午後2時~4時、隔月開催の「湾岸親鸞講座」に出かけました。
講師は、大谷大学准教授・木越康先生。
テーマは、『正像末和讃』を読む。
本日は、愚禿悲歎述懐の和讃と阿闍世の物語を教えていただきました。
「教行信証」信巻に次の有名な文があります。
耆婆、答えて言わく、善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて 「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。
「無慚愧」は名づけて「人」とせず。
厳しい言葉ですね。
親鸞さんの教えは、厳しい慚愧から智慧の念仏がおこると述べています。
で、3・11以来の政府・東電・体制側の学者の方々は、自分の内に「慚愧」の念をもっていないような発言に終始しています。
昨日の、野田首相の「収束」宣言からも、慚愧の念は一向に感じられません。
しっかりと現実を直視し、国民に対して慚愧の態度を示してから本物の復興が始まるように思います。
傷口をバンドエイドを貼り重ねて、「収束」は無いものです。
政府も東電も関係の学者の方々は、真実を正直に語り、「人に羞じる」「天に羞じる」ところから、真の建設的な取り組みができると思おうのです。