今日はJ1昇格プレーオフ1回戦、磐田(J2:4位)対山形(J2:6位)でした。会場は磐田のホーム、ヤマハスタジアムで、しかも引き分けならリーグ戦の順位が上の磐田の勝ち上がりという山形には決定的に不利なルールでした。ロスタイムに山形GK山岸範宏がCKからヘディングでゴールを決めるという、ありえない奇跡が起き、山形が2-1と勝利して千葉と対戦する決勝進出を決めました。
山岸自身は、ニアサイドで競ってヘディングで後ろにすらした後は倒れ込んでいたので、ゴールの瞬間は見えていませんでした。ただ、とにかくニアで触って後ろへ流せば、誰か他の選手が触ってくれるかもしれないという思いだったようです。Jリーグ21年の長い歴史ですが、PK以外のGKのゴールは過去には一度(京都GK名前失念、自陣からの長いFK)しかない珍記録です。
これがきっかけで、久しぶりに山岸のことを思い出したので、思い出話のブログネタを書いてみます。山岸は2001年、J1に復帰したばかりの浦和に、中京大を出て入団します。当時、山岸はレッズフェスタの自己紹介で、「指示の声の大きさが売り物です」と、教員志望だった経験を生かして大勢の観客を前にしても堂々としていた姿が印象的でした。
当時はサテライトリーグという、埼玉県内の各地でレッズの二軍が有料試合を開いていた時代でした。山岸の姿は駒場以外にも鴻巣や川越などで見ることができました。地元熊谷市の出身の山岸は、地元応援団がいて、サテライトで太鼓片手に応援していた姿が印象的でした。無名時代の山岸は、テレビ埼玉のインタビューで「無駄にしていい日は一日もない」と、選手として過ごせる時間の短さを自覚していたコメントも印象的でした。
トップ出場は2001年からです。当時、長年浦和を支えていた土田、田北のベテランが引退し、後継者が求められていた時代を、西部(現川崎)と二人で引っ張っていました。のちに都築が加入して、厳しいライバル関係が構築されるのですが、当時の犬飼社長が言うには「優勝するためには代表クラスのGKが二人いなければいけない」という理由で、当時のJリーグで最も過酷なポジション争いでした。
安定感の都築に対し、山岸はPKを止めるなどのドラマ性が高く、都築が好きなサポと山岸が好きなサポが明確に分かれていました。今季は山岸は第3GKという立場だったので、出番を求めて山形に移籍しましたが、まさかここまでの活躍とは、さすが山岸と思います。山形に完全移籍するかもしれませんが、今後の活躍を期待したいです。
山岸自身は、ニアサイドで競ってヘディングで後ろにすらした後は倒れ込んでいたので、ゴールの瞬間は見えていませんでした。ただ、とにかくニアで触って後ろへ流せば、誰か他の選手が触ってくれるかもしれないという思いだったようです。Jリーグ21年の長い歴史ですが、PK以外のGKのゴールは過去には一度(京都GK名前失念、自陣からの長いFK)しかない珍記録です。
これがきっかけで、久しぶりに山岸のことを思い出したので、思い出話のブログネタを書いてみます。山岸は2001年、J1に復帰したばかりの浦和に、中京大を出て入団します。当時、山岸はレッズフェスタの自己紹介で、「指示の声の大きさが売り物です」と、教員志望だった経験を生かして大勢の観客を前にしても堂々としていた姿が印象的でした。
当時はサテライトリーグという、埼玉県内の各地でレッズの二軍が有料試合を開いていた時代でした。山岸の姿は駒場以外にも鴻巣や川越などで見ることができました。地元熊谷市の出身の山岸は、地元応援団がいて、サテライトで太鼓片手に応援していた姿が印象的でした。無名時代の山岸は、テレビ埼玉のインタビューで「無駄にしていい日は一日もない」と、選手として過ごせる時間の短さを自覚していたコメントも印象的でした。
トップ出場は2001年からです。当時、長年浦和を支えていた土田、田北のベテランが引退し、後継者が求められていた時代を、西部(現川崎)と二人で引っ張っていました。のちに都築が加入して、厳しいライバル関係が構築されるのですが、当時の犬飼社長が言うには「優勝するためには代表クラスのGKが二人いなければいけない」という理由で、当時のJリーグで最も過酷なポジション争いでした。
安定感の都築に対し、山岸はPKを止めるなどのドラマ性が高く、都築が好きなサポと山岸が好きなサポが明確に分かれていました。今季は山岸は第3GKという立場だったので、出番を求めて山形に移籍しましたが、まさかここまでの活躍とは、さすが山岸と思います。山形に完全移籍するかもしれませんが、今後の活躍を期待したいです。