていたら自分の中に「エネルギー」が残っていなかった。疲れているのかもしれません。ここは良くわからないのですが。

それもかなり尽きている感じがしています。普通であれば何でもないことであってもここ数日間感じてblogに書いていたようなことが自分の中で大きな疑問として残る。この状態で全力で物事に取り組めるのかという部分は自分自身でも分かりません。というかそこまでできる自信はほとんどない気がしています。

実は文化祭直前です。どこまで自分を突き動かすことができるでしょうか。なんとかしなければ・・・。
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エネルギーが尽きる

2013-11-14 | 陸上競技
数日前、エネルギーが切れかけて全てを投げ出したくなった。何だか分からないんですけどね。エネルギーが溢れているのだけが私の唯一の長所だと思っていたのに・・・。

あまりにもヤバイと感じたので数人に連絡を取ってみました。素直に話ができるように人はそれほど多くないので本当に数人。その様子を感じたこの春卒業した子達がメールをくれて何とか頑張れるかもしれないって気持ちになった。多くの人に支えられてるって事に大きな感謝の気持ちで一杯になった。だから動き続けないといけないって。

人から与えられたエネルギーを利用しながらやっていこうと感じていました。こういう状態だからいつもならどうってことないかもしれないことでも、結構大きく感じられてしまう。ちょっと疲れてるのかな。

前みたいに自分の中から出てくるエネルギーを感じる事が出来ない。危機的な状況だと自覚しています。何があったとかではなくです。鬱にはならないと思っているので大丈夫だとは思いますがやはりしんどいですね。

私一人の中にあるエネルギーをあまりにも多くの事に使い過ぎているのかもしれません。自分を動かすエネルギーが尽きている。どうなんでしょうか。書きながら自己分析をしていきたいとは思うのですが、blogに書く内容ではないですね。

完全にエネルギーが尽きています。申し訳ありません。
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求めるモノの水準・・・

2013-11-12 | 陸上競技
これまでと同じ。これで本当に面白いか?ここ最近は「もっと上に」という気持ちが私自身の中にあります。少しずつ上に進みたい。しかし、簡単にはいかない。そこでもがき苦しむという感覚がある。私自身の感覚は「上に」「前に」という部分が強くある。しかし、毎年毎年選手は変わりまたスタートラインに戻る。この繰り返しです。

上級生からきちんと伝わっていけば階段を昇るように少しずつ高いところから始まるのかもしれません。これがなかなか上手くいかない。チームが新しくなればまた1から話をしていかなければいけない。当然と言えば当然です。しかし、この「作業」に使うエネルギーというのは本当に大きい。サプリメントの摂取の確認、練習日誌の確認、自分でケアをすることの確認、終了後のプロテインの摂取、日常生活での服装の確認・・・という部分は「自分たちのためである」という自覚を持ってもらいたい。それを毎回毎回私が確認するという「水準」で活動をするというのが正直「どうなのかな」と葛藤がありました。

目指すモノがどこなのか?私だけが本気で「もっと上に」と思ったとしてもそれは独りよがりであり、「推し進める」というだけで終わってしまう。最終的に「自分たちが目指したもの」という部分ではなく「顧問にやらされた」という感覚が残るとこれは本当に面白くないなと感じました。本当に戦うのは誰なのか?顧問が必死になったところで実際に走るのは選手自身。「強くなりたい」と貪欲に取り組んでこそ意味があるのではないかと感じています。

これが「出来たばかりのチーム」であれば違うのかもしれません。以前は私がとにかく「インターハイに行くんだ」という気持ちを前面に出して練習をしていました。それに選手が乗っかっている。自然に自分たちの目標へと変わっていました。最終的には私が云々言わなくても自分たちでその目標に向かって進み始める。このときは私がブレーキをかけないといけないくらいの意識レベルに上がっていました。そのブレーキをかけることができず大切な場面で怪我をさせてしまった・・・。意識レベルが高まれば自分たちでどこまででも進める。

指導者はその姿を見て練習の増減を図ったり、選手の「やりすぎ」を止めるという役割を果たす。もちろん技術的なことも少しずつ修正していきながら前に進む。こういう指導スタイルが理想だと感じています。本当にこのようなスタイルで指導できるチームがどれくらいあるのかは大きな疑問ですが・・・。

「必死になる」という部分から全ては始まると思います。「怒られるからやったふりをする」とか「練習がきついから手を抜く」という感覚で練習をするというのはやはり今私が求めているモノとは大きく違っている。もちろん「理想論」であることは分かっています。それでも目指すところに向かっていきたい。なかなか思うように進まない現状があってその中で自分自身が何をするのか、何を求められているのかというのを考えるようになりました。

「強くなりたい」というのは誰なのか?持っている力を最大限に引き出すためにはそれなりの「覚悟」が必要となるのです。また、「自分自身のため」という感覚が必要。「強くなりたい」という気持ちがあっても「そのためなら何でもやる」「強くなるために我慢する」ということができなければやはり前には進めない。「想い」と「行動」が一致しなければ何も変わらない。そこを変えるために様々な話をしていく。これが伝わらない限りは同じことを繰り返す。

今の選手達、以前に比べるとかなりやれるようになってきていると思います。しかし、本当にその水準が「目指すレベル」のものなのか?そう考えると足りないのではないかかという気はしています。「インターハイに行けたらいいな」くらいであれば多分私は必要ないと感じています。それなりに練習を積んでいけば可能性はあるからです。「行けたらいいな」で終わるのであれば行けなくても「あー行けなかった」で終わる。「良く頑張ったね」で・・・。結局は「本当に目指すところがあるか」だと思います。「絶対に行きたい」「準決勝に進む」「決勝に残る」という大きな「覚悟」があるのであればそれなりの指導が必要になる。

私の中に大きな葛藤がある。目指すところはどこなのか?選手は「一生懸命に取り組む」ことができているのかもしれません。しかし、その「一生懸命」の水準が本当に今のままでいいのか?どこを目指すのか?ここが曖昧なままで指導することに意味がるのか?真剣に考えています。

特別何か大きなことがあったわけではありません。自分自身の中で「葛藤」があるだけです。選手は戸惑うかもしれません。これが「教育的」に良いことか悪いことか・・・。しかし、私自身の「個」という意味では考える必要があると思っています。本当に目指すものが何か?そのために何をするべきか?今このチームに私の「やるべきこと」が存在するのか?真面目に考えています。

どこの水準まで求めることができるのか。そこが全てだと感じています。考えものです。
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