kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

絶...

2019-07-17 | 陸上競技
前の記事にも少し書きましたが、かなり余裕のない生活をしていました。
 
それにより口の周りに発疹のようなモノができてしまいました。ヘルペスかなと思いながらも少し違うようです。間違いなく極度のストレスと疲労感によるものだと自負しています。
 
気がつけばほぼ休んでいない。月曜日に休みなく審判を炎天下の中でやった上に野球応援で数時間日光に当たったことも影響していると思います。抵抗力が明らかに低下しています。
 
絶不調としか言いようがないレベルの体調です。情けないことですが。気力を振り絞って少し動きましたが限界値が来ました。あまりにも口の周りが荒れすぎて髭も剃れない状態。
 
ここまでして何かをやるという必要性があるのかどうか。午前中授業だったので職場に行きました。4時間のうち3時間が授業だったので残ったエネルギーを注ぎ込んで授業をしました。練習日誌にコメントを書いて練習計画を立てる。
 
この段階で本当に限界が来たので帰ることに。blog更新するエネルギーは最低限のレベルで。現状を記録しておくことは必要だと思います。
 
かなりキツい。それだけは確かです。年齢的なものもあるのでしょうか。これまでのように無理はできないのかもしれません。「命」についても考えさせられてきます。まだ倒れるには早いのではないかと思ってはいます。
 
記録だけしておきます。かなり...です。情けない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余裕なく

2019-07-16 | 陸上競技
blogを書くまでにたどり着けず。
 
金曜日、娘から呼び出された練習後に迎えにいく。久々に一緒に食事を。実家で焼肉を食べにいくことに。私の母親と一緒に。バタバタ。
 
土曜日はその流れで朝は練習。そのまま荷物を取りに帰って再び職場まで戻る。娘を連れて下宿に行き流れの中で長距離のレースを見る。結局遅くなる。
 
日曜日朝から記録会。天気も悪くあれこれやる。気がつけば2万歩歩いていた。夜は親しい指導者と人生について考える。
 
月曜日、この日も朝から記録会。結構な疲労度。暑いしあれこれあるし。炎天下の中でほぼ働き詰め。途中からは役員が激減し13時から試合終了まで休むことなく働き続ける。ブラック。そして私もかなり日に焼けてブラック。
 
あまりの疲労度に帰って速攻で寝る。
 
火曜日、野球応援。これも炎天下引率。延長12回、惜敗。
 
結構な肉体状況だと思います。精神的にもかなり。自分で「鬱になる」と思っている間は大丈夫だと思ってるのでなんとか大丈夫です。
 
言葉に尽くせないくらいのダメージを受けています。事実は小説より奇なり。本が数冊くらい書けるレベルの経験をしています。なかなか経験できない部分です。
 
自分を保てるようにしていきたいと思います。自分を保ちます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理解すること

2019-07-13 | 陸上競技

少し思うことを。

 

「各自で練習を」という指示を出した。これは前の記事にも書いたが「理解しているかどうか」によってその意味合いは大きく変わってくる。物事に対してはほとんどがこの部分が影響すると思う。何かをやるにあたって「何のためにやっているのか」が分からなければその効果は著しく低くなる。とはいっても大半は「流れ」でやっているのでわからないことが多くなるのだが。

 

自分が現役時代のこと。やりたいな思う練習がある。しかし、全体に合わせてやらなければいけない内容も多く効率が悪い部分がたくさんあった。当時は「量」を追うことが自分の中で多くあった。これも非効率的な練習だったと思う。今の考え方の中で競技ができていたらもう少し違った結果になっていたと思う。集団で練習をすることも多くなる。そうなると「これはやっておきたいな」と思うメニューができない。当然の話。指導者がいない中での練習が当たり前だったので「一律のメニュー」の中で実施していることが多かった。

 

当時、他校にライバルがいた。その選手は大学1年生のときから実績を出していた。少しずつ追いついて大学4年生のときにはなんとか勝つことができるようになっていた。私は大学院でもう2年競技を続けたがライバルであった彼はそのまま教員になっていた。実際に私が教員になって数年後、初めて国体にコーチとして参加した秋田国体。ライバルだった彼は「競技者」として参加していた。教員になってからも競技を続けて学生時代から1秒以上も記録を伸ばしていた。国体のときにその理由を聞くと「自分でやりたい練習ができるようになった」ことが一番の要因だと話していた。学生時代は「合わせる」ことが求められる。今は自分の思うように練習を組み立てられるのでそれが結果につながっているのだと。

 

正直、うらやましいなと思った。私は「完全燃焼」で競技を終えたわけではない。400mHに出場したいと思っていたが「日本選手権リレー」と重なっていて最後は400mHを走っていない。明確な「終わり」を迎える前にいつのまにか引退してしまったという感覚がある。「リレー」か「個人」か。これも非常に難しくなる。このときに「集団」と「個」についてかなり考えた。どちらも大切。どちらか一方ができればいいという話ではない。

