区立図書館で、
『金子大栄随想集 第一巻』を借りて読んでいます。
本書から、「不可思議光」について【落穂拾い】しました。
反省によってあらわれる南無の心は、必然に南無阿弥陀佛にむかうのであります。
しかし、その阿弥陀佛とはいかなるものであるかは、まだ説明しないのでありますから、
今の分はただあるものでよいのであります。
何物かの前に合掌礼拝する、それが人生の自覚においてあらわれねばならないものであります。
そのあるものはおそらく「光」と呼ばれるべきものでありましょう。
帰依の心は不可思議なる光の前に、あらわし出された暗の自己を見るからです。
しかし我等は、その光の何たるかを究める前に、深くわが暗に眼覚めねばなりません。
真に暗を知る心は、そのまま光にむかわしめるのであります。
まことに不可思議な光であります。
それゆえ親鸞は、南無不可思議光如来と呼ばれました。
それこそは親鸞の自性の反省であり、人生苦における心証であったのであります。
そればこの帰依の道は、決してかぎられた人の特別なるものではありません。
たといその道を行く人は少なくとも、道それ自体は何人といえども必ず行かねばならないものであります。
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