尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

六本木高校でのお仕事①

2012年03月28日 23時12分38秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育に関しては現場感覚とずれた言説が横行していると教師のほとんどは思っているだろう。では自分で発信すればいいと言うかもしれないが、現職だと多忙だったり制約があったりする。それに教師の楽しさやつらさは生徒の固有名詞抜きでは伝わらないことが多い。もちろんそういうことはここでも書かないけれど、ちょっと六本木高校での仕事のことを書いてみようかなと思った。退職して1年近くたち、前の学校の話を書く期間もそろそろ終わりにしたいと思うし。六本木高校の場合は特殊性が多く、生徒を語ること以外でも語れることが多いのである。

 去年辞める前に「最後の授業」と名付けて生徒や卒業生には伝えたいことを語る機会があった。(それはこのブログにも書いた。昨年3月のところを探してください。)でも教師の仕事に関しては語る機会がなかった。実は少し思い返していたんだけど、送別会みたいな場ででも言おうかなと思っているうち震災でそういうもの自体がなくなってしまった。ブログでも、教員免許更新制に関する一般論はずいぶん書いたけど、あのころの気持ちとしては津波被害や原発事故のことが大きくて、教師としての自分を振り返って伝えるというような気持ちにはならなかったのである。

 大体の高校で思い出話を語ると言えば、「修学旅行の担当として北海道旅行を成功させた」とか「クラスの文化祭でお化け屋敷を成功させた」とか、そういうことになるだろう。でも六本木高校に開設二年目で赴任した時は、「そもそも本校で修学旅行を実施すべきか」とか「文化祭は有志参加でいいか、クラスではどう指導するべきか」などの議論を行っていた。開設当初の「チャレンジスクール」として、生徒理解を深める研修も多かったし、精神的に不安定な生徒もかなり見られたと思う。すべては手探りで、生徒実態を理解しながら授業、行事、部活動などのあり方を初歩から議論して作り上げていったわけである

 今いる生徒はあまり感じないと思うし、最近異動してきた教員にも伝わってない部分もあるのかと思うけど、そういう「神話時代」みたいな時もあったわけである。もっとも本当に大変だったのは、教員数も少なかった開設1年目らしい。二年目で教員数が倍増した時に赴任したので、ちょうど様々なルールや授業のあり方が整備されていくときに参加することになった。六本木には特別な授業が沢山あるけれど、それらも誰かが中心になって設定し、カリキュラムを整備していったものである。例えば「福祉活動」「ボランティア活動」「生活実践」「地域研究」「産業社会と人間」といった全員に登録を義務付けている科目があるが、それらの科目でやることも、誰かの教員が主導的に作り上げていった歴史がある。

 僕のやっていた「人権」という科目なども、そういう意味では僕が生徒にふさわしいものをと考えて作って続いてきたものである。別にそれを変えてはいけないなどという風には思わない。生徒実態も学校に求められるものも少しずつ変わっていくと思うし。開設10年目に向け変えるべきところがあれば変えていって欲しいと思うし、現に変わっていったものもある。対外的に大きなものとしては「入選時の作文のあり方」がある。また「学校外の学修」(検定等を単位認定する仕組み)を、何かの科目の増加単位にしていたのを、それだけで単位認定することに変更した。(これだけではよく判らないと思うけど。)また行事としては「スポーツ・フェスティバル」が新設された。こういうのも、まあ全員で議論したんだけど、やはり主導する人がいたから変わっていったということだと思う。

 さて、僕が思っている一番の仕事は、たぶん多くの人には意外なのではないかと思うけど、「2期生文集を作ったこと」である。これはその後、3.4.5期と続いてきたので、ぜひ続いて行って欲しいなあと思っている。今は生徒のお金で印刷して全教員に配布することができなくなったので、まだ見たことがない人もいると思うけど、3年卒業生が出るときにそういうものを作っているのである。多くの学校では(自分が勤務した中学や全日制高校では)、卒業時に「卒業アルバム」があった。しかし、六本木高校は生徒数も少ないし、そもそも一緒に入った生徒が一緒には卒業していかない。卒業生だけのアルバムを作っても知らない生徒ばかりになるし、卒業が決まるのも3月になってしまう。ということで、卒業時に生徒の思いを残すものが作りにくいのである。でも、入学式以来、各年次の始業式や行事などで撮りためた写真はかなりあった。(「写真」という授業もあるのである。)それらをなんとか生徒に還元できる方法はないかなあと僕はずっと思っていたのである。

 六本木高校のような完全な単位制高校でも、生徒の基盤にあってまた一番友人となるのは、同じ時期に入って勉強した同期生だと思う。3年卒の生徒が出た後で文集を作っても意味ないから、卒業しない生徒も含めて、3卒の時期に文集を作るしかない。そう思っていたので、年次会(「学年」ではなく「年次」と呼んでいるので、学年会ではなく年次会)で提案したところ、大方の賛同をえて卒業行事全体の活動の中で進んで行くことになったのである。ただし文集の編集そのものにはタッチしていない。でも、今の文集の形式には、僕の今までの経験が生きている。最初に勤務した松江二中でも、高校で最初の荒川商業(全)でも、アルバム以外に卒業文集を作ってきた。というより、松二では何かというと行事終了後とかに作文を書かせて文集にしてきた。それから学んだことが大きいのである。一方、高校ではそういうのは無理かと思っていたら、作ろうという声があって各学年で作ることができた。その後僕は生徒会担当になって生徒会誌を編集したのだが、そこでは冒頭に行事等の写真を載せるカラーページを作った。それが直接には、六本木の文集の体裁に生きているのである。

 墨田川高校(定)に異動したら、さすがにここでは文集を作るということは難しそうな感じがしたが、卒業アルバムはなんとか作っていた。20人も生徒がいないから業者には頼れないので、卒業担任が手作りしていた。これにはちょっとびっくりしたが、生徒にとって思い出に残るものを作って残すということは大切だなあと感じたものだった。自分の学年では生徒や教員の顔写真、学校の様子などをデジカメで撮り、行事の写真などはスキャナーで取り込んで、パソコンで制作してみた。やればそれなりに形の整ったものができるものだ。夜間定時制でも作ったんだから、僕は最初から六本木の生徒でも作っておきたかったのである。

 これらの文集、アルバム等の経験、作った思いが、六本木の「2期生文集」には生きているのだということを僕は伝えておきたいのである。特に、一番素晴らしかった91年3月の松江二中卒業生。彼らが作った文集が六本木の編集委員にも好評で、これみたいなものを作ろうということになった。その文集の中からいくつか気に入ったものをコピーして、「文例見本」の書き方例のプリントが作られ配布された。そうして、僕が参考にしてほしいと渡した過去の生徒の努力が、今も六本木高校の文集の中で生きているのである。僕はそういう喜び、学校を超えて生徒の思いが伝わっていくという喜びが教師にはあるんだということをここで初めて学んだのである

 今年も卒業式が終わった後で、みんなが文集の後ろの方の白紙に一言を書きあっていた。やはりそういうものが必要なんだと思う。そういう様子を見ていて、今までの生徒との関わりが今も生きて伝わっていることが僕はうれしかった。だから、僕は敢えて自分の遺した仕事の第一に「二期生文集」作成を提案したことをあげたいと思う。(この項続く。)
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