照る日曇る日 第1388回
翻訳を読むことと原作を原文で読むこととは、絶対的に別物である。原典を本当の意味で「読んでいる」のは当の翻訳者だけであって、翻訳文の読者ではないことを、私たちは知っておかなければならない。
だから日本語であるといえ、平安時代の古語で書かれた「源氏」を本当に読むなら、直接原文に当たって、しこうして砕けるしかない。岩波文庫版や新潮日本古典集成本はそのための心強い導き手である。
源氏の翻訳はいろいろあって、どれにしようかと大いに迷うが、「与謝野」も「谷崎」も「橋本」も上に述べた事情でみな別物。みんな違ってみんないい、のであるから、題名は同じでも中身は別の本だと思って、楽しみながら各個撃破、じゃなかった読破するしかない。
河出版日本文学全集の掉尾を飾る本書の特徴は、基本的にこれまでの翻訳に散見された疑古文を一切使用せず、本邦の現代作家が自分の小説を書くときに使う現代の正統的な口語文で最初から最後まで叙述している点にある。
私たちが「与謝野」や「谷崎」の翻訳を読むときは彼らの擬古文を自分の脳内で口語に翻訳せざるを得ないであるが、その2度手間が省けて好都合だし、角田選手の文章は彼女の他の小説と同様朗読するにふさわしい見事な音律を保っている。
「宇治十帖」は源氏亡きあとの冗長な蛇足と考えてきたが、このたびの翻訳を音読しているうちに、大君、中の君、そして最後のヒロイン浮舟の存在感が、三蜜濃厚接触空間にくっきりと浮かび上がり、ポスト光源氏のリアルが、本篇以上に、現代人間界に直結連動していることがよく分かったのである。
植松を死刑にしても生き残る我らが裡なる植松聖 蝶人