あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

佐藤賢一著「日蓮」を読んで

2021-03-21 11:30:41 | Weblog

照る日曇る日 第1550回

仏蘭西革命やナポレオンなど一連のおふらんす物では定評がある佐藤選手が、なんと本邦の宗教家、それも日蓮の小説を上梓したというので、ちと驚きました。つい最近まで「小説新潮」で連載されていたそうですが、んなこたあ全然知らんかったなあ。
私は他の事と同様、仏教にはえらくうとい人間であるが、親鸞や法然、道元、空海や最澄に比べて、どうもこの日蓮という人はいうことなすことみな過激で、稀代の熱血漢ではあるが、どことなく胡散臭い感じがして、どことなく敬して遠ざけていたが、それは本書を読んで少し変わった。かなあ。
鎌倉新仏教の浄土教や浄土真宗では、阿弥陀如来に額づき「浄土三部経」を聖典と仰ぎ、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生できる、と説くようです。
に対して、日蓮選手は、「彼岸で極楽へ行っても遅すぎるじゃん、こ、こ、この此岸で幸福にならずに、にんげん一体どうしろというのか?」と説くのです。
「諸君の拝む仏は、本尊の釈迦如来に比べたらひけをとる2流、3流で、依拠する教典も「法華経」に比べたら超マイナー。邪教を倒して「南無阿弥陀仏」を即時「南無妙法蓮華経」に変えよ!」と絶叫するのです。
日蓮は釈尊自身が真の教典と説くのは「法華経」だけで、それ以前の諸経は「仮」物であると断言するのですが、されどこれってどこかに論拠があるのかおらっちには分からないずら。
日蓮は、佐渡流罪など再三再四の弾圧に次ぐ弾圧にもめげず、汗と血と涙の布教に努めた結果、執権北条時宗に認められ、「蒙古調伏」の祈祷を頼まれるのだが、他教の参加を拒否して強情を張るものだから、使者の平頼綱も匙を投げてしまう。ここらあたりの論理的正当性の追求振りが評価の分かれるところでせう。
ところで本書ですが、蒙古襲来の予言をぴたりと当てた日蓮が文永11(1274)年、鎌倉松葉ヶ谷を出て甲斐の身延山に到着したところで突然終わってしまうので、そのあまりの唐突さに驚いてしまう。
出来うべくんば、弘安5(1282)年に60年の波乱の幕を閉じる生涯のおわりまでを、引用文献付きでぜひとも書き上げてほしいものだ。

 「温暖化で地球もそろそろ終わりだね」「そんなこたあどうでもええやん」 蝶人
コメント
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