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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

最高検の「再審対策会議」批判

2012年06月03日 23時27分19秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 3日付朝日新聞、「検事集め再審対策」と言う記事。凄いことが書いてあった。最近、再審を認める決定が相次いでいることを踏まえ、最高検は再審請求審を担当した検事を集めて会議を初めて開くという。「確定した有罪判決が覆れば、検察や警察は批判を受ける。『再審開始が増えて捜査機関への信用が低くなれば、治安維持の点から問題だ』という認識が観察内部にはある。」とある。

 つまり、こういうことだろうか。「自分たちが批判を受けたくないから、『治安維持』をタテマエにして、無実の人もそのまま捕まえておくのだ。死刑囚が無実を訴えても、『治安維持』の観点から再審は認めるべきではないのだ」ということではないか。

 再審に至る事件には、捜査に手落ち、あるいはそれ以上の「証拠偽造」があることが多い。再審請求審で指摘された捜査の間違いを率直に反省して、今後の捜査に生かす、そのための会議だというなら、これは開く意味もあるだろう

 再審開始をどうやって阻止するかを相談する会議では、公益の代表者として発想が逆転している。

 2010年9月に、大阪で任意取り調べを受けた被疑者が暴言を浴びせられたという事件が起こった。事情聴取に際して「殴るぞ、お前」、「お前の人生むちゃくちゃにしたるわ」、「手出さへんと思ったら大間違いやぞ」、「考えてもの言え、こら! お前、警察なめたらあかんぞ、お前!」といった暴言が明るみに出たのは、被疑者がICレコーダーで録音していたからである。(取り調べを担当した警官は脅迫罪で立件された。)小沢一郎政治資金事件でも、秘書だった石川知裕代議士の任意取調べをICレコーダーで録音していた。そうしたら、調書と録音に違いがあったことが判った。これは皆知っているだろう。

 逮捕されたらともかく、任意取り調べだったら自分で録音しておいて身を守らないといけない。これが「捜査機関への信用が低くなる」理由である。つまり、捜査の「可視化」、それなくして捜査機関への信用は高くならない。

 長く再審を訴え、支援運動も広がっている事件は、みなそれだけの理由があるのである。検察が「難くせ」を付けなければ、もっと早く無実を証明できた。そういう事件ばかりである。「治安維持」の観点からは、無実の人が早く無罪になるような社会こそ、国家制度への信用が増すはずである。
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今村昌平の映画を見る③60年代の傑作から80年代の作品へ

2012年06月03日 01時02分12秒 |  〃  (日本の映画監督)
 今村昌平の映画を全部見たら疲れた。(9分11秒の短編を集めた「セプテンバー、11」を除く。)2作目の会社企画「西銀座駅前」を除き、実に面白い作品ばかりだ。(ちなみに、東京メトロが銀座線と丸ノ内線しかなかったときは、丸ノ内線の駅は「西銀座」と言った。日比谷線が両者をつなぐ位置にできた時に、合わせて銀座駅と改称された。)今村昌平はやはり日本映画史で最高の映画監督だと思う。素晴らしい作品ばかりで、一つが傑出している「富士山型」ではなく、山頂が並び立つ「八ヶ岳型」なので、日本映画歴代ベストテンなどを企画すると票が分散してしまう。いずれ小津や溝口に匹敵する映画監督という評価が定着するだろう。

 最高傑作はまぎれもなく「神々の深き欲望」(68)。これは復帰前の沖縄で長期ロケした南島神話みたいな作品で、神話的共同体が製糖資本、観光資本によりいかに変容していくかを、壮大な規模で描き出した作品である。名優、怪優が入り乱れ、登場人物の関係も複雑(性的にも)だけど、壮大な映像の大傑作。続いて、「赤い殺意」(64)が大長編で、「にっぽん昆虫記」(63)とあわせて東北の土俗的な世界から出てきた「女の一代記」みたいな作品。この3作はあまりにも壮大、複雑な世界で、完全に「日本人論」「日本文化論」を展開することになってしまう。だから今は名前を挙げるだけにしておく。
(「赤い殺意」)
 今村昌平の作品は、このように「近代日本に取り残された」土俗的な世界で生きる女たちの性と民間信仰を扱うことが多い。しかし、本人は東京の中産階級の出身で、下北半島出身というホントの土俗世界を知っている川島雄三監督(「幕末太陽傳」など)からは、おまえの世界は頭で作ったもので、伝統社会とはそんなものではない、と言われていたという。実際に地方で生まれた作家は、例えば宮沢賢治や寺山修司を思い出しても、土俗的な世界に解放を求めるよりも、「モダン(近代)への憧れ」が作品を魅力的なものにしている。今村昌平の映画には、そういう「モダンへの憧れ」がほとんどないのが特徴だが、その辺の逆説が興味深い。

