尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「おとなのけんか」

2012年03月02日 21時52分57秒 |  〃  (新作外国映画)
 ロマン・ポランスキー監督がヤスミナ・レザの舞台劇を映画化した「おとなのけんか」。これが滅法面白い、大人の映画になっていて、見落とさないようにお勧め。時間が短いのもいいですね。1時間19分。

 セリフのある俳優はたった4人。二組の夫婦のみ。場所も一方の夫婦のマンション。ほぼそこに限定された映画である。いかにも舞台劇の映画化で、そういう時にはセリフの応酬は面白いが、時空を超えていける映画の特性が生かされないで終わる場合も多い。でもこの映画は、カメラが始終動き回り、細かいカット割りをして、クローズアップをうまく生かすなど監督の才気が生きて、映画化が成功している。

 この戯曲は「大人は、かく戦えり」の題名で日本でも昨年上演された。僕は見ていないが、評価は大変高かった。日本のキャストは大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実の4人。映画では、ジョディ・フォスター、ジョン・C・ライリー、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツの4人になる。どちらも最初の二人が「被害児童の親」、後者が「加害児童の親」。ジョディ・フォスターはもちろん「羊たちの沈黙」でオスカー。(「告発の行方」と2回受賞。)ケイト・ウィンスレットは「愛を読む人」(「朗読者」の映画化)でオスカーだが、「タイタニック」の彼女と言う方が判りやすいか。クリストフ・ヴァルツと言う人はオーストリアの俳優だけど、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」のナチス将校役が抜群で、カンヌ映画祭男優賞、アカデミー賞助演男優賞と言う人。ジョン・C・ライリーと言う俳優は受賞はしていないが「シカゴ」で助演男優賞にノミネートされている。そういう芸達者が応酬を繰り広げるさまは、まさに圧巻

 ことは「子供のケンカ」である。一方が公園で棒でなぐってもう一方の歯を二本折った。ということであるらしい。せりふでしか説明されないけど。で、加害児童の親がそろって謝罪に訪れる。初めはおとなしく良識的に始まったかに思われるのだが、ハムスターだのなんだのいろいろからんできて、つい長居してしまい、だんだん収拾がつかなくなる。ヴァルツにはひっきりなしに携帯電話がかかってくるが、弁護士で薬害問題を抱える製薬会社に悪知恵をつける仕事らしい。これが皆をいらつかせ、ついには妻が切れてしまうあたりでケンカも最高潮に達する。夫婦のケンカのはずがが、夫どうし、妻どうしの結託も起こり、それぞれの本性が丸裸になっていく。みなインテリで良識的だったはずが、その仮面の下が見えてくる。

 映画ならではのシーンが連発して場内は笑いが絶えない。なんだ、これと言う感じだが、不思議に後味は悪くない。取り繕ったタテマエの話より、ホンネは常に面白いと言うことか。人間の生の姿は、美しいだけではないが、それでもどこか可愛らしいということか。

 ロマン・ポランスキー監督は、去年公開の「ゴーストライター」がキネマ旬報ベストワンになった。僕はそれほど優れているかなあと疑問もあるが、「戦場のピアニスト」と並んで21世紀に2度のベストワン監督になった。ポーランド生まれのユダヤ人、母はアウシュヴィッツで死亡。共産党治下のポーランドで評価されず、イギリスに渡るがハリウッドに呼ばれ、女優シャロン・テートと結婚するも、1969年カルト殺人者のチャールズ・マンソンに妊娠中の妻を殺される。1977年にジャック・ニコルソン邸で13歳の少女と性関係を持ったとして逮捕、起訴。保釈中に映画撮影と称してヨーロッパに出国し、未だにアメリカに帰れない。2009年にはスイスで身柄拘束されるなど、アメリカからは逃亡犯扱いを受けているという、波乱万丈すぎる人生を送っている監督である。普通の人生の何十倍も濃い。

 僕個人の好みを言えば、70年代の「マクベス」「チャイナタウン」「テス」あたりが最高傑作ではないかと思うのだが、最近の映画も演出や編集のうまさにはうならされる。小品だが傑作。
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イスラム教の基礎理解②-緊迫!イラン情勢⑦

2012年03月02日 00時44分24秒 |  〃  (国際問題)
 仏教とかキリスト教がいつ成立したか、正確な年代は不明なわけだけど、イスラム教に関しては西暦622年成立とはっきり決まっている。610年ごろに、メッカ(これも最近は「マッカ」という表記が多くなってきた)の商人ムハンマドが天使ジブリール(ガブリエル)から神の啓示を受けた。しかし、メッカでは従来の多神教的な伝統が強くて、迫害されたムハンマドらは622年に北方のメディナに本拠地を移した。これが「ヒジュラ」(聖遷)。この年をイスラム暦元年とする。イスラム暦は「月のカレンダー」(太陰暦)で、現在は1433年。

