Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

ミランチャンネル

2011-03-19 15:06:18 | ワールドサッカー
今はまだ震災関連の番組が多いのですが、たまには気晴らしも必要と、BS12chで放送されているACミランチャンネルという番組を見ています。少しはワールドサッカーを見るのも必要と、計画停電や物資不足で気が沈みそうになるところを救われています。

現在、ACミランはリーグ首位を走っています。長友がライバルのインテルに加入したため、ACミランは敵役のような印象になっていますが、このミランチャンネルはスカパーのワールドサッカーパックは高くて買えないというワールドサッカーファンにとって、貴重な情報源です。

ACミランやインテルといったビッグクラブになると、単に各国の代表だけにとどまらず、代表100試合とか代表キャプテンとか、代表最多得点者といった肩書き付きの選手がごろごろいます。ACミランもそういった海外の代表選手が多くスタメンに名を連ね、ガットゥーゾやピルロというイタリア人もいることはいますが、イタリア人の方が少ないチームです。

ACミランで最初に目が留まるのは、スウェーデン代表FWのズラタン・イブラヒモビッチ(以下イブラ)です。長身選手は足元が比較的苦手というイメージがありますが、イブラの場合は足元も比較的しっかりしていて、周りも良く見えていて周囲を使うこともできます。

イブラと2トップを組んでいる選手は試合毎に変わりますが、最近はサンプドリアから移籍加入したカッサーノが出ることが多いです。カッサーノはよく会長や監督ともめて放出されるトラブルメーカーとして知られますが、プレースタイルを見るととてもそういうわがままな選手には見えません。

カッサーノはもちろん自らもゴールを狙えますが、映像で見る限りでは「そんな狭いところを良く通せるな」と思えるような芸術的スルーパスの方が光る選手です。トラブルメーカーにありがちな個人技に走ることはほとんどなく、周りのために「奉仕」する選手です。

カッサーノが若手だった頃、「イタリア代表が1982年スペインW杯に優勝した日に生まれた」ということが話題になっていたことがあります。新星出現と、当時のマスコミは大いに期待したものです。今やベテランの域に入っていますが、まだ代表でもプレーできるはずで、代表姿も見たいものです。
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消えた夢(小錦)

2011-03-18 20:35:52 | 他スポーツ
世の中が地震と津波で大変なときにこんなことを言うのはあまり好ましくないかもしれませんが、今日計画停電で薄暗い家でぼんやり考えていたのは「そういえば不祥事や地震がなければ今頃大相撲春場所の5日目なんだな」ということでした。大相撲春場所がない寂しさは少しずつ出てくるかもしれないと不祥事のときに思いましたが、正直禁断症状気味です。

今は予想もしていなかったオフ状態なので、ブログもネタ不足の頃ですが、困ったときは昔の大相撲から掘り出すということで、引退直前は250kgを超える巨体だった元大関、小錦(現タレント)の思い出です。小錦は、高見山を輩出したハワイ出身の力士で、高見山と同じ高砂部屋に入門して驚異的な速さで出世します。

しかし、ハワイ出身の力士の中には、序の口を圧倒的な強さで優勝しながら、その翌場所はやめていたというような力士もいて、育て方が難しいことがあとで明らかになります。小錦が優れていたのは、相撲界の理不尽さに多少は呆れながらも、勝って結果を出せば誰も何も言わなくなる世界だということを十分理解していたことです。

前頭上位に上がったとき、初めて対戦した大横綱、千代の富士は小錦のことを「あの突っ張りは普通の人が足で蹴飛ばしているようなもの」とたとえていましたが、その圧倒的パワーだけでなく、的に当てる能力も高かった力士でした。立ち合いで小錦の突っ張りをまともに食らったら勝てないと言われていました。

当時は、こういうパワーを前面に出す力士は初めてで、相撲界の「黒船襲来」とマスコミに恐れられたほどです。正直、私も当時は日本の大相撲がパワー相撲に破壊されるのではと、何となく恐れを感じていたのも確かです。こういう力士は江戸時代にもいたらしく、当時無敵と言われた雷電為右衛門が今の力士で言えば把瑠都くらいの体型だったという伝説を聞きます。

