こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

出世を望まない人が増えているという

2022年09月28日 | 生き方について考える
空気はすっかり秋のそれと入れ替わり、毎日過ごしやすい。
なによりも寝苦しさがない。
夜中に目が覚めて、また眠ろうと思っても、つい先日までは冷房をどうしよう、入れたら喉が痛くなるから我慢しようとか、やっぱり暑いとか、あれこれ考えるうちに寝そびれてしまうこともあったが、今はそんなことはない。
ハイビスカスもやっと元気を取り戻し、毎日花をいくつも咲かせてくれている。
私も夏バテから解放されてちょっと元気が出てきて、溜まりかけていた仕事を片付ける気になってきた。
ただ、最近思うのは私が頑張る方向を考えなくてならないということ。
もちろん人類のために役立つことがあったら率先して研究・発信するが、この先のそう偉くなるわけでもないが、そんな残り短い人生で、私が会得してきた人様に役立つ技術・知識を遺すことをしなくてはならないと思う。

例えば、大学にいる人というのは研究のためにいるはずなのに、教授になりたいだけでそこに居座っている人というのがいる。
そんな、教授になりたいという人が首尾よく教授になるのを目の当たりにすると、なるほどこれまでのあの仕事もこの仕事も全てはこのためだったのか、大したものだと思う。
それと同時に、私にはそんな真似はできないし、教授の座というものが、それほどのエネルギーを生むものであることが理解できない。

私が病理医の道を選んだ時、友人に

へー、病理に進むのですか?
やっぱり(人が少ないから)教授になりたいから?

と聞かれ、やりたいことを選ぶだけのことだと思っていた私にとって、そんな考え方があるのかとびっくりしたことがある。
それ以来、自分には教授になるチャンスはあるのか、能力はあるのかということを時々考えることもあったが、元々そんな器量なく、幸か不幸かご縁はなかった。

出世した先の世界というのが、厚いヴェールに包まれていた頃であれば、そこまで行ってのぞいてみたいと思う人もいるだろうが、”出世を望まない”というのは初めからそこに近づこうともしないということだ。

情報化社会で、生き方の上限というものが見えてきて、錦衣玉食贅沢三昧をしたところで、その裏には不公平があり、他人の犠牲があるということがわかり、そんな罪悪感を感じるようなら偉くなんてなりたくないと思うのかもしれない。
そして、いずれ人は必ず死ぬ。
ならば変なプライドなど持たないで苦労して出世しても仕方がない、そこそこの人生でいいだろう。

かつては、出世を強いる上司もいただろうが、今はそれもナンセンス。
中国では寝そべり族という言葉もあるようだが、社会人として社会に貢献しない人にも少しは役に立つことをしてもらわなくては社会が持続していかないわけで、出世を人参にしてきた価値観を変えていく必要がある。
まずは賃金上昇を

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