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清水エスパルスの経営危機(1997年)

2009-08-12 16:58:32 | 他チーム
Jリーグ創設の当時、旧日本リーグのチームを母体としない、清水エスパルス(当時清水FC)が最初の10チームに入ったのはちょっとした驚きでした。ただ、Jリーグは地域密着の考え方で、サッカーどころの静岡県にチームを置く方が観客動員が見込めると思ったのでしょう。

確かに、本拠地の日本平スタジアムはサッカー専用で個別席があるなど、当時にしては画期的なスタジアムでした。今行くと、席の幅が狭い、屋根がないなど、少しずつ時代に合わなくなっていますが、時代の先駆者ではありました。

また、母体企業を持たないということで、選手は日本リーグの他チームから集めた移籍選手ばかりでしたが、清水三羽烏(長谷川健太、堀池、大榎)が同一チームでプレーするなど、戦力的には十分なチームでした。

ただ、そんな清水は、JALやグリコなど、Jリーグの物珍しさからスポンサーになった大口スポンサーに支えられていました。そんなスポンサーが支援金額を減らしていくと、経営的には苦しいチームでした。当時の清水は、テレビ静岡が支援していましたが、1997年に累積債務が問題になります。

そんな危機に、地元の海運業者の鈴与が支援の手を差し伸べます。清水には、鈴与の影響を受ける中小企業がたくさんあるため、そんな小さな会社から少しずつ支援をもらうことで、清水は何とか存続することができました。私は1998年に日本平に行っているのですが、当時のマッチデープログラムに、地元の倉庫会社や問屋などの小さな企業の名前が並んでいました。

地元のサポーターは、大企業がサポートするチームなら自分が応援しなくても存続するかも知れないが、エスパルスは自分が応援に行かないと存続できないというようなことをテレビで言っていた方もいます。確かに、日本平のサポーターは常に熱いです。応援に「聞き惚れてしまう」こともあるくらいです。

そんな清水にとっては、1999年の静岡ダービーのチャンピオンシップは最大の思い出でしょう。惜しくもPK戦で敗れましたが、沢登が決めた伝説のFKは今でも記憶に残っています。あの当時のメンバーは伊東と市川しか残っていませんが、今でも清水はアウェイの埼スタに来ても何らかの輝きを放っています。
コメント
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