今では把瑠都より大きい琴欧州がいますから、「何が黒船襲来?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、当時は日本人の平均身長が150cm台だった時代ですから、そこに197cmの把瑠都を持ってくれば、それは当時の力士にとっては恐るべき存在だったはずです。

そんなインパクトを、上を目指していた小錦には感じていました。その勢いで横綱にもなるだろうと多くの人が思っていたと思います。しかし、小錦は北尾との対戦で、相手の「さば折り」(決まり手の名前です)でひざを負傷してしまい、その後の相撲にも響く大きなハンディを負ってしまいます。

しかし、それでもそれを克服して大関に昇進して、長く大関を張りますが、どうしても負傷がちになってしまい、かど番の回数の多い大関というありがたくない記録(当時)も作ってしまいました。そのまま負傷なしで力士生活を送っていたらどんな力士になっていたのだろうという、永遠の謎を残したまま、小錦は最後は平幕で引退します。

そのパワーの威力は、後の曙で実感することになるのですが、小錦が出現したときは未知との遭遇だったので、余計に驚いた印象はあり、今でも印象的な力士です。
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中国サッカー

2011-03-17 16:39:33 | ワールドサッカー
昨日は会社が自宅待機だったので、G大阪対天津、C大阪対山東の2試合をこまぎれながら見ていました。中国サッカーはスピードよりパワーを重視するのは、アジアカップの中国代表のプレーを見ていれば大体想像がつきます。

中国代表は長身FWを1トップに置いて、そこにアーリークロスを送り込むスタイルで、カタール戦ではその1トップがキープができないと見るや、監督が前半のうちにそのFWを交代させるなど、パワー重視のスタイルは見て取れます。

天津、山東ともクラブチームなので3人の外国人枠がありますが、天津はアルゼンチン人の長身FWに、セルビア人のパワフルなCBと、パワーサッカーに有利なタイプを置いています。山東もCB2枚が両方外国人で、パワーサッカーを意図したように思えます。

しかし、山東のサッカーは2007年アジアカップの中国代表のエースストライカーの韓鵬を持っていながら、売り物は取ってからの速いカウンターという中国らしくないチームです。

中国のテレビ局が作製した映像では、リプレイが入ってカウンターの起点が映らないこともありますが、結果は点にならなかったものの、PKを取ったシーンはC大阪のDFが間に合っておらず、スピードで勝ったチャンスでした。

結果的には中国でアウェイ戦を戦ったJリーグの2チームは両方敗れました。天津のグラウンドは芝生が正方形状にはげていて、G大阪の得意なパスサッカーはやりにくい環境でした。ただ、日本の大地震で精神的にサッカーをやるのが辛い状態にあることを考えると、負けたとはいえ得失点差をマイナス1で抑えておいたことは今後につながるでしょう。

ACLのルールは今後どうなるか分かりません。日本の4チームは最悪、全試合アウェイで戦うようにAFCから指示が出るかもしれません。大阪の両チームからはとりあえず目前の試合をなんとかしなければという必死さは伝わってきたと思います。
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FKキッカー列伝

2011-03-15 13:18:57 | ワールドサッカー
Jリーグは3月いっぱいの中止が決まりました。正直、こんな状況ではサッカーどころではないでしょう。節電が叫ばれている今、サッカーのために夜間照明をつけるのはひんしゅくでしょうし、サポが確実に交通機関を使えるようになるまではできないでしょう。

今日もオフネタで、FKにまつわる昔話です。世界一のFKキッカーは誰かと言えば、史上最強は旧ユーゴスラビア代表DFのシニシャ・ミハイロビッチ(現フィオレンティーナ[イタリア]監督)だと思います。

ミハイロビッチはCBでしたが、当時は映像がハイビジョンではなかった時代なので、DFとしての能力には目が行きませんでした。しかし、FKキッカーとしては毎年コンスタントに二桁ゴールを決められる強力なキッカーでした。