 67年の「人間蒸発」は実際に行方不明になった人を婚約者とともに追う設定の記録映画。記録映画となっているが、どこに仕掛けがあるかは判らない。そこがスリリングだし、当時の風景は面白いが、なんだか判らないという感じ。横須賀で米兵相手にバーをしている女性へのロングインタビュー「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」(70)も興味深いけど、やはりよく判らない。吉倉市という架空の地名で、被差別の出身で小さなころからの人生行路とニュース映画への意見が交錯する。面白いけれど「判らない」というのは、これをどう位置付けていいか、どうもしっくりこないのだ。庶民そのものをずっと追って行っても、そんなに面白いものにならないのかもしれない。

 だからドラマの仕掛けがいるのであって、「赤い殺意」で妻が襲われる事件のようなものである。あるいは快作「豚と軍艦」(60)の米軍残飯で養豚するヤクザという設定などもそうである。この映画は実際にたくさんの豚を町に走らせるラストシーンがすごくて、予算オーヴァーらしいけど昔はすごかったなと思う。主演の長門裕之も、丹波哲郎や小沢昭一もみんな若い。後で長い作品ばかりになるけど、108分という時間で描き切った傑作である。米軍とのコネで残飯を入手し、豚を飼うヤクザという設定は、もちろん日本社会そのものの風刺だ。60年安保の年に作られた思想史的意味は大きい。

 60年代の白黒の傑作群を見ると、80年代以後の大作はどうも薄味になった。「ええじゃないか」(81)は150分もあるが、世界が大きすぎて人物が図式的になった。両国橋際の見世物小屋を再現するセットはすごいけど。江戸幕府、薩摩藩、列強、生糸資本などの世界を、米国から戻った漂流民泉谷しげる(上州出身)、今は見世物小屋に出ている昔の妻桃井かおりを中心に多くの人物が動き回る。
(「ええじゃないか」)
 最終的に「ええじゃないか」の大乱舞になり、これぞ庶民の革命的エネルギーの爆発だというような発想なんだろう。しかし、「ええじゃないか」が庶民の革命と言うには無理があるし、幕府が両国橋を渡らせないように弾圧するという設定も無理。「ええじゃないか」踊りは、バスティーユでも血の日曜日でもないでしょ。結局、幕末段階で庶民のエネルギーに革命を幻想するという最初の発想に無理がある。でも、草刈正雄という琉球出身の登場人物を作って、薩摩対琉球をきちんと描いているところなど、やはりさすがである。幕府対薩長だけしか語らない幕末ものを一頭抜いている。

 83年のカンヌ最高賞「楢山節考」、僕はタルコフスキー監督の最高傑作「ノスタルジア」が受賞するべきだったと思うんだけど、それはともかく、共同体の凄絶なルールを生き抜く村人を、動物や虫の視点で描く。ユーモラスな描写も多いし、すぐれた作品だと思うけど、見ていてつらくなるような映画である。深沢七郎の原作自体が、「近代」と無縁なところから出てきた「残酷な童話」のようなところがあった。しかし、映画は俳優の肉体を見続けなければならない。ここまでリアルだと、すごく辛い。村の掟に従って生きるしかない時代なんだけど、救いのようなものを描かないところがすごい。
(「楢山節考」)
 87年の「女衒」(ぜげん)は、逆に悪者が出てこない。女を売り買いするのが「女衒」だから否定的人物のはずだが、快男児すぎる。明治の日本で、故郷で食えない女が海外の娼婦になる。それが日本進出の先兵となり、やがて貿易や日本軍も出ていける。だからお国のために海外進出していると心底信じていた男。だが本当に日本が成長すると、「醜業婦」を海外に送るのは国辱としてお国に切り捨てられる。壮大な勘違い男の一代記である。みんな楽しそうに演じていて、面白い。だけど、映画の中に否定的な契機が描かれていない。否定すべきは主人公の生き方そのもので、そうすると映画自体作る必要はなくなる。困ったねと言う映画。今村の目論見通り、もっと早く「サンダカン八番娼館」が映画化されたころ(74年)に映画になっていたら、だいぶ印象が違ったかなと思う。

 「黒い雨」(89)を作ってカンヌで受賞できなかった後、しばらくまた映画がない。最後の3本は、息子の天願大介が脚本に加わり、軽い味の作品に仕上がっている。「うなぎ」(97)はカンヌ最高賞だけど、軽い感じがしてしまう。最後の「赤い橋の下のぬるい水」(01)とあわせて、役所広治、清水美砂のコンビである。見直してみると、やっぱり面白かった。坂口安吾原作の「カンゾー先生」(98)は、柄本明がずっと走っている。こんな走る映画だったか。戦時中になんでも肝臓炎と診断してしまう地方医者の話で、捕虜虐待、731部隊、原爆、鯨などずいぶん多くのテーマが伏在していたことに改めて驚いた。麻生久美子が素晴らしい。最後の3本の中では、当時から「カンゾー先生」が好きで、それは見直しても変わらなかった。今村監督の作品は、できれば大きな画面で見るべきものだと思う。人間とはなんと奥深く、判らない存在なのだろうという思いが、改めてしている。
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