kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

いちおう

2019-07-08 | 陸上競技
一応生きています。倒れてはいません。
 
各方面にかなりの心配をかけている様子。申し訳ないです。実際問題かなりです。blogには到底書き記すことができないことが波のように押し寄せてきます。
 
生きています。生存報告だけしておきます。
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自分を指す

2019-07-04 | 陸上競技
思うことを。
 
あまり前向きな記事にはなっていません。
 
考えながら以前書いた記事を思い出しました。
 
 
2008年。10年以上前に書いた内容です。自分を指す、
このことに対しての想いが強くあります。人は何かがあれば「周りが悪い」と思います。自分は一生懸命にやりたいのに周りが悪いからできない。自分はきちんとやっているのに周りがやらないから自分まで指摘される。客観的に見れば「いや、あなたもやってないよ」と思われていても「自分は悪くない」という視点から考えるので「絶対的に正しい」という考えから脱することができない。
 
その話を聞いた人は「そんなにやっているのにきちんとできないのは可哀想」と判断をする。ある一方の話だけを聞いてそれを評価するので偏った意見だけで判断をすることになる。決していいことではない。「悪いのは自分ではない」という部分からスタートしているのでこれから先もその視点からは抜け出せない。
 
こうやってblogを書く。これは私の一方的な視点からの内容でしかない。本当に正しいかどうかは常に分からない。自分に都合のいいように書けば味方をしてくれる人が増えるかもしれない。基本的に「孤独」だと思っているので味方を増やそうとは思っていない。私の取り組みが「正義」だとは思っていない。自分自身の視点から取り組んでいるのでそこに大きな偏りが存在するのは昔から分かっている。私の考え方を理解してくれる人はきっとこの世には存在しない
 
だからこそこうやって無駄かもしれないblogを書き続けている。何の意味があるのか全く分からない。それでも書き続けるという事に少なからず価値があると考えている。なんの取り柄もない人間がこうやって日々の生活の中で苦悩しながら細々と生きている。全てが前向きで楽しい生活を送っているという方が見ていて楽しいのかもしれない。blogなどはその方がいいのかなとは思う。
 
が、現実はそんなに簡単なものではない。大半の人は面白くない生活を送っている。毎日がハッピーで楽しくて仕方ないという人はほぼ存在しない。私は生き難いタイプだと思っている。生活の中で「キツいな」と思う事が多すぎるので。きっと他の人が「どうでもいい」と思う事であっても私は「なんだ?!」と感じてしまう。その問題点をなんとか解決したいと思ってしまう。それにより自分自身も生き難いし、周りも「そこまでやらなくても」と感じる。結局誰も幸せにはならないのかもしれないなと思う。
 
教育とは何か。そこに関しては考えさせられる。自分自身が周囲から認めてもらうために生徒を利用するつもりは全くない。それぞれの力を伸ばすために必要な事はする。が、最終的には「必要と思ってやるかどうか」でしかない。同じことを言い続けていても本人たちが「自分には関係ない」とか「もう分かっている」と感じられるのであれば何をやっても互いに苦痛にしかならない。
 
「楽しく適当にやりたい」と言われる。大半の人はそうなのかもしれない。「陸上競技の練習」をやりたいのであって集団行動や周囲に気を使うことをやりたいわけではない。やりたい練習はやるがやりたくない練習を嫌々やりたくない。そう思っている人に私が何を伝える事ができるのか。基本的に「自分は正しい」と思っているので何を言っても伝わらない。それは互いにとって不幸なのかもしれない。
 
歳を重ねてきたからそう感じるのかもしれない。きちんとした事をしていかなければ今後の世の中はどうなっていくのだろうか。そういう懸念を持っている。しかし、こんなにちっぽけな人間が何を思っても世の中は変わらない。何言ってるの??という感じで終わってしまうのだと思う。
 
無力で無価値な存在。どれだけ立派なことをblogに書いたとしても現状は何も変わっていない。改善どころか改悪なのではないか。そう感じる部分が数え切れないくらいある。考えずにその場をしのぐ活動を続けていればそれはそれで成り立つのかもしれない。教育として良いか悪いかは別にして現実はそんな環境の中で活動をしている。
 
