戦後日本の思想界に大きな影響を与え、安保反対や全共闘運動に揺れた1960年代に「反逆する若者たち」のカリスマ的存在だった詩人・評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが、16日午前2時13分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳だった。(朝日新聞)
追悼するほど読んでないけれど、重要な存在ではあったので、そういう人は書いておきたいなと思う。ずいぶん長く生きたように思っていたけれど、まだ80代だったのだな。60年安保の時にブントと行動をともにして逮捕までされた。総括として書いた「擬制の終焉」で既成左翼、特に日本共産党を激しく批判し、新左翼の教組的存在となった。「自立の思想」を唱えて、そのころの若者にとってはマルクスやサルトルなみの思想家と思われた。多くの人が「共同幻想論」などをかかえていたが、わかったとは思えない。(吉本をかかえて歩いていた人は本当にたくさん見た。)
高校時代だったと思うけど、何かの全集に入っていた「転向論」を読んで全く歯が立たなかった。大学時代に講談社の「現代の文学」に入っていた「共同幻想論」を読んで、これも少し読んで判らないのでやめた。でもこの時に「転向論」を再読したら、実によくわかった。こういう意味だったのか。「問題意識」がないと何も判らないのである。その後、「共同幻想論」や「言語美」なんかが角川文庫に入ったときがあって、これも買ってあるけど、まあそのままである。同時代的には、81年の「最後の親鸞」まではかなり注目していたけど、82年に「反核異論」を出したのを見て読まなくいいという気になったのである。
「転向論」(1958)というのは、戦前の共産党幹部が共産党批判声明を出して「転向」した問題を扱う。一貫して「転向」せずに「獄中18年」を過ごし戦後釈放された「非転向幹部」もいて、当時は思想や党派は違っても、かれらを「英雄視」していた時代である。しかし、吉本は日本的現実に屈服し「日本主義者」として右翼活動家になってしまった元幹部と、日本的現実に目を閉ざし外国の理論に閉じこもることで「非転向」を貫くことは、思想のあり方としては同じなのだというテーゼを出している。日本的現実に真っ向から立ち向かわずに、屈服するのと断罪するのは同じ思考回路であると。そして、中野重治の「転向」後の小説などに、日本的現実と向かい合う苦悩を読み取り、そこに可能性を評価している。僕は浪人時代に、中野重治の「村の家」を初め、「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」などを読んで大変感動した。そのことがあったので、この中野評価へいたる論理が納得できる思いがした。この論文のロジック、現実と向かい合わずに、全面屈服するのと全面断罪するのは同じだという発想は、その後の僕に大きな影響を与えてきた。基本的には今も大賛成。
でも、そういうことなら、80年代以降の消費社会の全面擁護などが判らない。まあ、ちゃんと読んでもこなかったけど。日本の大衆を全面的に信じる、などということは僕にはとてもできない。日本だろうと、どこだろうと、大衆だろうと知識人だろうと。それと池袋にあった芳林堂でときどき「試行」を見ていたが、あの罵倒の激しさはかなわないなという感じだった。
ところで、でも、僕は昔、詩をよく読んでいて、50年代の詩は素晴らしいと思っている。ととえば…
ぼくが罪を忘れないうちに
僕はかきとめておこう 世界が
毒をのんで苦もんしている季節に
僕が犯した罪のことを ふつうよりも
すこしやさしく きみが
ぼくを非難できるような 言葉で (以下省略)
異数の世界へおりていく
異数の世界へおりていく かれは名残り
おしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと
なお欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかわる時の快感をしらなかったことに (以下省略)
涙が涸れる
きょうから ぼくらは泣かない
きのうまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のようなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す (以下省略)
50年代に書かれた、このような「硬質の叙情」はそれまでの日本の言語表現にはなかった。今でもヒリヒリと胸を刺す言葉の群れである。なんだか原発事故の詩のようでもある。
特に「涙が涸れる」の中の「とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」とか、
「小さな群への挨拶」の中の「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」「昨日までかなしかった 昨日までうれしかったひとびとよ」「ぼくはでてゆく 冬の圧力の真むこうへ ひとりつきりでは耐えられないから たくさんのひととてをつなぐというのは嘘だから」「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる 僕がたおれたらひとつの直接性がたおれる」などのフレーズが大好きだった。