 
今、練習はメニューを提供してそれに従って実施している。本来であればある程度「自由度」があるほうがいいと思う。一律のメニューよりもそれぞれに必要な練習をするほうが感覚的に良くなる可能性がある。そこには良し悪しがある。理由は明確。「理解度の差」があるから。自由度を与えるというのは「考える」という意味では本当に大切。しかし、それは一定水準の理解があるという前提があって初めて成り立つ。
 
「やるだけ」の選手にとっては「フリー練習」は本当にフリーでしかない。やらなくて済むという意味でのフリー。二日間、意図的に「フリー」の時間割与えたが「膝締め歩行みたいなこと」をひたすらやっている者も。これに関してはフリーにすることによって本当にフリーになる。必要なことが何か。何をするべきかを考えることができない状態でやっているのであればその時間は有益ではない。
 
理解する。与えられるのが当たり前になっていると「考えること」を放棄してしまうのではないかなという気もする。もちろんその前提が「速くなりたい」という想いがあるかどうかだが。本当に強くなりたいと思う者に合わせるならある程度「考えてやる」という時間も必要かなと感じている。結局はどこに合わせるのかになるのだが。
 
感覚的な磨こうとする選手でなければ「フリー練習」の時間は本当に自由に適当にやるだけの時間になってしまう。性格的な「きちんとやりたい」というのがありました。全員がきちんとできる練習を作る。そう思っていましたが今の時代であればもうそれは不可能なんだろうなと感じています。適度にやる者に関してはそれで自分が満足するのであればもうそれで良いかなと。自分のためになにをするか。強制するわけではない。
 
それなりの自信はあります。私自身が練習に関しては理解を深めています。だとしても100人いて100人がきちんとできる指導をするのは不可能だと分かりました。今更ですが。
 
理解する。ここを欲してやってくれる選手であれば必ず結果につながると思います。考えさせる、理解させるという部分はこちらで作り出したいなと。これまでのやり方を改めなければ先には進めないと思います。自分自身も変わらなければいけない。強く感じています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっていることの意味

2019-07-12 | 陸上競技

少しだけ練習について触れるようになっています。特別気持ちが前向きになっているというわけではないのですが。ある程度、まとめておかないと後で見直したときに今考えていることを忘れてしまいそうなので。感覚やアイディアはメモをしておきたい。全てが競技に繋がっているかどうかは分かりませんが。

 

基本的に競技について考えるのは好きです。ここ数か月、年間購読で注文している陸上関係の雑誌は袋から出ていません。それはどうなのかという話ですが。競技について考えるのは好きなのですがそれが今の状況にどのようにマッチングするか。イメージする動きが本当に意味があるのかどうかを考えるというのも必要だと思っています。陸上競技が好きなのか「突き詰めて考えること」が好きなのかはちょっとわかりにくくなっています。自分の中でよくわからない。

 

細かく考えずに練習をしてもそれなりに走れるようになると思います。やっている間に「筋力」も上がるでしょうし、基礎体力も向上していく。それにより気が付けば走れるようになる。しかし、それが「効率的かどうか」は別です。エネルギー効率から考えていくことで「前に進むためには何が必要か」は理解する必要があると思います。

 

この数か月間の最大の課題は「競技に対しての理解が不足する」という部分でした。根本的に「速く走ることに興味があるのかどうか」という根本的なところから見直さなければいけない。何度も書いていますが「お腹が空いていない」者に「美味しい料理」を提供しても「食べる」という行動にはつながらないのです。「速く走りたい」と思っていない者に「これをやったら力が上がる」と言っても実施する意味がなくなっていきます。

 

中学時代は「成長」の過程で自然に走れるようになっていきます。中学1年生の時に14秒台だった男子が3年生になったときには12秒台になる。指導によって2秒も伸びたとみることもできますが、実際は身長の伸びであったり身体が自然にできてきて走れるようになる。技術的な変化とは全く別問題だと思っています。ある一定水準に達した高校生は「成長」による記録の伸びは期待できません。「早熟型」というのはそういう部分です。ほかの選手よりも成長が早いので結果が出ている。ある時期から記録が伸びなくなる。それは「成長」が止まっているからです。

 

だからこそ「技術に対する理解」は必要だと思っています。何のためにその練習をやっているのか。やることで何が変わるのか。その動きができることで走り自体がどのように変化するのか。こういった部分が分かってくる。理論的に分かるようになると走れるようになってくると思っています。もちろん、そこには「感覚の変化」も必要になってきます。練習をやっている間に「身体感覚」が変わっていかなければいけないからです。

 

膝締め歩行をする。見ていると「全く何も考えずに足だけを上げている」という姿が見られます。周りがやっているから同じようの動きをしておけばいいかなという感じです。なぜ「膝を締める」という感覚が必要なのか。それが分かっていなければ多分意味はなくなります。道具を使って強制的に動きを作ることもあります。これも「タイミング」や「力の入れ方」が違っていれば効果は全く違います。

 

