一人の選手や監督に着目できるほど、終戦直後から昭和40年代までの昔のプロ野球に詳しくはありませんが、断片的な知識を並べたもので良ければ、書かせていただきます。まずは、当時の名将、魔術師と言われた西鉄→大洋の監督だった三原監督の「魔術」には正体があります。
会社の講演会で、慶応大学の名物教授で昔のスポーツに詳しい池辺先生の講演を聴く機会があったのですが、この講演でその正体を語っていました。大洋の監督当時、前年度0勝12敗だった権藤投手を、翌年12勝させたことで、魔術と呼ばれたのですが、それは当時ではまだ珍しかったデータ野球をしたからでした。
権藤投手の投球内容を見ると、確かに先発では12敗もしましたが、4回までは好投していることが多かったそうです。そのため、先発は無理でも、2番手としてブルペンに待機させて、4イニング以内のリリーフで使ったところ、12勝という結果を残したそうです。三原監督本人も、「決して魔法を使ったわけではないんだ」と語っていました。
また、当時のプロ野球は、「優勝するためにはエースを一人(投げさせすぎて)潰さないといけない」とまで言われた投手受難の時代でした。当時のエース級で有名だった尾崎(東映)、杉浦(南海)、藤田(巨人)といった投手は、皆選手生命は短かったです。尾崎あたりは、高校を中退してプロ入りして、最初の数年は好調でしたが、投げさせすぎて潰れ、実働はわずか6年で引退しています。
杉浦の「日本シリーズ4連投4連勝」というのも、今の価値観から行けば「そんな無謀な」ということになるでしょうが、当時は腕も折れよとエースを酷使した時代なので、伝説には残りましたが、杉浦自身の投手生命を縮めてしまいました。
投手の酷使で有名だった言葉に、「権藤、権藤、雨、権藤」という言葉も伝説に残っています。これは当時中日のエースだった権藤博投手が、連日のように使われ、権藤が投げない日は雨しかないという極端な時代です。当時、ドーム球場があったら、もっと多くの投手が選手生命を縮めていたでしょう。
また、稲尾(西鉄)の1シーズン42勝のプロ野球記録も、この酷使が生んだものでした。今ではもう誰もできない記録で、先発で42試合に登板することすら不可能です。それは「神様、仏様、稲尾様」という言葉に残されています。
会社の講演会で、慶応大学の名物教授で昔のスポーツに詳しい池辺先生の講演を聴く機会があったのですが、この講演でその正体を語っていました。大洋の監督当時、前年度0勝12敗だった権藤投手を、翌年12勝させたことで、魔術と呼ばれたのですが、それは当時ではまだ珍しかったデータ野球をしたからでした。
権藤投手の投球内容を見ると、確かに先発では12敗もしましたが、4回までは好投していることが多かったそうです。そのため、先発は無理でも、2番手としてブルペンに待機させて、4イニング以内のリリーフで使ったところ、12勝という結果を残したそうです。三原監督本人も、「決して魔法を使ったわけではないんだ」と語っていました。
また、当時のプロ野球は、「優勝するためにはエースを一人(投げさせすぎて)潰さないといけない」とまで言われた投手受難の時代でした。当時のエース級で有名だった尾崎(東映)、杉浦(南海)、藤田(巨人)といった投手は、皆選手生命は短かったです。尾崎あたりは、高校を中退してプロ入りして、最初の数年は好調でしたが、投げさせすぎて潰れ、実働はわずか6年で引退しています。
杉浦の「日本シリーズ4連投4連勝」というのも、今の価値観から行けば「そんな無謀な」ということになるでしょうが、当時は腕も折れよとエースを酷使した時代なので、伝説には残りましたが、杉浦自身の投手生命を縮めてしまいました。
投手の酷使で有名だった言葉に、「権藤、権藤、雨、権藤」という言葉も伝説に残っています。これは当時中日のエースだった権藤博投手が、連日のように使われ、権藤が投げない日は雨しかないという極端な時代です。当時、ドーム球場があったら、もっと多くの投手が選手生命を縮めていたでしょう。
また、稲尾(西鉄)の1シーズン42勝のプロ野球記録も、この酷使が生んだものでした。今ではもう誰もできない記録で、先発で42試合に登板することすら不可能です。それは「神様、仏様、稲尾様」という言葉に残されています。