その「小さな群への挨拶」のラスト
だから ちいさなやさしい群よ
みんなひとつひとつの貌よ
さようなら
追悼するほど読んでないけれど、重要な存在ではあったので、そういう人は書いておきたいなと思う。ずいぶん長く生きたように思っていたけれど、まだ80代だったのだな。60年安保の時にブントと行動をともにして逮捕までされた。総括として書いた「擬制の終焉」で既成左翼、特に日本共産党を激しく批判し、新左翼の教組的存在となった。「自立の思想」を唱えて、そのころの若者にとってはマルクスやサルトルなみの思想家と思われた。多くの人が「共同幻想論」などをかかえていたが、わかったとは思えない。(吉本をかかえて歩いていた人は本当にたくさん見た。)
高校時代だったと思うけど、何かの全集に入っていた「転向論」を読んで全く歯が立たなかった。大学時代に講談社の「現代の文学」に入っていた「共同幻想論」を読んで、これも少し読んで判らないのでやめた。でもこの時に「転向論」を再読したら、実によくわかった。こういう意味だったのか。「問題意識」がないと何も判らないのである。その後、「共同幻想論」や「言語美」なんかが角川文庫に入ったときがあって、これも買ってあるけど、まあそのままである。同時代的には、81年の「最後の親鸞」まではかなり注目していたけど、82年に「反核異論」を出したのを見て読まなくいいという気になったのである。
「転向論」(1958)というのは、戦前の共産党幹部が共産党批判声明を出して「転向」した問題を扱う。一貫して「転向」せずに「獄中18年」を過ごし戦後釈放された「非転向幹部」もいて、当時は思想や党派は違っても、かれらを「英雄視」していた時代である。しかし、吉本は日本的現実に屈服し「日本主義者」として右翼活動家になってしまった元幹部と、日本的現実に目を閉ざし外国の理論に閉じこもることで「非転向」を貫くことは、思想のあり方としては同じなのだというテーゼを出している。日本的現実に真っ向から立ち向かわずに、屈服するのと断罪するのは同じ思考回路であると。そして、中野重治の「転向」後の小説などに、日本的現実と向かい合う苦悩を読み取り、そこに可能性を評価している。僕は浪人時代に、中野重治の「村の家」を初め、「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」などを読んで大変感動した。そのことがあったので、この中野評価へいたる論理が納得できる思いがした。この論文のロジック、現実と向かい合わずに、全面屈服するのと全面断罪するのは同じだという発想は、その後の僕に大きな影響を与えてきた。基本的には今も大賛成。
でも、そういうことなら、80年代以降の消費社会の全面擁護などが判らない。まあ、ちゃんと読んでもこなかったけど。日本の大衆を全面的に信じる、などということは僕にはとてもできない。日本だろうと、どこだろうと、大衆だろうと知識人だろうと。それと池袋にあった芳林堂でときどき「試行」を見ていたが、あの罵倒の激しさはかなわないなという感じだった。
ところで、でも、僕は昔、詩をよく読んでいて、50年代の詩は素晴らしいと思っている。ととえば…
ぼくが罪を忘れないうちに
僕はかきとめておこう 世界が
毒をのんで苦もんしている季節に
僕が犯した罪のことを ふつうよりも
すこしやさしく きみが
ぼくを非難できるような 言葉で (以下省略)
異数の世界へおりていく
異数の世界へおりていく かれは名残り
おしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと
なお欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかわる時の快感をしらなかったことに (以下省略)
涙が涸れる
きょうから ぼくらは泣かない
きのうまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のようなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す (以下省略)
50年代に書かれた、このような「硬質の叙情」はそれまでの日本の言語表現にはなかった。今でもヒリヒリと胸を刺す言葉の群れである。なんだか原発事故の詩のようでもある。
特に「涙が涸れる」の中の「とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」とか、
「小さな群への挨拶」の中の「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」「昨日までかなしかった 昨日までうれしかったひとびとよ」「ぼくはでてゆく 冬の圧力の真むこうへ ひとりつきりでは耐えられないから たくさんのひととてをつなぐというのは嘘だから」「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる 僕がたおれたらひとつの直接性がたおれる」などのフレーズが大好きだった。
その「小さな群への挨拶」のラスト
だから ちいさなやさしい群よ
みんなひとつひとつの貌よ
さようなら