水曜日に「ハムストリングの補強」を少しやりました。地面に力を加えて腰を浮かすという動きです。ペアワークなので軸足をペアの選手が持っています。その時に「足を上げて勢いで腰を浮かせる」者がいます。本来であれば「地面を押して腰を浮かす」ことが狙いです。ハムストリングに負荷をかけたいので。それが「腰を浮かす」ことができればそれでいいと思って練習をしている。効果が全く違います。ハムストリングが進展しながら力を発揮する。そこにこの練習の狙いがあります。しかし、足を上げる勢いで腰を浮かせると多分どこにも負荷はかかりません。結局はこういう部分の積み重ねだと思っています。

 

「練習をしているのだから」と感じるかもしれません。これは仲の良い指導者によく言われるのですが「放っておけばいい」というところです。正確な練習をするほうが良い。そう思ってしつこく言いますが結局は何も変わらない。上述のように「速く走りたい」と思っていないのにそこまで考えて練習をする必要性がないからです。周囲がどれだけ「こうやってやったほうがいい」と言っても当の本人が「別にいい」と思っているのですからどれだけ必死に伝えようとしても伝わらない。

 

この歳になって青くさいことを言っているのは分かっています。本来であれば「全員が本気で取り組む」という姿勢の中でやっていきたい。理想論かもしれません。実際はそこまで必要とされていない。そうであれば必死になって「やっていることの意味」を伝え続ける必要はないのかもしれない。もちろん、「速くなりたい」と思ってやっている選手もたくさんいます。そこに対してはきちんとアプローチしていきたいと思っています。一つの方法では上手くできない可能性があるので様々な方法を考えながら自分に合った動きを身につけさせる。

 

比較的引き出しは多いほうだと思います。練習パターンが多いというのはそれだけ現場で選手を見てきて「こっちのほうが良いかも」と感じてきたからだと自負しています。あれこれやりすぎて感覚が狂うというのもあるのかもしれませんが、本質的な部分は全く変えていません。目指す動きがあってそれを身につけるための方法が幾つもあるというだけです。飽きさせないようにというのもありますが「いろいろな角度からのアプローチ」によって「やりたい動き」が身に付くのではないかと考えています。

 

うーん。またもまとまりがない内容になっています。自分自身の整理ができていないのかもしれません。直接的な表現を避けながら書いていくというのは非常に難しい。言葉を選びながらですから。

 

記録として残しておきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迷路をつくる

2019-07-12 | 陸上競技
木曜日に学内メインの文化祭のようなものが実施されました。1年生は展示がメインという形になっていて、テスト終了後から1週間かけて少しずつ準備。月曜日まで授業があったのでそれ以後、教室に迷路を作るということに。
 
基本的に生徒に任せるようにしています。自分達で考えて自分達で何かをする。準備も役割分担も自分達でやらせむす。当然の話だとは思いますが。もちろん必要があれば手を貸します。迷路をダンポールで作るということだったので市内各地でダンボールをもらって回りました。これは私しかできないかなと。他の部分は任せる。
 
迷路を作る者、写真スポットを作る者、クラスの旗を作る者。大まかに分かれてあとはそれぞれの仕事が終わってから手伝うという形でした。それぞれグループが作られていました。
 
今更ながらもう少し写真を撮っておけばよかったなと思います。作成中の生徒たちの写真は撮っていたのですが完成物などはほとんど撮影していない。毎回のことですが勿体無かったなと。こういうものは最終的に破壊されます。ずっと置き続けることはできないので。
 
写真スポットを作るというテーマも同時に存在していました。大きな段ボールを使う部分とお花紙を使って装飾する部分。気がついたら折り紙などでハートを作ったりしていました。やる事は沢山あったのでヒマを持て余すということはなかった気はします。付きっ切りで見ていたわけではないので細かい部分は分かりませんが。
 
何もしないで終わるよりはバタバタでも何かやっている方が面白いと思います。ある程度完成してからは迷路に落書きを始めていましたが(笑)。迷路なのか落書きなのか分からなくなる。更には簡単にゴールしかけていたのでアスレチックのように変更。当日の朝は風船を膨らませていました。最後まであれこれやっていたので良いかなと。
 
やるからには時間を有効に使うべきだと思います。面倒だという生徒も多いと思いますが、世の中の大半は面倒です。やりたくないことをやることの方が圧倒的に多い。こうやって同年代の仲間と一緒に何かをやるというのは大切かなと思います。
 
あくまで私はサポート。もっと手伝えと言われるかもしれませんが。口うるさく言わなければいけなくなるので極力任せるようにしています。幸い何人かが中心になって進めてくれていたので助かりました。まだまだ幾つかイベントはあります。自己満足の行為から他者に何かを与えることができる行動に変わっていってくれたらと思います。
 
もう少し想うことはあるのですが抑え気味に書いておきます。加工はしていますが一応写真を少し載せておきます。一応テーマは私の家を探すということになっていました。迷路を出たら家に着くという感じで。コンセプトは果たせたかなと思います。
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

練習の組み立て

2019-07-11 | 陸上競技
気持ちの整理のためにもある程度のことを書き続けておきたいと思います。できれば練習について書いておきたいのですが。
 
先日、練習を途中でやめて帰宅しました。前の記事に書いた内容にも関連します。かなり我慢しながらやっていました。耐え忍ぶ。ここを求められているのでそこに応じて我慢するしかないと感じていました。グッと堪えて。周りから見れば何も我慢していないじゃないかと思われるかもしれませんが。過去最高レベルで我慢していたと思っています。
 
