尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

レイ・ブラッドベリを哀悼する

2012年06月07日 22時00分20秒 | 追悼
 レイ・ブラッドベリが亡くなった。(1920~2012)6月6日のことである。91歳。もう90を過ぎていたんだから、やむを得ないと思うんだけど、悲しい。新作が出るわけではなかったけれど、古い短編が新しく本になったりして最近までよく邦訳も出ていた。僕のもっとも愛する作家と言ってもいいし、読書の楽しみを教えてくれた人の一人である。

 一応ジャンルとしては「SF作家」ということになっていて、「SFの叙情詩人」とよく言われてきた。特に異論があるわけではないし、一代の大傑作と言えば「火星年代記」で、地球人が火星に移住したり、火星人が出てきたりする本なんだから、まあSFという括られ方をするのも当然だろう。でも、この作品を読んでる人は納得してくれるだろうけど、普通の意味での「空想科学小説」の面白さではなくて、人間の哀愁やノスタルジア(郷愁)が心に沁みる幻想小説と言うべき作品だ。特に、ポーを下敷きにした「第二のアッシャー邸」なんか、その滅びの哀愁の深さで忘れられない。

 僕が大人の本を自覚的に読み始めたのは中学1年の夏のことで、突然「自我の目覚め」みたいなものに襲われた。以後、小説を読んでもう一人の別の人生に触れなくては生きられなくなって、現在に至っている。その時最初に読んだ本のタイプは、学校で勧められたタイプ(当時は旺文社文庫なんか学校で紹介された)で芥川とか。続いて、当時文庫本で出ていた日本、世界の小説を買ってみて自分で発見した作家。カミュとか大江健三郎とか。そして、最後が父親の持ってた大量のミステリーとSFである。エドガー・ライス・バローズの火星シリーズ(最近、「ジョン・カーター」として映画化された)なんか熱中して読んだけれど、そんな中で僕に決定的とも言える影響を与えたのが、レイ・ブラッドベリJ・G・バラードだったのである。父親は創元SF文庫を見境なく買っていただけだと思うけど、僕は中学生の時からJ・G・バラードに夢中だったのである。

 ということで、あのいつになっても少年の日のときめくような憧れと悲しみを忘れなかった不思議な世界が僕の心の中に沁みわたっていったのである。特に好きなのが、短編集「10月はたそがれの国」とか長編の「何かが道をやってくる」(いずれも創元文庫)。最近は10月になっても暑かったりするけど、それでも秋風が吹きすさぶ季節になると「10月はたそがれの国」(原題は「The October Country」)という言葉をつぶやいたりする。もちろん「火星年代記」(ハヤカワ文庫)は素晴らしいけど、本が読めなくなった世界を扱う「華氏451度」(紙が燃え上がる音頭だという)は、今読むとそれほどでもないかもしれない。社会批判の反ユートピア小説や映画はたくさんあるので、それを比較すると図抜けた傑作とまでは言えないのではないか。だから、「初めてのブラッドベリ」は、まず短編集から始める方がいいと思う。(「太陽の黄金の林檎」「刺青の男」なんかの初期のものがいいと思う。)(「華氏451度」は、マイケル・ムーアの反ブッシュ映画「華氏911」の題名に引用されて、改めて注目された。トリュフォーがイギリスで映画化したが、その後日本では上映されていない。どこかでやってくれないかな。)

 チェコにカレル・ゼマン(1910~1989)というアニメーション作家がいて、少年の夢、宇宙感覚、恐竜など、共通の趣が感じられると思う。日本の作家で言えば、宮沢賢治とか稲垣足穂なんかに近い部分があるが、ちょっと違うかな。フェリーニの映画にあるサーカスものなんかのムードもちょっと近い。夏の終わりに、避暑地にあった遊園地で、もうガランとした寂しい中を、家と学校を抜け出してきた少年が、見世物小屋に忍び込む。その時の憧れと恐怖、初めて感じた哀愁と垣間見た大人の世界の秘密。なんていう感じが、僕の感じるブラッドベリの世界かな。

