Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

昭和50年代のプロ野球

2009-08-16 14:17:37 | 他スポーツ
私の少年時代、愛好していたスポーツはプロ野球でした。ただ、当時は今のようにスポーツを冷静に分析した方が楽しめるという発想はなく、地元西武に声援を送っていた日々でした。当時、テレビ埼玉で西武戦のホームゲームは全試合中継だったので、夜になるとテレビ埼玉にチャンネルを合わせることが多かったです。

当時の西武を象徴する選手といえば、田淵と東尾だったと思います。田淵は、西武が所沢に移転するときに目玉になる選手が欲しいという意図もあってか、現阪神監督の真弓を放出してまで獲得した選手でした。あの当時、パリーグの野球を見慣れていなかった私にはDHというのは面白い制度で、そのDH要員として田淵を獲得したと思いました。

東尾は、九州時代からライオンズ一筋だった投手ですが、若手投手だった時代に野球賭博の事件があった影響で主力選手がごっそり抜け、本来なら二軍で鍛えなければいけない時期に一軍のマウンドに立つことになったという過去があります。そのため、6勝25敗というシーズンもあったほどで、投げても投げても勝てないという時期がありました。

そういう、ライオンズの弱さが身にしみていた投手ですが、昭和57年に初めて日本シリーズに出場します。当時32歳とベテランの域に入っていましたが、それから勝てる投手になっていき、通算の勝ち星でもわずかに白星が先行するようになりました。私は、なかなか区切りの記録達成の瞬間に立ち会った経験はないのですが、東尾の200勝の試合はスタンドで見ています。

ただ、当時は先発投手は中3日もしくは中4日の時代でした。そのため、通算250勝の東尾以外にも多くの勝ち星を重ねた投手は多く、村田兆治(ロッテ:215勝)、鈴木啓示(近鉄:300勝)などのエース格がいました。今は、先発投手は中6日の時代ですから、なかなか200勝も難しい時代になっています。

懐かしさもある時代ですが、当時より野球界も進歩した点もたくさんあります。外野フェンスがゴム製になり、負傷のリスクが下がったことや、ドーム球場の登場で雨天中止がなくなったなどの変化は、いいことだと思います。当時に戻りたいかといえば、やはり現在の方がいいのかなと思います。
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スーパーサブから代表へ(播戸竜二)

2009-08-16 10:07:34 | 他チーム
昨日は浦和敗戦のため、浦和の選手のネタは出せず、相手のG大阪から選びます。そうなると決勝点の播戸竜二選手ということになります。播戸の場合、オシム監督時代の日本代表ですが、チームでスーパーサブで代表入りという、稀なケースです。

どうしても、G大阪というチームは、外国人のいいストライカーを取ってくるチームですから、播戸の出番はサブが多くなるのですが、そこで結果を出して代表入りしたことは、大迫(鹿島)、黒津(川崎F)といった上位チームのサブFWには刺激になる例だと思います。

播戸はスピード系ということもあり、何となく若いイメージを持っていましたが、実際は1999年ワールドユース準優勝メンバーです。つまり、小野伸二、小笠原、遠藤、稲本という黄金世代と同い年で、今年で30歳になるベテランです。

播戸はG大阪では短い時間で結果を出すFWのイメージですが、2000年に札幌へのレンタル移籍を経験しています。このとき、当時のJ2得点王のエメルソンやJ1得点王のウィルと組んだのは良い経験になったようで、昨日の浦和戦でのどこまでも追い回すゴールなどは、外国人FWのサポート役だった当時の経験が生きているのでしょう。

ただ、G大阪は選手層の厚いチームで、同じスーパーサブとして、山崎というライバルがいます。山崎は昨年のACL得点王など勝負強さが売り物のFWで、途中から播戸を出すか山崎を出すかは、西野監督が相手に応じて使い分けているようです。

そんな競争は、播戸にとっては気力を張り詰めていないといけない状況でしょうが、FWというポジションは点を取るという明確な結果が出るポジションです。そのため、点を取ればいいと割り切って出場できる、わかりやすいポジションでもあります。そんな気持ちが出たゴールだったのではと思います。
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