台を使った練習を初めてやったのですが、練習メニューの内容を勝手にやり始める。何を狙いとしてやっているのか。狙いとする部分はどこなのか。練習の流れの中で何を求められているのか。そこが分からないままやっていく意味があるのか。メニューさえ提供すればそれで良いのか。「指導」とは「メニュー準備」なのか。空虚な気持ちがそこにありました。メニューさえあれば私かそこで指導をしなくても関係ないんだろうなと感じたのでメニューを持って帰りました。勤務時間が終わるまで我慢して。
 
帰る途中にgt先生の所に寄る。ストレス発散という感じでしょうか。抱え込んでいたら本当に鬱になるという感覚があります。自分で吐き出さないとやはり上手くいかない。溜め込むと爆発すると思います。自分の人生の時間。辛いなと思うことを我慢し続けるとどこかで糸が切れると思います。だからこそ何とかして発散したい。少しだけ愚痴って帰りました。その時にグチャグチャになったメニューが車の中にあったので一部渡して帰る。
 
その後、LINEが。メニューはよく考えてあるけど今の状態では消化できないだろう?という指摘が。まさにその通りです。やるだけにさえなっていない。こちらが狙いとするメニューはそこまでできていない。何人かにとっては「何をやっているのか分からない」という感じだと思います。
 
本当に速くなろうと思えば、かなり配慮された練習内容になっていると思います。それなりに自信はあります。しかし、それを実施する選手が何を求めているのかによって全く違う成果になると思います。「手をあげるように」と指示を出してとりあえず上げる。見た目は手は上に上がっています。しかし、肩の部分を意識して付け根から上げると先ほどよりも高く手が上がる。そこを体感させることもしてみました。「何をやるか」ではなく「どう意識してやるか」です。形さえ真似できない選手もいますが、何のためにその動きをやるのかを考えない限りは狙いにたどり着くこともできない。
 
走りの中で何を意識するか。軸を作るのは地面からしっかりと反発をもらう姿勢を作るためです。力が逃げるとどれだけ力を地面に加えてもロスが多くなります。それにより推進力に変えることができない。動きの中で体幹を締める感覚は必須。これを感じるために体幹トレーニングをかなりやっています。面白いメニューにはなりませんが。それでも工夫します。
 
その力をどう推進力に変えるのか。これはかなりです。段階的な台ドロップと片足ドロップをやってきました。地面からの力をフォロースイングで前方向に変えるための動き。大きな力を地面に加えるために身体の真下で地面をとらえる。そのタイミングでフォロースイングを前側に送ると。結果、進む。片足だけではホッピングのようになります。これをより走りに繋げていく。だから交互に行う。顕著です。走りが作れない選手は台から降りた時に前接地になります。さらにはフォローが遅れます。ここは見極めやすい部分かなと感じています。
 
「今の状態では消化できないだろう」というのは的を射ている。理由は簡単。狙いとしているところを全く理解していない中でやっているから。やりたい動きとスピード、スプリントに応じて台の位置は変わります。身長があればそれなりに伸ばさなければいけない。男子で一番狭い距離でやっている者がいます。間違いなく「何も考えずにやっている」のです。目に余るレベルでしたがもう何も言わないことにしました。
 
ここで細かい指摘をしても「分かっていない」からです。指摘しても何も変わらないだろうなと感じていたからです。与えられたメニューを消化することだけしかやっていない。何故その練習があって何を狙いとしていて、それをする事で何が変わるのか。それを考えることもない者に何を与えても絶対に変わらないからです。私がやりたいと切に願っている「競技」はここにはない。そう感じる事が重なりました。
 
少し時間を置いて別の活動を全員で観察させました。何をやっているのかを自分たちで見極めろと。実際問題、間違いなく効果はないと思います。きちんとやればそれなりに効果はあるかもしれません。しかし、正確性もなければ狙いもない。数歩やってあとは止める。そんな状態の動きを見て何を感じるのか。ここは大きい。
 
きっとやっている本人たちは「やっている」と思っているのでしょう。まーちょっと酷いなというレベルを大きく超えていたので何も言葉にはできない感じでしたが。「そこまでして速く走りたいとは思わない」という者もいると思います。そうであれば私がどれだけ本気になってメニューを組んでも効果は出ないと思います。
 
更にいえば比較対象が「自分よりやっていない者」であれば「やっていない」というのが分かります。安心感は出てくるでしょう。本当にやらなければいけないことはもっと上にあるとしても、やっていない者を見れば「自分はできている」と感じる。満足してしまうのです。本来やるべきことを100として下の者が50位(実際はもっと低いと感じていますが)やっている。そうであれば70やっている者は「自分はきちんとできている」と感じることになります。相対評価です。本当にやるべきところとの比較ではなくなる。100を目指してやりたいと思っていてもそこにたどり着くことができるか。
 
形だけ似ていても実際やっていることは全く違う。それはやっている本人たちには分からない。もっといえばそこまでして速くなろうという気はないのかもしれない。そこの部分はしっかりと考えなければいけないと思います。これだけの「幅」がある中で何をするか。
 