 ブラッドベリの書いたミステリがあって、3作シリーズになっている。「死ぬ時はひとりぼっち」という邦題だけど、原題の「Death is a Lonely Business」というのが妙に心惹かれた。昔サンケイ文庫で出た後、近年になって文芸春秋からやけに高い本として出た。「黄泉からの旅人」「さよなら、コンスタンス」の3冊シリーズで、そんなに厚い本でもないのに、合わせると1万円位する。けれど、これは買ってしまったし、大満足だった。やっぱり通常のミステリーではない。それと、吸血鬼ものをまとめて年代記にしてしまった「塵よりよみがえり」(河出文庫)も出来がいいと思う。哀愁系が多いけど、「たんぽぽのお酒」みたいな明るい作風のものもある。僕も昔「たんぽぽ酒」を作ってみたいと挑んだ年があったけど、失敗した。

 あんまり作品が多いので、僕もまだ全部を読んでいない。何冊か楽しみに残してあるとも言えるし、ジョン・ヒューストン監督の「白鯨」(メルヴィル)映画化に脚本家として加わった時の回想なんか、高くて買う気にならない本もある。とにかくブラッドベリを読まない人生は、つまらないと思う。僕に大人の本の世界の、悲しみと幻想を教えてくれた人だった。
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「東電OL殺人事件」、再審開始決定!

2012年06月07日 18時50分04秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 6月7日、東京高裁(刑事4部)で、いわゆる「東電OL殺人事件」の再審請求が認められた。ゴビンダ・プラサド・マイナリさんの「刑の執行停止」の決定もあり、検察が申し立てた執行停止への異議申し立ては退けられた。まさに劇的な展開となった。

 結審したのは5月23日、決定が6月7日に出ることが裁判所から通知されたのは31日。一週間前である。この素早さに、開始決定が出ると思いつつも、棄却ではないかとの恐れも否定できなかった。裁判に関しては、名張事件がそうであったように、裁判所がどのような「ヘリクツ」で棄却するか、安心できるものではない。とにかく、この歴史的な日を目撃したいと東京高裁前に出かけて行った。

 決定書交付は午前10時。10分くらい前には、もう支援会ののぼりが道の両側に立ち並び、マスコミのカメラ台でいっぱいである。ネパールからこの日のために飛んできた妻と2人の娘さんがマスコミの取材を受けている。(再審請求は、公開の法廷で行われるものではないので、公開法廷での判決言い渡しのようなものはない。時間になったら、決定書を請求人や弁護人に渡すだけである。裁判所は門の中にスペースはあるんだけど、中で待つことを認めない。著名事件の判決、決定の時は、いつも裁判所前の道路をふさぐように、マスコミと支援者の集団ができる。裁判所の人が「道をあけてください」と叫んでいるが、敷地の中で待たせるようにすればいいだけではないかと思うけど。)
 
 午前10時を過ぎる。もう決定が通知されたはずである。弁護士が垂れ幕を持って報告に来るはずである。少しすると、支援会の車のスピーカーから、今弁護士が現れました、再審開始です、と報告がある。沿道の支援者から大きな拍手が起きた。
  
 家族のインタビュー、ネパールで待つ母と兄に携帯電話で知らせる。「冤罪仲間」の足利事件の菅家さん、布川事件の桜井さん、杉山さんもかけつけ、あいさつを述べた。
 家族、関係者も含め、垂れ幕の後ろで記念撮影の様子は、よく見えない位置からだけど。

 今回の決定は、「刑事裁判の常識的な原則」を守った決定として評価できる。「常識」「原則」は守るのが当然のもので、本来それだけで評価するというのはおかしい。でも、原則を踏み外し、非常識な推論を重ねて、検察側の主張を無理やりに認めたような裁判はいっぱいあるのが現実である。

 「被害者体内から採取された精液」と「現場にあった体毛」のDNA型が一致した。それはマイナリさんのものではない。その第3者(仮に「X」とする)の犯行であると考えるのが、最も自然である。今回の決定もそう判断している。検察側は「被害者は現場以外でXと性交し、身体に付いた体毛が現場に落ちた可能性がある」と主張して、この新DNA鑑定の証拠価値を否定した。検察側の主張は、リクツとしてはその通りである。だから、この精液と体毛の一致だけを「証拠」としてXが裁かれているのなら、「疑わしきは被告人の利益に」で、Xに無罪判決を言い渡すべきだろう。でも裁かれたのは、Xではなく別人だった。そのマイナリさんも被害者と性交渉があったことは認めている。現場から見つかった、少し前のものと思われる「コンドームに入った精液」から、マイナリさんのDNA型が出ている。現場の鍵はマイナリさんが持っていた(その後返却して、返却の時期をめぐって争いがある)のは事実だから、マイナリさんも全く無関係なのに疑われたわけではない。