ミハイロビッチの優れた点は、140kmとも言われる強烈なキックスピードでした。チームメイトのGKと紅白戦をやるときは、味方をケガさせたくないと、キックスピードを加減していたという話です。そのキックスピードで、ミハイロビッチは一つの伝説を残しています。

それはセリエAのラツィオ時代で、史上初の「FKだけでハットトリック」という快挙を成し遂げたことです。運良く、味方がもらったファウルがほぼ同じ位置で蹴りやすかった事情はありますが、それでもミハイロビッチの名前を世界中にアピールした快挙です。

FKは壁があるので、本田圭佑や中村俊輔という日本人では名手と言われる選手でも、時折壁に当てるキックもあります。このときのミハイロビッチはほぼ百発百中の精度だったと思われ、スピードもコントロールも備えていました。

浦和のFKキッカーで思い出に残っているのは、広瀬治現浦和コーチと、阿部勇樹現レスター(イングランド)です。広瀬はアビスパ福岡とのアウェイ戦に強かった印象が残っています。2年連続で博多の森でFKでゴールを決め、当時のオジェック監督の起用に応えます。

阿部勇樹の場合はどちらかと言えば守備力が売り物の印象ですが、有名になったのは五輪代表時代のFKで、浦和でも年間1点はFKで取ってくれるキッカーでした。今年加入したマルシオ・リシャルデスはその両者を超えるインパクトを見せてくれるはずと、期待しています。
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どこでもできる(ペトロビッチ)

2011-03-14 08:39:55 | 浦和レッズ
現浦和監督、ゼリコ・ペトロビッチの現役時代の思い出です。ペトロといえば、今でも1998年フランスW杯でのユーゴスラビア代表のことが語られていますが、当時のポジションは左SBでした。浦和では一貫してボランチだったペトロだけに、この起用は浦和サポは大いに驚いたものです。

もっとも、本人は「僕はどこでもできるんだ」と涼しい顔だったようで、プロになるときも「右SB以外にポジションはない」と言われてすぐにコンバートしたように、CBとFW以外ならどこでもできそうに思えました。ペトロのFWに関しては原監督が負けている試合で前線に上げた一度だけ見たことがありますが、シュートはあまりうまくない印象でペトロのゴールは?と聞かれると思い出せないのも事実です。

ペトロは日本に来る前は、オランダのPSVアイントホーフェンに所属していました。オランダでは3強と呼ばれるビッグクラブで、今ここから選手を引き抜いてくることは不可能だと思います。本人は結構先走るタイプで、浦和との移籍交渉もまだ発表がないのに、「決まったから日本に行く」と言っていたくらいです。

日本でのペトロの印象は、熱くなる男ということです。ペース配分などは考えず、驚異的な運動量でピッチを駆け回り、相手のファウルには食ってかかる、不安に思った駒場のバックスタンドが「落ち着け、ペトロ」と叫ぶ危なさも持っていました。

2000年にシーズン途中で退団したペトロは、いつか指導者として日本に戻ってくると公言していましたが、本当に実現するとは思っていませんでした。熱くなって退席処分を受けないか、当時を覚えている浦和サポは危惧していると思います。また、指導者としてはまだ結果を出すところまでは行っておらず、日本で結果を出すことを目指すことになります。

今年の浦和は即戦力を補強していて、ペトロはある程度は結果が求められる立場です。それはわかっているとは思いますが、いつJリーグが再開してもいいように、準備だけは万全にして欲しいと思います。
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地方チームの快挙(ビチェンツァ)

2011-03-13 11:00:27 | ワールドサッカー
こんな大地震で、しかも関東地方も余震が次々襲う不安定な状況ながら、ちょっとこんなネタはどうかとも思いますが、Jリーグどころではない現状なので、海外サッカーがらみのオフネタにします。

1999年頃、セリエAで地方チームのビチェンツァが躍進し、一時首位に立ってリーグを沸かせたことがあります。地方チームのことを「プロビンツァ」というイタリア語で言うため、このビチェンツァの躍進でプロビンツァということばを覚えた方もいらっしゃると思います。