それでもメニューに関しては「本当に必要なこと」をやっていきたいと思います。このメニューの意味がどれだけ分かるのか。考えようとするのか。それは今は「効果が少ない」かもしれません。本気になって勝負したいと思ってくれる選手にとっては必ずプラスになると思います。方向性に関しては絶対に間違っていないと感じています。それを体現できる選手に出会えたり、選手が育ってくれさえすれば変わると思っています。
 
組み立ては変えないつもりです。すぐに成果が出るかどうかは分かりません。短絡的な結果を求めるのであればウエイトをやって量を増やして対応すればいいのかもしれません。しかし、本当の意味での競技をするためには「理解」が必要になると思っています。理解するのは難しいかもしれない。それでも興味関心を持っている選手にとっては今やっていることはかなら楽しい部分だと感じます。もちろん、それは今の時代には即さないのかもしれませんが。
 
まとまりません。とりあえずやっている事を記しておきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっていることの意味

2019-07-10 | 陸上競技
少し練習について。
 
この数週間、競技について練習について一切触れていない状態です。自分で見直してみると6月29日にスピンバイクでの練習について書いただけ。過去のblogを読み直す気にはなりませんが、ここまで練習について触れなかったのは初めてかもしれません。書く気にならなかったというのもありますし、練習以前の問題でした。途中、本当に今の仕事を辞めたいと思うこともありました。転職するというのはなかなか難しい気はします。それでも本当に本当に今の状態が耐え難いと思う部分が。まー別に私が今の仕事を辞めたとしても陸上競技を離れたとしても「どうでもいい」としか思われないと思います。
 
自分の中で感情を押し殺しながら、沈み込む気持ちを立て直しながらやっていました。blogに書くのは「最小限」にしています。想像を絶するレベルです。過去最高レベルのストレスかもしれません。色々とあるのですが「絶対に自分自身を保ちたい」とは思います。気持ちの意図がある切れてしまう事がないようにしたい。自分が一番危険だと分かっているので。
 
練習。動きに関して考える事があります。そこについては自分の中での残しておきたい。陸上競技から距離を置く日が来るかもしれない。それでも書いておくことで誰かの役に立つかもしれない。そうであればここに書く事の意義はあります。自己満足という部分があるのは分かり切っています。
 
実は県総体以後、段階を追って「走りを作る」という部分を考えていました。スーパーな選手と戦っていくためには「狙いを持った走り」をしたいと思っていたからです。先週の土曜日に学校に来られたmsdさんも言われていたのですが「力があって速い者には勝てない」という厳しい現実があります。うちの選手がどれだけ一生懸命に100%の練習をしたとしてもボルトには勝てない。日本一にはなれない。それだけは確かです。だから「やらない」という選択肢もあります。しかし、それでは面白くない。そうであれば技術的なことをしっかりと身につけて戦える可能性を見出したい。そう考えていました。
 
昨年末、大阪に行きました。この時otk高校で見た練習がありました。この時にこれはスプリントに活かせるなと感じました。感覚的な問題です。跳躍系の練習として位置づけられていたのかなと思いましたが、台を使ったトレーニングの中でこれは間違いなくスプリントに活かせると感じたメニューがありました。それは私が目指す動きを強化するために効果が高いと思っていました。だから絶対にやりたい。
 
しかし、「なぜその動きをするのか」を理解させなければいけない。これはきっと分かりません。練習メニューの意味が考えられない選手に何を提供しても絶対に効果はないからです。だからこそ段階を追ってやっていく必要があるなと感じていました。フォロースイングとそのタイミングで進む。ジャンプ系の要素を含みながらです。
 
県総体が終わるまでは「台ドロップ」として本当に基礎的な事をやってきました。段差を利用してそれを走りに活かしていくというメニュー。降りる時にしっかりとフォロースイングを使う。軸足を保つ。走りに必要な要素がここにある。そう思って実施してきました。県総体後はそれを進みながらやるようにしました。片足ドロップです。降りた時にフォロースイングのタイミングを合わせて地面からもらった力を前への推進力へと変えていく。言葉では説明しにくいですが。
 
軸を作るのは地面からしっかりとした力をもらうためです。緩んでいたらそこから力が逃げてしまう。地面に加えた力をしっかりともらわないといけない。それができないと走れないと思っています。しかし、力を加えるだけでは進まない。フォロースイングのタイミングを合わせて方向を変える必要がある。接地ポジションや膝締めなどもここに繋がってきます。上半身と下半身のタイミングも合わないといけない。やることはかなりあります。
 
ある一定水準まできたら大阪で学んだ事を実際の練習に取り入れたいと考えていました。かなりの時間をかけてやっとそこまできました。まーこの種目を取り入れて初めて実施した時に選手が内容もわからずに勝手にやり始めたのでもうやる気はほぼなくなりましたが。教えた事、ポイントを指示したこともないメニューが勝手に出来るのであればもう好きにすれば良い。そんな感覚がありました。繰り返しになりますが「メニューさえ提供すれば良いのか」という憤りがかなりありました。耐えていますが。
 