きっと悪いのは私だろうなと感じている。自分を指す。環境に適応できない自分の存在が悪いのかなと。人の痛みがわかる人間を育てたいなと感じてやってきた。しかし、結果的にはその真逆に近い状況になる。これはどうなのか。何を変えればより良いモノができるのか。見えてこない。
 
考えさせられる。
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どれだけか

2019-07-04 | 陸上競技
またも更新するエネルギーを失っていました。何をやろうとしているのかよく分からない。しんどいですね。
 
土曜まで遡ります。土曜、「勉強を教えて欲しい」という申し出が事前にありました。金曜日の方が効率はいいと思っていたのですが校内出張のために放課後まで時間が確保できず。その旨伝えて土曜にしました。わざわざ学校に来るので少し練習をしてから勉強をすることに。これは問題ないと思います。
 
練習終了して図書室を開けて勉強会。が、最初に申し出ていた者が来ません。何人かは来ていましたが来ない者が。何をしているのかと思ってれんらくをとると「勉強道具を忘れたから帰った」「体調悪いから帰った」との返事。呆れてモノが言えないというか許しがたいなという感覚がありました。
 
放課後に勉強を教えるのは完全にサービスです。別に義務付けられているわけではない。今回は「教えて欲しい」と言われていたのでそれに合わせて予定を立てました。私から「教えましょうか?」と言ったわけではない。当初の予定とは変わりました。仕事があるのでそちらが優先ですが。その代わり次の日に時間を作って対応するという部分。
 
日程が変わったので予定が合わずに勉強会ができないというのはあり得る話です。しかし、そうであれば一言言うべきではないか。何人かが来て勉強会をするのでそれで私は役割があるからそれでいい。そんな考え方であればあまりにも失礼ではないか。それもチームの中心になっていかなければいけない者達がこれだけ失礼な態度をとる。失望しました。
 
表現が悪いと指摘されるのかもしれません。全てに対して優しく温かく対応することを求められる職務なのかもしれない。個人としての感情を全て捨て去ってひたすらサービスを提供することを義務付けられる。休みの日だろうが求められたら自己犠牲をして「教える」ことが当然のように求められる。そうであればもう辞めたいなと本気で感じています。
 
感謝の気持ち。こんなものを求めるというのは適切ではないのかもしれない。感謝されるためにやっているわけではない。しかし、あまりにも失礼すぎないか。度がすぎないか。やってもらうことが当たり前ではない。練習計画を立てるのが当たり前ではない。そのことは繰り返し言ってきました。自分達は注意をされないから関係ないと思っていたのかもしれません。自分達のこととして捉えていない。だからこんな話になる。
 
人それぞれに言い分はあるのでしょう。私の書いていることが正義だとは思いません。だとしても物事には最低限の「礼儀」が存在すべきではないか。これまでもずっと我慢して耐え続けてきました。こちらが大切だと思うことは何度も伝えている。それでもこんな感じの対応をされる。何も言わないで帰った理由は「良いかなと思って」とのこと。愕然としました。
 
教育は無意味。そう感じさえする出来事でした。私の指導自体が間違っていたということだと思います。やってもらって当たり前。勉強を教えてもらって当たり前。自分の事が最優先。そういう部分が大きすぎる。競技をやりたいという部分はそれなりに感じていたので県総体以降「なんとかしてやりたい」という気持ちが私の中で唯一の支えでした。その糸が切れる感覚かあります。それでも「やるのが当たり前」と批判されるのかもしれない。今の世の中がそういう風潮だから。自分の思い通りのサービスを受けられなければ不満をぶちまけるというのが当然のようにまかり通る。そんな風潮。
 
私もその一人なのかもしれない。何かをやろうとして思い通りにならないから不平不満を外に出しているだけ。本当は私が「悪」であって周りが正しいのかもしれない。そう考えるとほぼ意味が見出せなくなる。
 
