私の少年時代、愛好していたスポーツはプロ野球でした。ただ、当時は今のようにスポーツを冷静に分析した方が楽しめるという発想はなく、地元西武に声援を送っていた日々でした。当時、テレビ埼玉で西武戦のホームゲームは全試合中継だったので、夜になるとテレビ埼玉にチャンネルを合わせることが多かったです。
当時の西武を象徴する選手といえば、田淵と東尾だったと思います。田淵は、西武が所沢に移転するときに目玉になる選手が欲しいという意図もあってか、現阪神監督の真弓を放出してまで獲得した選手でした。あの当時、パリーグの野球を見慣れていなかった私にはDHというのは面白い制度で、そのDH要員として田淵を獲得したと思いました。
東尾は、九州時代からライオンズ一筋だった投手ですが、若手投手だった時代に野球賭博の事件があった影響で主力選手がごっそり抜け、本来なら二軍で鍛えなければいけない時期に一軍のマウンドに立つことになったという過去があります。そのため、6勝25敗というシーズンもあったほどで、投げても投げても勝てないという時期がありました。
そういう、ライオンズの弱さが身にしみていた投手ですが、昭和57年に初めて日本シリーズに出場します。当時32歳とベテランの域に入っていましたが、それから勝てる投手になっていき、通算の勝ち星でもわずかに白星が先行するようになりました。私は、なかなか区切りの記録達成の瞬間に立ち会った経験はないのですが、東尾の200勝の試合はスタンドで見ています。
ただ、当時は先発投手は中3日もしくは中4日の時代でした。そのため、通算250勝の東尾以外にも多くの勝ち星を重ねた投手は多く、村田兆治(ロッテ:215勝)、鈴木啓示(近鉄:300勝)などのエース格がいました。今は、先発投手は中6日の時代ですから、なかなか200勝も難しい時代になっています。
懐かしさもある時代ですが、当時より野球界も進歩した点もたくさんあります。外野フェンスがゴム製になり、負傷のリスクが下がったことや、ドーム球場の登場で雨天中止がなくなったなどの変化は、いいことだと思います。当時に戻りたいかといえば、やはり現在の方がいいのかなと思います。
当時の西武を象徴する選手といえば、田淵と東尾だったと思います。田淵は、西武が所沢に移転するときに目玉になる選手が欲しいという意図もあってか、現阪神監督の真弓を放出してまで獲得した選手でした。あの当時、パリーグの野球を見慣れていなかった私にはDHというのは面白い制度で、そのDH要員として田淵を獲得したと思いました。
東尾は、九州時代からライオンズ一筋だった投手ですが、若手投手だった時代に野球賭博の事件があった影響で主力選手がごっそり抜け、本来なら二軍で鍛えなければいけない時期に一軍のマウンドに立つことになったという過去があります。そのため、6勝25敗というシーズンもあったほどで、投げても投げても勝てないという時期がありました。
そういう、ライオンズの弱さが身にしみていた投手ですが、昭和57年に初めて日本シリーズに出場します。当時32歳とベテランの域に入っていましたが、それから勝てる投手になっていき、通算の勝ち星でもわずかに白星が先行するようになりました。私は、なかなか区切りの記録達成の瞬間に立ち会った経験はないのですが、東尾の200勝の試合はスタンドで見ています。
ただ、当時は先発投手は中3日もしくは中4日の時代でした。そのため、通算250勝の東尾以外にも多くの勝ち星を重ねた投手は多く、村田兆治(ロッテ:215勝)、鈴木啓示(近鉄:300勝)などのエース格がいました。今は、先発投手は中6日の時代ですから、なかなか200勝も難しい時代になっています。
懐かしさもある時代ですが、当時より野球界も進歩した点もたくさんあります。外野フェンスがゴム製になり、負傷のリスクが下がったことや、ドーム球場の登場で雨天中止がなくなったなどの変化は、いいことだと思います。当時に戻りたいかといえば、やはり現在の方がいいのかなと思います。