最終段階の練習をやる事になんとか来ました。片足で降りて反対足で台に上がる。その前段階で片足で降りて同じ足で台に上がるという練習をしています。ホッピングができないので台を利用する事で片足での力の発揮と方向転換をしていました。今度はそれをより走りに近づける。片足で降りで反対足で台に上がる。身体の真下で地面を捉えて力の方向をフォロースイングでタイミングよく変えていく。シザースではありません。ここも勘違いしやすい動きなのですが。
 
土曜日に選手に手本を見せました。口頭で説明したのですがやりたい動きとは全く違う動きをするので。ドロップした時に完全に潰れてしまう者、タイミングが遅れて届かなくなる者、力で無理やり持っていく者。タイミングで進みたい。無駄な力を使わずに進む動きをしたいのです。なかなかできない。私的には簡単に出来るのですが実際に選手にやらせてみるとできない。目で見た動きを真似る力が育っていないのだろうなと感じています。
 
結局、走るために何をやっているのかが分かるかどうかの話だと思います。それぞれの練習が独立して存在してしまうから分からない。私の練習は常に「流れ」と「段階」を意識しています。その前の段階手間やってきた動きを走りに近づけていく。走りの中に活かせる動きをやっていく。ここだと思っています。
 
ポイントややっていることの意味が分からなければきっと「身体を動かすだけ」になります。練習メニューの工夫は実施する選手によって「薬」にも「毒」にもなります。やるだけの選手にとっては何をやってもそれほどプラスにはなりません。力がうまく使えないということで怪我のリスクが増えるかもしれません。そう考えると「理解する」というのは必須だと思います。
 
何を狙いとしているのか。ここはひたすら繰り返し言います。が、受け取る側が「やれば良いんだろう」くらいの感覚でやれば何も生み出さないと思います。本当に強くなりたいと思うのであればやはりやっていることに興味を持つはず。持たない者に持たせるための練習をすることは意味があるのかどうかはわかりません。
 
分かりにくい事を書いています。頭が整理できたらもう少し書きたいなと思います。イメージはあります。それを体現できるかどうか。フォロースイングのタイミングの連写の中にスイッチング&○○をやる事で走りが変わっていきます。自信はあります。これができれば飛躍的にスプリントが上がる。それをどう理解させるか。その気にさせるか。ここに尽きると思います。
 
多分また書きます。たまには競技のことを書いておかなければいけないなと思うので。では。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訪問してもらう

2019-07-10 | 陸上競技
最近の出来事を少しだけ。
 
あまりにも自分の範疇を越える出来事が多すぎて耐えきれないことが増えていました。blogもその関係で書く気にはならない。書いても楽しいと思えることは全く書けないでしょうから。この苦悩を記しておきたいと思っていましたが、それは私にとって苦しいだけかもしれない。これまでblogに書いている内容自体は一部でしかない。何倍も信じられないような事が起きます。精神的に抱え込まないようにしようと考えてはいますが。
 
土曜日、練習自体をやるのかどうかを真剣に考えてきました。やる意味があるのかどうか。一般的な事を求めているだけ。それさえ成り立たない。高いレベルのことを求めているのであれば「無理だろう」と言われても仕方ない。しかし、本当に基礎的な話しか求めていません。何かあれば次につながる反省をする。同じことを繰り返さない。それは当然のことだと感じています。
 
感情を全て押し殺して。自分を押し殺して。技術的なことはきちんとやろうと考えていたのでそこに関しては丁寧に。引退した3年生が気にかけて来てくれたので随分助かりました。
 
そんな中で学校に訪問者が。失礼ながら全く面識がなかったので誰なのか分かりませんでした。話を聞いてみると昨年度何度か練習に参加してくれていた他校の選手の保護者でした。職場に本校の卒業生がいることもあり、挨拶をしたいとのことでわざわざ足を運んで下さいました。少し選手に話をしたいということだったので時間を作ることにしました。
 
私がblogを書いているのでそれを見てくださっているようでした。その中で感じたことを話をされました。「何のためにやっているのか」という部分。自分のお子さんの話も織り交ぜながら。
 
子供が競技をして切る理由。同級生のライバルがいた。その選手は強くて全国で優勝するくらいのレベル。どう考えても勝てない。最大限の努力をしても勝つ事はできない。それでも少しずつ追いつく事ができる。自分が少しずつでもタイムを短縮する事が出来れば追いつく事ができる。
 
インターハイに行くというレベルではない。大学で競技をやるレベルではないとずっと考えていた。それでも続けたいと言って進学。色々と練習をしていく中で出来なかったことができるようになる。そうやって自分の中での変化や成長を感じる事ができる。それが楽しくて競技を続けている。
 
ありがたい話です。「何のためにやっているのか」という部分。伝わる者には伝わったと思います。
 
うちに練習に来てくれていた選手は「陸上競技が好き」という大前提がありました。工夫しながら練習をする楽しさを知っている。技術的なことも知りたいと思ってやっている。そうでなければ1時間以上電車に乗ってうちに来るというのはないと思います。意欲的に取り組める資質があった。キツいことでも楽しくやってくれていました。そういう姿を見るとこちらも楽しめる。
 
