先日、庭のミモザ(パールアカシア)の枝を誘引しようと思って、枝先に紐をかけてぐいぐい引っ張っていたら先の方がポキンと折れてしまった。結果として剪定することになってしまった。
たくさんの花房がついていて、このとてつもなく寒かったこの冬を乗り越え、いよいよ満開、というところだったのにかわいそうなことをした。
誘引は、せめて花が終わってからの方が良かったのだろうが、昨日の大嵐を思い出すと、嵐の来る前に樹形をよくしておいて良かったと思うことにしている。まあ、結果論ではある。
鎌倉駅前の銀杏は冬の間にずいぶんさっぱりしてしまって、手足をもがれたような無様な格好をさらしている。見るたび、悲しい気持ちになる。
病院に行く道すがらでも、ずいぶんな断面をさらしている木が数多くある。
私だったら、もう少し上手に切るのに、と思うが、プロの仕事であろうから、これが最善なのだろう。木の剪定というのは難しい。下手にやれば枯らしてしまうので、将来上手に伸びるように切ってやらなくてはいけない。
病院の敷地内に、ずいぶん大きな桜の木があった。
同僚が、「そろそろ咲く頃だな、なんて家族と話していたんですよ」と言っていたが、多くの職員が、開花を楽しみにしていた桜の木だった。
これが先週末、切られていた。切り株しか残っていない。
この場合、剪定でもないので、これでこの木の命は終わり。
この無惨な状態を見て多くの職員やその家族が心を痛めたに違いない。
なにかの建物の建設予定地だったようで、いずれは切らなくてはいけなかったようだが、せめて最後の春を過ごさせてやってからでも遅くはなかったのではないかと思いもする。
桜にとっては、花の咲く前であろうが咲いたあとであろうが切られることには変わりないので、同じことだろう。逃げることもできず、切られる。
人間というもの、どうしてこうもまわり(人間以外の動物、植物)に迷惑をかけないと生きていけないのだろう。
すべての人間が生まれつき、罪を背負っているということはわかっている。そしてその罪をあがなうことも決してできないこともわかっている。それでも少しは優しくしできないのだろうか。とはいえ、結局のところ、これらも私という人間の勝手な感傷に過ぎない。