少し思うことを。
「各自で練習を」という指示を出した。これは前の記事にも書いたが「理解しているかどうか」によってその意味合いは大きく変わってくる。物事に対してはほとんどがこの部分が影響すると思う。何かをやるにあたって「何のためにやっているのか」が分からなければその効果は著しく低くなる。とはいっても大半は「流れ」でやっているのでわからないことが多くなるのだが。
自分が現役時代のこと。やりたいな思う練習がある。しかし、全体に合わせてやらなければいけない内容も多く効率が悪い部分がたくさんあった。当時は「量」を追うことが自分の中で多くあった。これも非効率的な練習だったと思う。今の考え方の中で競技ができていたらもう少し違った結果になっていたと思う。集団で練習をすることも多くなる。そうなると「これはやっておきたいな」と思うメニューができない。当然の話。指導者がいない中での練習が当たり前だったので「一律のメニュー」の中で実施していることが多かった。
当時、他校にライバルがいた。その選手は大学1年生のときから実績を出していた。少しずつ追いついて大学4年生のときにはなんとか勝つことができるようになっていた。私は大学院でもう2年競技を続けたがライバルであった彼はそのまま教員になっていた。実際に私が教員になって数年後、初めて国体にコーチとして参加した秋田国体。ライバルだった彼は「競技者」として参加していた。教員になってからも競技を続けて学生時代から1秒以上も記録を伸ばしていた。国体のときにその理由を聞くと「自分でやりたい練習ができるようになった」ことが一番の要因だと話していた。学生時代は「合わせる」ことが求められる。今は自分の思うように練習を組み立てられるのでそれが結果につながっているのだと。
正直、うらやましいなと思った。私は「完全燃焼」で競技を終えたわけではない。400mHに出場したいと思っていたが「日本選手権リレー」と重なっていて最後は400mHを走っていない。明確な「終わり」を迎える前にいつのまにか引退してしまったという感覚がある。「リレー」か「個人」か。これも非常に難しくなる。このときに「集団」と「個」についてかなり考えた。どちらも大切。どちらか一方ができればいいという話ではない。
少しだけ練習について触れるようになっています。特別気持ちが前向きになっているというわけではないのですが。ある程度、まとめておかないと後で見直したときに今考えていることを忘れてしまいそうなので。感覚やアイディアはメモをしておきたい。全てが競技に繋がっているかどうかは分かりませんが。
基本的に競技について考えるのは好きです。ここ数か月、年間購読で注文している陸上関係の雑誌は袋から出ていません。それはどうなのかという話ですが。競技について考えるのは好きなのですがそれが今の状況にどのようにマッチングするか。イメージする動きが本当に意味があるのかどうかを考えるというのも必要だと思っています。陸上競技が好きなのか「突き詰めて考えること」が好きなのかはちょっとわかりにくくなっています。自分の中でよくわからない。
細かく考えずに練習をしてもそれなりに走れるようになると思います。やっている間に「筋力」も上がるでしょうし、基礎体力も向上していく。それにより気が付けば走れるようになる。しかし、それが「効率的かどうか」は別です。エネルギー効率から考えていくことで「前に進むためには何が必要か」は理解する必要があると思います。
この数か月間の最大の課題は「競技に対しての理解が不足する」という部分でした。根本的に「速く走ることに興味があるのかどうか」という根本的なところから見直さなければいけない。何度も書いていますが「お腹が空いていない」者に「美味しい料理」を提供しても「食べる」という行動にはつながらないのです。「速く走りたい」と思っていない者に「これをやったら力が上がる」と言っても実施する意味がなくなっていきます。
中学時代は「成長」の過程で自然に走れるようになっていきます。中学1年生の時に14秒台だった男子が3年生になったときには12秒台になる。指導によって2秒も伸びたとみることもできますが、実際は身長の伸びであったり身体が自然にできてきて走れるようになる。技術的な変化とは全く別問題だと思っています。ある一定水準に達した高校生は「成長」による記録の伸びは期待できません。「早熟型」というのはそういう部分です。ほかの選手よりも成長が早いので結果が出ている。ある時期から記録が伸びなくなる。それは「成長」が止まっているからです。
だからこそ「技術に対する理解」は必要だと思っています。何のためにその練習をやっているのか。やることで何が変わるのか。その動きができることで走り自体がどのように変化するのか。こういった部分が分かってくる。理論的に分かるようになると走れるようになってくると思っています。もちろん、そこには「感覚の変化」も必要になってきます。練習をやっている間に「身体感覚」が変わっていかなければいけないからです。
膝締め歩行をする。見ていると「全く何も考えずに足だけを上げている」という姿が見られます。周りがやっているから同じようの動きをしておけばいいかなという感じです。なぜ「膝を締める」という感覚が必要なのか。それが分かっていなければ多分意味はなくなります。道具を使って強制的に動きを作ることもあります。これも「タイミング」や「力の入れ方」が違っていれば効果は全く違います。
水曜日に「ハムストリングの補強」を少しやりました。地面に力を加えて腰を浮かすという動きです。ペアワークなので軸足をペアの選手が持っています。その時に「足を上げて勢いで腰を浮かせる」者がいます。本来であれば「地面を押して腰を浮かす」ことが狙いです。ハムストリングに負荷をかけたいので。それが「腰を浮かす」ことができればそれでいいと思って練習をしている。効果が全く違います。ハムストリングが進展しながら力を発揮する。そこにこの練習の狙いがあります。しかし、足を上げる勢いで腰を浮かせると多分どこにも負荷はかかりません。結局はこういう部分の積み重ねだと思っています。
「練習をしているのだから」と感じるかもしれません。これは仲の良い指導者によく言われるのですが「放っておけばいい」というところです。正確な練習をするほうが良い。そう思ってしつこく言いますが結局は何も変わらない。上述のように「速く走りたい」と思っていないのにそこまで考えて練習をする必要性がないからです。周囲がどれだけ「こうやってやったほうがいい」と言っても当の本人が「別にいい」と思っているのですからどれだけ必死に伝えようとしても伝わらない。
この歳になって青くさいことを言っているのは分かっています。本来であれば「全員が本気で取り組む」という姿勢の中でやっていきたい。理想論かもしれません。実際はそこまで必要とされていない。そうであれば必死になって「やっていることの意味」を伝え続ける必要はないのかもしれない。もちろん、「速くなりたい」と思ってやっている選手もたくさんいます。そこに対してはきちんとアプローチしていきたいと思っています。一つの方法では上手くできない可能性があるので様々な方法を考えながら自分に合った動きを身につけさせる。
比較的引き出しは多いほうだと思います。練習パターンが多いというのはそれだけ現場で選手を見てきて「こっちのほうが良いかも」と感じてきたからだと自負しています。あれこれやりすぎて感覚が狂うというのもあるのかもしれませんが、本質的な部分は全く変えていません。目指す動きがあってそれを身につけるための方法が幾つもあるというだけです。飽きさせないようにというのもありますが「いろいろな角度からのアプローチ」によって「やりたい動き」が身に付くのではないかと考えています。
うーん。またもまとまりがない内容になっています。自分自身の整理ができていないのかもしれません。直接的な表現を避けながら書いていくというのは非常に難しい。言葉を選びながらですから。
記録として残しておきます。