質問されました。「他校の選手を指導する事があるが、ライバル関係にある他校の選手に対しても指導をするか」という内容。今の私なら分かりませんが、通常の状態であれば指導するのではないかと思います。指導した事で相手が強くなったからといってそれで云々というのはやはり面白くないですから。もちろん個人的な感情が存在するので「指導したくないな」と感じることもあると思います。勧誘関係で「指導を受けたい」と他校を選ばれたのであればそちらで指導を受けてくださいという感覚はあります。これは当然の感覚だと思っています。心が狭いのかもしれませんが。
 
私でなければいけないという理由はないと思います。競技をやりたいと思って、成長したいと思って指導を受けることを選んでくれるのであれば私は力を貸します。当然の話だと思います。特別に宣言するレベルでもないですし。
 
まとまりませんが。とりあえず記録しておきます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なるほどと感じる

2019-07-09 | 陸上競技
思う事を。
 
親しい方から新聞のコピーをもらいました。山口県出身でサッカーの元日本代表選手が書いたコラムです。「一流になるには思考も必要」というタイトルでした。どこが興味深い内容なのかは聞かずに見てみました。朝日新聞の内容です。
 
読んでいくと最後のまとめのところに
 
両立とは「好きなこと」と「やるべきこと」を両方やることだと考えています。将来の夢を定め、やりたいことに没頭するのはすばらしいけれど、夢でないことでも、「日々の一生懸命」を増やしていく。そういうメンタリティを子どもの頃から養うことが大切ではないでしょうか?
この意味ですね。何を思って書くのか。
 
目から鱗という話ではないですが。根本的な部分です。「好きなこと」と「やるべきこと」の両方があるのです。「好きなこと」だけをやって生きていくわけにはいかない。「好きなこと」をやるためには「やるべきこと」をきちんとクリアしなければいけないのです。
 
指導をしていて何か伝わらないモノがあるなとずっとずっと感じてきました。何を話しても何を伝えようとしても「変化」が見られない。これは指導の力不足なのだとずっと自分を責め続けていました。伝え方があるのではないかと。何か別のやり方をすれば「変化」が見られるのではないか。そう感じて人と関わるようにしてきました。が、それができない苦しさは尋常ではない感情でした。苦しい。
 
根底にあるもの。「両立」の根底である「一方が好きである」という部分。これがないのではないか?陸上競技が好きで、努力していくことで少しずつ自分の中で変化が生まれていく。これまでできなかったことができるようになって少しずつタイムが縮まっていく。ここに楽しさがある。そのの部分が根底にあるのだと思っています。
 
ここ最近の苦しさやもどかしさ。この根底が完全に崩れていたのではないか。勉強も練習の両立。練習にきちんと参加するためには嫌でも勉強をしなければいけない。速く走るためにはある程度キツくても練習をしなければいけない。速く走るためには避けて通れないのだから。
 
練習をやらない。ここに対しての理解がなかなかできない。基本的に私は陸上競技が好きで自分がどこまでできるのかを試したいと思って競技を続けてきました。これまで指導をしてきて「苦しい場面で力を出しきれない」という選手は数えきれないくらい見てきました。「強くなりたい」という前向きな気持ちと身体的精神的な「辛さ」に勝てずに力を抜いてしまう選手はいます。そういう時には前向きになれる言葉かけができます。頑張りきれないという部分に対しては理解していました。
 
が、この数ヶ月これとは全く違う感覚の中で指導というかグランドにいました。根底から覆されている。両立の片方である「好きなこと」がここにはないのではないかという疑問があったのですが、今回のこの記事を見てスッキリしました。「競技が好き」「強くなりたい」という感情が存在しないのではないか。そうであれば「どうすれば強くなるか」や「物事に対する取り組み方」を話しても意味がない。元々そういう気持ちが少ないのですが苦しい事をやる必要性がないのです。
 
mtm先生の所に練習に行った時、全員が前向きに練習に取り組んでいました。根本には「競技が好き」という想いがある。都会ですから田舎と違って選択肢は数えきれないくらいある。その選択肢の中から「陸上競技」を選ぶというのはどういうことか。好きなんだと思います。全員加入ではなくても入っているというのはそういうこと。「やりたくないならやらなければいい」という選択肢がある。それはどこでも同じだと思っています。
 
「やらされている」という部分が間違いなくある。もっといえば「適当にやりたいのにきちんとやる事を求められる」という部分さえあるのかもしれない。伝えたいことが伝わる可能性は皆無。当然の話だと思います。「好きなこと」をやるために「やるべきこと」をやらなければいけない。この根底が崩れているのであれば指導をする意味はない。エゴでも何でもない。
 
陸上競技がやりたくてグランドに来る。これが私の中では「当たり前」だと思っていました。そうではないという感覚がこの記事を読んで強くなりました。根底が違うのだからこちらが求めるのが悪い。もちろん、全員がそうだとは思いません。陸上競技が好きで強くなりたいと思っている選手も多数います。
 