当時のビチェンツァのメンバーは、エースストライカーのオテロこそ当時の現役ウルグアイ代表と、ワールドクラスの選手でしたが、それ以外の選手はキャリアのほとんどがセリエB以下という選手ばかりでした。4-3-3のシステムを引いたビチェンツァのサッカーは、引いて守るスタイルの多いイタリアでは異例の、運動量を多くしたプレッシングサッカーでした。

今でもウディネーゼで指揮を執っている名将グイドリン監督が指揮した当時のビチェンツァは決して若手ばかりのチームではなく、3ボランチの真ん中のディ・カルロのように30歳を過ぎて初めてのセリエAというベテランもいましたが、そんな選手にもハードワークを要求した、面白いチームではありました。

ビチェンツァといえば、かつての大スターR・バッジオが16歳のときにプレーしたプロデビューのチームです。当時はセリエCだったのですが、ビチェンツァがセリエAに上がり、R・バッジオも長く現役を続けたので、ボローニャの一員としてビチェンツァのホーム、ロメロ・メンティスタジアムに乗り込む、夢の対決が実現しました。

残念ながら、イタリアだとこういう努力と工夫でのし上がってきた地方チームがあると、主力をビッグクラブに引き抜かれてしまいます。毎年のように主力選手を引き抜かれたビチェンツァは、さすがに穴を埋めきれずセリエBに降格して、未だに復帰を果たしていません。

そんなチームでも、イタリア杯を優勝したり、欧州カップウイナーズカップで4強に入ったりと、あの当時は夢のような時間だったかもしれません。こういうチームがまた現れて欲しいと、たまにセリエAの映像を見ると思ったりします。
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大停電の夜

2011-03-12 20:29:48 | 雑記
昨日の地震は仕事中に起きました。最初はすぐ収まると思って、無視して仕事を続けようとしましたが、直後の停電で事の重大さを理解しました。私の会社は停電すると困る装置を多く抱えていて、海外進出の際も「無停電電源を提供できること」にこだわったほどです。

それほど無停電にこだわる会社が停電を出したことは、並大抵の事態ではないと自覚しました。幸い、夜ではなかったので、職場の様子は見えました。避難訓練を実際にやっていたように、整然と避難は完了しましたが、中には現場から直接避難して、作業着のままの人もいました。

私の仕事はPCを使う仕事なので、停電はすなわち、仕事にならないことを意味します。職場の先輩も、「帰れる人は帰れ」という雰囲気だったので、私も最寄り駅は電車が動いていないという情報は得ていたので、隣のターミナル駅を目指して30分の距離を歩きました。

しかし、この道中で、事態の重大さをさらに自覚することになります。信号機が全てストップしていて、警察官が手旗信号で車を通し、マクドナルドや松屋などもすべて営業を休止していました。唯一、駅のコンコースだけが電気が通っていたので、とりあえず買えるものは買っておこうと、ペットボトルのお茶や和菓子なども買っておきました。

電車は動いていませんでした。歩いて帰れるような距離ではない我が家に帰る道は、これでほぼ断たれました。それでも、線路の点検をしているという場内放送を信じ、しばらく待っていましたが、近くの高校の避難所に移りました。たぶん食べ物などは十分行き渡らないだろうと思っていたので、和菓子が効いてくるかもしれないと思っていました。

夜を迎え、JRが本日中の運行再開を断念するという連絡が入ったのは、その避難所でした。これで、たとえ残る私鉄が運行を再開しても、家には帰れません。また、避難所の電気は自家発電なのですが、燃料が4時間分しかないという連絡も受けました。これでは避難所は真っ暗になってしまいます。トイレにも思うように行けなくなると思った私は、30分の道を逆にたどり、会社に戻る道を選択しました。

この帰り道が、「大停電の夜」を痛感することになります。停電ですから、ありとあらゆる電源が入っていません。街灯も信号機も、周囲のマンションもすべて真っ暗です。それでも、車は普段のように走っていましたから、ヘッドランプの明かりで一瞬だけ見渡せます。普段はまぶしくて迷惑な存在のように見えた車の光を、初めてありがたく思いました。