 ということで、イスラム教は他の大宗教に比べて成立が新しい。イスラム教に対して「危険な感じ」を持っている人も世界には多いんだろうけど、それもこの成立の新しさ、つまりまだ生き生きとして拡大期にあるという事情が大きいのではないか。仏教やキリスト教は、もちろん個人的に新しく信者になる人はいるけど、イスラム教のように今もどんどん増えている感じはしないだろう。(アフリカ大陸では、今までの北アフリカだけではなく、中部の黒人国家でもイスラム教が広まっている。ナイジェリアでは南部のキリスト教徒との間でテロが続いている。)

 宗教と言うのは「信じる」という行為だから、他人からすれば「よくわからない」部分はあるし、その教義を社会全体に適用されると「迷惑」「危険」な場合がある。アメリカ合衆国では、「キリスト教原理主義者」が相当に政治的な影響力を持っていて、「宗教右派」と呼ばれている。(妊娠中絶に大反対、死刑制度に大賛成で、矛盾があるんじゃないかと僕には感じられるんだけど。)それに対して「イスラム原理主義」という言い方もあるが、これは本来はおかしい表現である。なぜならキリスト教には、聖書の中で現代人から見ると「何だかなあ」という部分(復活とか処女懐胎とか)は別にしてしまって、それ以外を信じるみたいな考え方もあったから「聖書に帰れ」という一派が出てくる。しかし、イスラム教では「神の言葉そのもの」である「クルアーン」を人間がいじり回すことはできない。解釈をめぐって法学者に対立が起こることはあっても、「クルアーンに帰れ」などと言う発想が出てくるはずがない。

 だから「クルアーン」が人間に課した戒律をきちんと守り、助け合い、義務である礼拝、断食、巡礼、喜捨を果たして生きている、そういう穏やかなイスラム教徒(ムスリム)が大部分。人間だから完全な人はいないにしても、世界で10億人以上が信じていて、そのほとんどは特に政治的でも思想的でもない平和な人々に決まっている。日本だとお寺に行ったことがない人はいないだろうし、キリスト教の教会に行ったことがある人も多いだろう。でも、イスラム教の礼拝施設(モスク)に実際に行ったことのある人は少ないだろう。モスクは東京にもある。新宿の近くの代々木上原というところにある「東京ジャーミイ」である。誰でも見学ができる。とても敬虔な空間で、落ち着いた心を取り戻せるような場所である。建築美術的にも美しい。ミニスカートなどではダメで、上から長いスカートを履くように求められる。(用意されている。)女性はスカーフの用意もある。

 さて、ヒジュラ以後イスラム教は拡大を続け、630年にはメッカを奪回する。632年のムハンマド死後、イスラム共同体内の協議で「預言者の後継者」(カリフ)が選ばれることになるが、第4代カリフのアリーが661年に暗殺されると、シリア総督だったムアーウィヤが実力でカリフを名乗り、世襲王朝を開始する。これを認めるかどうかが、イスラム教の二派の違いとなる。あくまでもアリーの系譜だけを認めるとするのが「アリーの党派(シーア)」という意味で「シーア派」と呼ばれるが少数派。やはり実力者を認めてしまうのが世の常と言うべきか、多数派は「慣行」(スンナ)に従う人々という意味で「スンナ派」。スンナに従う人々をスン二と言って「スンニ派」とも言う。マスコミは大体そっちだけど、これも教科書ではスンナ派が多くなってきている。

 その少数派のシーア派を国を挙げて信仰しているのが、イランである。そして、イランの隣国のイラクやバーレーンではシーア派の方が多いという。サウジアラビアなど湾岸諸国にも比較的シーア派が存在する。イランがイスラム革命で宗教国家となると、イラクやサウジアラビアなどでは、「革命の輸出」によって自国の政治体制に影響が及ぶのを恐れた。イラクはスンナ派のフセイン体制を米英が打倒して、選挙によって政府を作ることになって実際にシーア派勢力が最大勢力になっている。(首相をシーア派、大統領をスンナ派のクルド人という体制で一応の「国家的まとまり」をつけている。)だから、イラン対イスラエルというと、全イスラム教国がイランを支援するわけではないだろう。
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