この辺りの住み分けはきっとこれからの時代には必要になるんだと思います。少しだけスッキリしました。「何を言っているんだ」と思われるかもしれませんが。これくらいの話を主張する権利はあると思います。
 
尋常ではないストレスを感じています。それでも耐えるしかない。そう思って我慢しています。全く面白い内容が書けません。葛藤の中で活動。苦しいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全てが美談になる

2019-07-09 | 陸上競技
想いを書くほどのエネルギーがなくなっています。陸上競技がしたいと強く願いながらそこに至らない。blogがこんな感じなので「大丈夫なのか?」と心配されることがあります。正直、あまり大丈夫ではないです。これまで面識がなかったblogの閲覧者が学校に訪問してくださいました。申し訳ない限りです。このことはまた書けたらとは思います。
 
全国で高校野球が始まりました。その中でこんな記事がありました。
 
 
記事の内容があまりにも薄すぎてどういう状態だったのか分かりません。1年前に至るまでにどういう経緯があったのか。本当はそこがすごく大切。まー世間は「美談」が大好きです。その美談が美しくなくなる可能性がある内容は書かないと思います。「敗者の美学」が持ち上げられて勝ったチームにはほとんど注目されないというのがあります。負けたチームはその試合でしか取り上げることができない。勝ったチームは次の試合で負ければそこで取り上げればいい。それだけの話です。
 
記事の概要。練習試合で強豪校と試合をやって大差で負ける。その途中で「試合を諦めた」それを見た監督が「勝ちたいと言っていたじゃないか。「試合中に諦めるなら試合なんかする必要はないっ」と指導したら「理不尽だと感じて退部」という話になる。1週間後に諭されて復帰。そこからは練習を怠けなくなり、挨拶もするようになった。そして最後の大会を迎えて無事高校野球を終えることができた。
 
まー美談なのでしょう。様々な苦難を乗り越えて最後に大会を迎えて安打が打てたのだから。そういう意味では成長してやりきったという感覚になるのだと思います。
 
が、そこに至るまでの監督の気持ちはどうなのか。相手は強豪校だったのかもしれないが最後まで全力を尽くして試合をする必要がある。そこを指摘したことで「理不尽な指導」と感じられる。それで全員が退部。この時の監督はどんな気持ちだっただろうか。当たり前のことを当たり前に指導してそこに対して「理不尽」と言われる。
 
勝てなかったら諦めるのか。そうであれば優勝校以外はやらなければいい。明らかに力の差があるのはどの世界でも存在する。試合中に勝てないと感じて諦めたプレーをしていたら指導するというのが「理不尽」なのか。実際にやっている選手は「一緒運命やっているじゃないか」という感覚があったのだと思う。それを客観的に見たときに「できていないのでは?」と指摘する。自分ではやっているつもりになっている。だから指摘されると「やっているじゃないか」と感じる。
 
復帰した練習を怠けなくなった、挨拶を重視するようになった。これまで本当の意味で全力で取り組めていたのか?監督はその辺りをずっと見ていたから指摘したのではないか。事実関係はこれだけの記事では分かりません。結果的に最後の公式戦に出場してハッピーエンドとなりました。が、本当にそれで良かったのか。
 
喉元過ぎれば...。本人たちはその場の苦難を過ぎて納得できる形になったのだと思います。しかし、当時の監督の気持ちはどうだったのか。その時のもどかしさや苦悩は既に過去の物になっている。全くの美談ではない。終わり良ければ全て良し。こんな風潮がある。どれだけ嫌な想いをしたとしても監督だから我慢しなければいけない。大人だから。どれだけ嫌な想いをしたとしても耐える以外の何もない。
 
本当に美談なのでしょうか。生徒の成長として向き合って取り組んできたというのは素晴らしいことだとは思います。しかし、「押し殺された想い」はどこに行ったのか。耐えることだけ求められる。最後良い思い出になったからいいでしょう?!という話になる。そんなものなのかもしれない。
 
「生徒のために」「子供達のために」という大義名分を掲げる。そうであれば何でも許されるのか。押し殺された想いはグッとこらえて飲み込み続けなければいけないのか。何か指導すればそれに対して「理不尽だ」と言われるのであれば本当にやった分だけ損をすることになる。
 
一生懸命にやることを求める。当たり前のことを当たり前にやる事を求める。それが「理不尽」なのか。もちろん、この記事だけでは前後関係が分からないので何とも言えない部分があるが。しかし、実際問題現場ではその手のことが数え切れないくらいある。耐える事を求められる。それは当然のことのように。何か声を上げると「教員なのに」「やるのが当たり前「と言われる。そうなのかもしれない。
 
なかなか難しい世の中だと思う。全て「お子様が最優先」でなければいけない。そういう仕事なのだと思ってやるしかないのか。生活費を稼ぐためには耐え忍びながらやるしかないのか。勤務時間外であってもそれを受け入れるしかないのか。考えさせられる。
 
辞めずに向き合っていたらまた違う結果になったのではないか?そこには目が向かない。最後にヒットを打ったから良かったとなるのか。ストーリーを作って美談にする。駅伝が好まれるのもこの辺りか。
 
まー考えさせられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする