あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

2021年5月号「現代詩手帖」を読んで

2022-04-11 12:52:16 | Weblog

照る日曇る日第1733回

 

目玉は高橋睦郎と藤井貞和両氏の、気合いの入った対談である。

 

高橋選手はいう。「<もの>自体が<もの>を語っているのが、物語の原型ではないのか。その意味では、<うた>もどこかで<うた>自体をうたっている。それを人間がもどいていくのが、<うた>の歴史ではないか」と。

 

歌の本源に「呪」ではない「物」があるとするのは、魅力的な考え方である。

思うに「古事記」や「万葉集」から発出したその源素は、時を経て近現代に流れ下り、いささか呪咀的・宗教な方向としては、釈超空や前川佐美雄の「主語のないうた」、即物的な方向としては奥村晃作の「ただごと歌」などに憑着したのではないだろうか。

 

おらっっちが、なんとなく前川佐美雄の「鬼百首」を思い出していたら、高橋選手は、彼の「植物祭」についても触れていて、最近大流行の口語短歌なんかよりも、佐美雄がおよそ1世紀も前に試みていたライトヴァースの実験と、その後のヘヴィーヴァースへの堂々の回帰に着目せよ、とのたまうので、いつかこの目で確かめてみたいと思った。

 

その他、ここで特記されている「時枝文法」の再評価、「てにおは」の特に「は」の用法についての指摘など、おらっちなどには、まだまだ及びもつかぬ年季の入った深甚な学的世界があるのだなあ、と思い知らされた次第である。

 

 1987年2月27日シンディ・ローパーのダンスを見れば心躍るよ 蝶人

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする