代表期間中なので、代表の選手をネタにします。最近浦和サポになった方はご存知ではないと思いますが、もともと攻撃の選手からスタートして、今やアンカー候補に挙げられる長谷部誠選手のネタです。長谷部は浦和の選手なので、無名時代から知っています。
もっとも、長谷部自身が「何故無名の自分に浦和からスカウトが来る?」と驚いたほど、浦和入団前はもっと無名でした。当時、藤枝東高校には有名だった成岡(新潟)がいて、そのついでに見つかった原石のように思われていました。居残り練習をあまりしないという評判でしたが、浦和のスカウトが実際に足を運ぶと、フットサルという実質練習をしていたエピソードもあります。
長谷部はそれでも、浦和のサテライトでのプレーが目に留まってU-19代表に入っていました。そのため、代表との掛け持ちでチームを留守にすることが多く、サテライトのゲームで私が見たのは一度だけで、最終戦の川越陸上競技場でトップ下に入った試合です。
今でも覚えているくらいですから、もちろんインパクトはありました。セットプレーのキッカーはすべて任され、当時から中盤でボールが落ち着く選手でした。そんな長谷部は、翌年元ブラジル代表の大物トップ下、エジムンドの突然の退団でトップ下が空いていた開幕戦の鹿島戦で出番を得ます。
正直、カシマスタジアムの雰囲気に飲まれて最悪前半で下げられることを危惧していました。しかし、長谷部は落ち着いたプレーで、うまくフリーになっていた永井雄一郎や田中達也にパスを出して戦力になることを証明しました。エジムンド退団は偶然ですが、そんなタイミングを生かすのは長谷部の実力の証明です。
ボランチに初めてコンバートしたのは浦和のオフト監督です。当時の浦和は石井、鈴木啓太、内舘ら守備に強いボランチはいましたが、攻撃とつなぐリンクマンが不足していました。ここに長谷部を置くと、見事に視野の広さを生かしてボールを回し、見事にポジションをものにしました。
それでも、トップ下からコンバートした長谷部がアンカーというのは、いくらアギーレ監督が昔の長谷部を知らないからとはいえ、びっくりです。それでも、アギーレ監督が4-3-3を旗印にする以上、日本にあまりいないアンカー候補は重要です。長谷部がこなせれば日本代表にとっては大きな戦力アップで、期待しています。
もっとも、長谷部自身が「何故無名の自分に浦和からスカウトが来る?」と驚いたほど、浦和入団前はもっと無名でした。当時、藤枝東高校には有名だった成岡(新潟)がいて、そのついでに見つかった原石のように思われていました。居残り練習をあまりしないという評判でしたが、浦和のスカウトが実際に足を運ぶと、フットサルという実質練習をしていたエピソードもあります。
長谷部はそれでも、浦和のサテライトでのプレーが目に留まってU-19代表に入っていました。そのため、代表との掛け持ちでチームを留守にすることが多く、サテライトのゲームで私が見たのは一度だけで、最終戦の川越陸上競技場でトップ下に入った試合です。
今でも覚えているくらいですから、もちろんインパクトはありました。セットプレーのキッカーはすべて任され、当時から中盤でボールが落ち着く選手でした。そんな長谷部は、翌年元ブラジル代表の大物トップ下、エジムンドの突然の退団でトップ下が空いていた開幕戦の鹿島戦で出番を得ます。
正直、カシマスタジアムの雰囲気に飲まれて最悪前半で下げられることを危惧していました。しかし、長谷部は落ち着いたプレーで、うまくフリーになっていた永井雄一郎や田中達也にパスを出して戦力になることを証明しました。エジムンド退団は偶然ですが、そんなタイミングを生かすのは長谷部の実力の証明です。
ボランチに初めてコンバートしたのは浦和のオフト監督です。当時の浦和は石井、鈴木啓太、内舘ら守備に強いボランチはいましたが、攻撃とつなぐリンクマンが不足していました。ここに長谷部を置くと、見事に視野の広さを生かしてボールを回し、見事にポジションをものにしました。
それでも、トップ下からコンバートした長谷部がアンカーというのは、いくらアギーレ監督が昔の長谷部を知らないからとはいえ、びっくりです。それでも、アギーレ監督が4-3-3を旗印にする以上、日本にあまりいないアンカー候補は重要です。長谷部がこなせれば日本代表にとっては大きな戦力アップで、期待しています。