道が真っ暗だと、向こうから来る通行人も思うようには見えません。慌ててよけることもあったので、もし無灯火の自転車が突っ込んできたら轢かれると思ったくらいです。幸い自転車は皆明かりが付いていたので、暗い道でいつもよりはっきり見えるオリオン座の勇姿に目をやりながら、会社に戻ることができました。

会社では、帰宅困難者を集めて、厚生施設で休憩していました。直接の同じ会社ではありませんでしたが、系列会社のよしみで、よそ者の私を受け入れていただき、ピザやフライドポテトなどを食べさせてもらいました。ここで朝まで過ごせば、翌日はきっと帰れると、人の温かさに感激していると、浦和方面の人がいたら車に乗せて行くという話があり、なんとこの夜に自宅に帰ることができました。

いろいろな人に助けてもらって、家に帰ってニュースを見ると、東北地方の被害状況は深刻で、私はこんなもので済んでよかったと言うべきです。普段明るい街が、突然暗くなるとどうなるか、地震の恐ろしさを痛感した夜でもありました。
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右利きだった左SB(相馬直樹)

2011-03-10 19:08:38 | 他チーム
現川崎F監督の相馬直樹氏の現役時代の思い出です。日本代表では左SBしかやったことがない相馬ですが、本来の利き足は右という意外な事実があります。ただ、鹿島に入団して1年目から試合に出ていた相馬ですが、ポジションは左SBでした。

左足で蹴れるようになったのはプロ入り以前で、努力で作った左足の中では最強と言われていました。相馬が鹿島に入団した当時は、今のように日本人がインテル(イタリア)でプレーするなど考えられなかった時代ですから、強豪鹿島の左SBがそのまま日本代表の左SBということになりました。

相馬と言えば、フランスW杯の左SBというイメージが最も強烈です。あの苦しんだ最終予選のアウェイ韓国戦でタイミングよく上がった相馬からのクロスを名波が決めた先制点は今でも覚えています。

あの当時は1週間に1試合ホームアンドアウェイの代表戦をやるという、今では考えられない強行日程でしたから、日本代表のコンディションも全ての試合でベストという訳にはいきませんでした。相馬も良くない試合もありましたが、負けるとW杯に出られなくなる崖っぷちの韓国戦に好調を持っていった勝負強さはありました。

プレースタイルの印象は、決して身体能力がずば抜けていた訳ではありませんでしたが、クロスの精度を高くしたり、相手のキーマンを消したりと、堅実さで勝負する選手でした。ただ、鹿島時代に重傷を負って穴埋めにアウグストを補強されてからは、下り坂に入った印象があります。

また、全くの偶然ながら、相馬の現役最後の試合は埼玉スタジアムの川崎F対浦和戦だったので、私は見ています。その試合は川崎Fが退場者を出していたので、相馬は「自分の仕事は守備」と割り切り、現役最後のゴールは狙いませんでした。

今回の川崎Fからのオファーは抜擢人事という印象もありますが、昨年のJFL町田ゼルビアで3位と結果を出したことが評価されたのでしょう。これからはアジア予選を通過して世界と戦った元Jリーガーが監督になってくる時代です。

当然、選手に対する要求も高くなってくるでしょうし、今はヨーロッパのスカウトがJリーグを見に来る時代ですから、選手の側の意識も高くなっているでしょう。そうやって日本サッカーが強くなって欲しいと思います。
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G大阪戦プレビュー

2011-03-09 18:59:14 | 浦和レッズ
今週の土曜日、浦和はホーム埼玉スタジアムでG大阪と対戦します。よりによってこんなときにG大阪と当たるとはというのがサポとしての本音で、開幕戦を勝ち点0で終わったことで、この試合で勝ち点1でも取っておかないと、うまくいかなかったときにペトロが空回りするのではと、チーム状態が心配になります。

G大阪はFWにC大阪からアドリアーノを補強しています。C大阪時代の印象は個人技のあるFWというもので、アウェイで対戦したときに驚異的なテクニックを見せられて失点しています。しかし、ホームでの対戦では真ん中を厳しくマークしたら苛立ってサイドに流れ始めています。

