浦和のJ2時代を支えた選手として、現在京都サンガで現役の石井俊也選手がいます。石井は、1998年にペトロビッチと組むダブルボランチの一角として、当時の原監督に起用されました。自由に上がっていくペトロビッチの穴を埋めるのは大変だったと、本人はコメントしていましたが、これができたことで、プロで成功する足掛かりをつかみました。
2000年に浦和がJ2に降格したときに、当時候補選手だったシドニー五輪代表に選ばれなくなるリスクを承知で、浦和に残ってくれたのは、サポーターとして非常に嬉しい決断でした。しかし、これだけ試合を見ていながら、石井の長所は何?と聞かれるとなかなか明確な回答ができませんでした。
それに気付いたのは、J1復帰後の2001年のアビスパ福岡戦でした。当時のチッタ監督は、開幕から3バックや4バックをいじり、なかなか結果が出せませんでした。そんな浦和の初勝利が、この福岡戦だったのですが、チッタ監督が石井に与えた役割が印象的だったので、今でも覚えています。
それは4バックの前の3ボランチの一角で、攻撃のときはボランチ、守備のときはDFという役割を与えていました。このDFぶりが非常に良く、ヘディングでも強さを見せました。3バックでも4バックでも、守備が安定しなかった浦和は、石井をうまく使ってその両者を併用することで安定感を得ました。
その結果、この年の1stステージでは昇格直後のチームにしてはまずまずの7勝を挙げました。しかし、チッタ監督がシーズン途中で、突然の辞任を表明したのは、石井にとって不運でした。後任のピッタ監督が、ボランチに当時若手の鈴木啓太を抜擢し、石井のポジションはDFに移されました。
まだ24歳だった石井を替えて、鈴木啓太を入れるのは賭けだったと思いますが、前へ行くダイナミックさでは鈴木啓太が上回ります。後任のオフト監督も鈴木啓太を起用し、石井はDFでも使われなくなり、この2002年限りで仙台に移籍してチームを去りました。
しかし、浦和で培った運動量と守備力はいろいろなチームで必要とされました。それが、石井が今でも現役でプレーできる理由でしょう。昨年、京都での浦和戦で久しぶりにプレーを見ましたが、また、どこかでもう一度見たいものです。
2000年に浦和がJ2に降格したときに、当時候補選手だったシドニー五輪代表に選ばれなくなるリスクを承知で、浦和に残ってくれたのは、サポーターとして非常に嬉しい決断でした。しかし、これだけ試合を見ていながら、石井の長所は何?と聞かれるとなかなか明確な回答ができませんでした。
それに気付いたのは、J1復帰後の2001年のアビスパ福岡戦でした。当時のチッタ監督は、開幕から3バックや4バックをいじり、なかなか結果が出せませんでした。そんな浦和の初勝利が、この福岡戦だったのですが、チッタ監督が石井に与えた役割が印象的だったので、今でも覚えています。
それは4バックの前の3ボランチの一角で、攻撃のときはボランチ、守備のときはDFという役割を与えていました。このDFぶりが非常に良く、ヘディングでも強さを見せました。3バックでも4バックでも、守備が安定しなかった浦和は、石井をうまく使ってその両者を併用することで安定感を得ました。
その結果、この年の1stステージでは昇格直後のチームにしてはまずまずの7勝を挙げました。しかし、チッタ監督がシーズン途中で、突然の辞任を表明したのは、石井にとって不運でした。後任のピッタ監督が、ボランチに当時若手の鈴木啓太を抜擢し、石井のポジションはDFに移されました。
まだ24歳だった石井を替えて、鈴木啓太を入れるのは賭けだったと思いますが、前へ行くダイナミックさでは鈴木啓太が上回ります。後任のオフト監督も鈴木啓太を起用し、石井はDFでも使われなくなり、この2002年限りで仙台に移籍してチームを去りました。
しかし、浦和で培った運動量と守備力はいろいろなチームで必要とされました。それが、石井が今でも現役でプレーできる理由でしょう。昨年、京都での浦和戦で久しぶりにプレーを見ましたが、また、どこかでもう一度見たいものです。