疲れました。本当に。謝ればそれで済むのか。謝れば練習に参加できるからそれでいいのか。そうであればもうやる意味は私には見出せないなと感じます。
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試練

2019-07-02 | 陸上競技
どこまで耐えればいいのか。
 
心からそう思います。全てを我慢して耐えて耐えていればそれで時間が過ぎる。そこに意味があるのか。
 
全てにおいて「無意味」だと感じることが増えています。先日から書いている内容に輪をかけて許容できないことが出てくる。
 
ここまできたら私が悪いんだろうなと思います。全てを見て見ぬ振りをして流しておいたら問題はないのだと。それができないから苦痛を感じるのだと思います。
 
私の存在は空気並みだと思います。そうだというのを自分自身受け入れなければいけない。
 
まーもういいです。疲れました。
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なんでもありか...

2019-07-01 | 陸上競技
この数ヶ月、教育というもののあり方について考えさせられています。この歳になって今更かという気はしますが。基本的に色眼鏡で人を見ないように心がけています。変な先入観は持たないようにしたい。
 
ネットニュースになるこのような記事が出ていました。
 
 
応援歌の歌詞の中に「お前」という表現がある。それを子どもの前で呼ぶのはどうなのか。そういう価値観の中でモノを見ると「言葉遣いが悪い」ということになるのかもしれません。うーん。
 
この記事を呼んでかなり前のことを思い出しました。県合宿で話をしているときに無意識に「お前達は」はもいう表現をしたようです。それから数ヶ月経過して「あの時の表現はどうなのか」と電話で指摘されました。もう記憶にさえないことでした。一応「気をつけます」と応えましたが。
 
小学校などでは児童の名字を呼び捨てにしないというのがあると聞いたことがあります。「○○さん」と男女関係なく呼ぶように統一しようとか。時代の流れなのかもしれないですね。こうなったら注意するとか反省を促すなんてことをしようものなら吊し上げられるのでしょうね。
 
何故、うちの子を注意したのか。一生懸命やっていたではないか。悪気はなかったのに。魔がさしただけじゃないか。何とでも言えると思います。そうやって学校生活を送った子供達はさらに輪をかけて「自分達は何でもやれる」という感覚になる。
 
今のご時世、何かをすれば「○○ハラスメント」と言われます。周りが見てなんとも思わなくても本人が「そう感じた」といえばそれが「ハラスメント」として認識される。教育実習生が来たとしても注意することさえ危うい。
 
教育実習では授業参観をします。他の先生方が授業をしている様子を見て自分が行う研究事業に生かす。見ることは勉強になる。しかし、授業の開始直前に「見に行ってもいいか?」というのは失礼かなと思います。今回はいいけど次からは気をつけないとね、という話を諭しながらする。が、次も直前で言う。前に言ったよね?!と強く言うとそれが苦になって学校に来なくなる危険性がある。そうなると悪いのは注意した方になる。
 
GW明けにニュースで「退職届代行業務」が流行っていると言っていました。仕事を辞めるのだが自分では言いにくいのでお金を払って「代行業」に頼む。職場には挨拶もせずに仕事を辞めるというもの。もうなんでもありだなと感じました。厳しく言ったらそっちが悪いみたいな話になる。
 
正直疲れました。こんな中で何を伝えるのか。本人から保護者から周りから何も言われないようにする。そのためには本当に見て見ぬ振りをしていくのが1番。諭すというか「気をつけて」というだけで終わるのかもしれない。「提出期限に書類を提出しなかったら取りに帰らせる」と指導することがあります。本当に取りに帰らせます。しかし、この手の指導も「忘れたんだから仕方ないじゃないか」「べつに次の日でも良いじゃないか」と言い出したらそれで終わりかもしれない。
 
何をやってるんだろうか。今の仕事に本当に価値はあるのだろうか。見失いそうになります。
 
ノイジーマイノリティ。何でも言った者勝ちになる。それでこれから先世の中が回るなら私のような存在は「害悪」にしかならないのでしょう。
 
何をやっているのか。よく分かりません。
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