誰がアドリアーノをマークすべきかはペトロとしては悩むところで、山田暢久は個人技のある相手は比較的苦手、スピラノビッチは足が遅いとそれぞれ弱点があります。前節ベンチ外の坪井がいきなりスタメンという可能性もあります。

去年までルーカスがやっていた、FWでもサイドハーフでも出られる便利屋には、今年は背番号が33から11になった宇佐美が名乗りを挙げたようで、開幕戦は左サイドハーフでのスタメンでした。彼も個人技があるので、山田暢久だと不安です。

また、G大阪は左SBの安田がオランダに移籍して抜けていますが、不在時に穴を埋めていた下平がいるので、そんなに戦力ダウンは大きくないと思います。ここは絶好調の田中達也と当たる重要な位置なので、下平対田中達也は試合の流れを分けることになります。

また、昨年から山口がスタメンを外れ、高木、中沢のCBが試合に出場することが多くなりました。二人とも高さのあるCBなので、この二人に挟まれる格好の1トップのエジミウソンは苦労しそうです。もっとも、昨年アウェーで一時同点になるゴールをG大阪から決めているエジミウソンは苦手意識はないかもしれませんが。

浦和はCBと左サイドハーフが現時点では未定のポジションでしょう。CBについては先ほど触れましたが、左サイドハーフにマゾーラを持ってくる采配はありうるかもしれません。スカウティングはしているでしょうが、実際に当たる選手にとっては突然あのスピードを誇る相手が出てくれば戸惑うかもしれません。もっとも、栃木が弱点をあぶりだしたので、G大阪も同じ手で来る可能性は高いですが。
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サンシーロ(ミラノ)

2011-03-08 18:48:12 | ワールドサッカー
長友が初ゴールを決めた、ACミランとインテルがホームを共用するミラノのサンシーロスタジアムも、私にとっては思い出の地です。1996年に行ったので、当時の日本には横浜国際も埼玉スタジアムもなく、その8万人収容の規模で十分驚きの存在でした。

1990年イタリアW杯で開幕戦のアルゼンチン対カメルーンが行われた地で、当時はカメルーンが世紀の番狂わせと呼ばれた勝利を収め、その後ベスト8まで勝ち上がります。私が見た試合はインテル対アタランタというカードで、インテルが当時二桁順位と低迷していたのでスタジアムには空席が目立ちました。

しかし、それでも大宮を除けば初めての経験だったサッカー専用スタジアムで、席も一階席の前から10列前後の良席で、当時インテル唯一のワールドクラスだったブラジル代表のロベルト・カルロスが五輪代表の予選で欠場していたマイナスはあるにせよ、楽しめました。

このサンシーロスタジアムは、当時としては画期的な発想だったバリアフリーを導入したスタジアムでした。イタリアW杯のときにスタジアムに3階席を増築する工事が行われたのですが、このときに螺旋状のスロープを付けた4本の太い柱を立て、この柱で屋根を支える構造になっていました。

このスロープを上れば車椅子でも上の席に行けるので、バリアフリーの走りでした。この屋根のおかげで、ほぼ全席濡れることがなく、セリエAのツアーが雨の用意を全くしていないことに最初は驚きましたが、スタジアムを見て納得しました。

ただ、当時は世界でも珍しかった屋根付きスタジアムですから、サンシーロスタジアムには芝生の育成が難しいという重い課題がありました。屋根を付ける前と比べて風通しが極端に悪くなったので、当時サンシーロの芝はイタリアで最悪と言われたほどです。

私は試合の翌日、スタジアムツアーで無人のサンシーロに行ったのですが、芝生の状態に関してはスタジアムを管理する側にとっては神経質になっていたらしく、芝生の上にはビニールシートが掛けられていました。

席の幅も広く、発煙筒から出る煙が充満するゴール裏にさえ入らなければ、周りの観衆を恐れる必要はありません。指定席に入るイタリア人は普通の人です。ただ、相手に悪質なファウルがあると、人が変わったようにすごい声を発しますが。
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