照る日曇る日第1738回
大河ドラマの開始と同時に、またしてもさながらプーチンのように御家人の宿敵を暗殺しまくった北条一族の死都鎌倉に、観光客が押し寄せ、苦々しい限りだが、それはさておき、頼朝から時政、義時の時代の概説書のなかで、唯一まともに「鎌倉殿と13人の合議制」について論じた新書本が本書です。
著者は五味文彦選手と共に「吾妻鏡」の現代語訳を完成させた歴史学者であるが、テレビなどで見かけるその風貌と言説はいささか漫画家風で、これまで敬して遠ざけてきたのだが、構成がハチャメチャで、文体がアカデミックどころか楽屋落ちの落語風であるにもかかわらず、一読して感銘を受けたのは、彼が無味乾燥の文献学者ではなく、まじかに富士山を見て感動する詩人であり、歴史の真実を時空の広がりの中で透視できる直感力を備えた、繊細な哲学者でもあることを知ったから、だあね。
最近の研究では、2代将軍頼家の権限を剥奪した「13人の合議制」など存在せず、13人の権限とは頼家への取次権のみであったとされているので、その点は五味選手の認識とは異なるが、ともかく類書とは一頭図抜けた読み物であることは間違いありませぬ。
ところで、君知るや。13人の内訳は時政(1138-1215)と義時(1163-1224)をはじめとする7人の武士と4人の文官なりしを。
その文官は頼朝の旧知の中原親能(1143-1208)、京情報を頼朝に伝送していた三善康信(1140-1221)、親能の義兄の大江広元(1148-1225)、頼朝の母ゆかりの熱田大宮司家の二階堂行政の面々ですが、この実務官僚を幕府運営の柱に置いたことが足利、徳川にも欠落していた鎌倉幕府の先見性だったそうです。
北条以外の武士は、伊豆の流人時代以来の側近、安達盛長(1135-1200)、挙兵以前からの源氏の家人、足立遠元(生没不詳)、頼朝の乳母、寒川尼の兄弟で重臣の八田知家(生没不詳)、石橋山の合戦で頼朝の危機を救った知将、梶原景時(?-1200)、頼朝の乳母、比企尼の養子で頼家の義父、比企能員(?-1203)、源氏累代の御家人、三浦義澄(1127-1200)、義澄の甥で侍所の初代別当、和田義盛(1147-1213)の面々です。
このうち当時北条一味と誼を通じたガチンコ仲間は、三浦義澄、和田義盛、安達盛長の3人だから北条派は5人。反北条派は、比企能員、八田知家、梶原景時、足立遠元の4人だったが、彼らは前者と違ってバラバラで、てんで統率が取れていなかった。
実際、時政が主導した梶原景時追放事件に際しても比企、八田、足立は源頼家同様、大所高所に立たずにパージに賛成して、結句、自らの墓穴を掘ってしまいます。
とまあ、細かく見れば見るほど北条の悪辣非道がドタマに来る陰惨なウクライナ史ならぬ鎌倉史なのですが、この連休に鎌倉観光なぞに出かける代わりに、ワルター&ウィーン・フィルのモザールなどを聴きながら、本書を紐解かれるのも一興かと愚考する次第でR。
宿敵をみな斃したる北条氏「いざ鎌倉へ」と諸君を招く 蝶人