 様々な冤罪事件があるが、全く関係がないのに「この地域で悪いやつをたたけ」と軒並み別件で取り調べて自白を強要するというような事件もある。一方、関係者の中で、警察が「思い込み」で容疑者を決めつけ、捜査が後戻りできないまま裁判まで至るというタイプもある。この事件は後者で、マイナリさんも重要参考人であるのは確かだが、「直接証拠」がどこにもない。全然逃げてないし、状況証拠にも有利な点がある。被害者の体内に別人の精液があれば、その別人Xを特定し取り調べるまで、マイナリさんを起訴できないはずだ。そんなあやうい事件だから、一審東京地裁は無罪だったけど、ほとんど審理しないまま、高裁で逆転有罪判決が出た。その段階で、今回の新鑑定があれば、有罪判決は書けなかったはずだ。だから、再審開始は、常識的な判断で、全く当然のことだと思う。

 ところで不思議なのは、どうして「被害者の体内の精液」のDNA鑑定が、事件当時(97年)に実施されなかったのかということだ。量的に少ないという事情もあるらしいが、全く理解できない。被害者は当日2時間前にまた別の知人と性交渉をしており、その別人はアリバイがあるという。その別人の精液と即断して、重きを置かなかったのではという観測もあるらしい。でも、間違ったDNA鑑定があった足利事件は1990年。鑑定しない方が不思議である。今回も、新鑑定が出てから、検察側は今まで出していなかった服装など様々な証拠を開示して、いっぱいDNA鑑定を行った。時間引き伸ばしで、全くアンフェアである。それらの新鑑定からも、全くマイナリさんのDNAは検出されず、かえってXと同型のものもあった。

 この事件については、被害者が不特定多数と性交渉を行うという行動があったことが知られている。生活のために売春するのではないので、「娼婦」と呼ぶわけにはいかない。この「特異な行動」がいろいろ関心を呼んだのは確かで、多くの小説やノンフィクションの材料となった。だから、警察も被害者の行動を丹念に追うことが難しく、「手近」なところに容疑者を求めてしまったと思う。しかし、捜査ミスは明らかだろう。

 一方、この事件名もどうかなと思う。「あの東電OL事件」でネパール人が起訴されたという話で、そのまま事件名になってしまった。支援会(無実のゴビンダさんを支える会)が「東電OL殺人事件」と呼んでいるので、一応今回はそう書いたが、新聞は「東電社員殺害」「東電女性殺害」などと言う書き方もしている。しかし本来勤務会社は関係ないし、「東電社員」という言葉はあるが「東電女性」というのもおかしいだろう。被害者が襲われた場所が事件につく場合もあるけど(帝銀事件、大森勧銀事件、日産サニー事件など)、多いのは地名か被告名だろう。被告名もホントはあんまりよくないと思う。「渋谷円山町事件」というのはどうか。

 一方、マイナリさんは「不法滞在」状態だったので、一審もその点は有罪判決で確定している。(懲役1年で執行猶予つき)。だから釈放されても、すぐに「シャバ」に出られず、入管に収容されて「強制退去」となる。それでは「再審」はどうなるのか、など全く初めてのケースである。そもそも外国人が再審を申し立てるなどと言うことは想定していなかっただろう。さて、請求人不在のまま、検察側は異議申し立てを続けていくのだろうか。
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スマイリー三部作を読む-ジョン・ル・カレを読む①

2012年06月07日 00時32分04秒 | 〃 (外国文学)
 スパイ小説が昔から好きだけど、スパイ小説の最高峰、ジョン・ル・カレをちゃんと読んでいなかった。ハヤカワ文庫で出た文庫本はずっと買ってて、その数20冊位にもなる。昔「寒い国から帰ってきたスパイ」など初期の3冊を読んで、それなりに面白かった。しかし、さすがに「寒い国」は古い感じがしたし、展開が途中で読めた。順番では次が「鏡の国の戦争」と「ドイツの小さな町」になるが、これが厚くて中身も手ごわそうなので中断してしまった。今回、そこから始めて、「ティンカー、テイラー・ソルジャー、スパイ」「スクールボーイ閣下」「スマイリーと仲間たち」のいわゆる「スマイリー三部作」と「リトル・ドラマ―・ガール」まで読んだ。2冊本もあるので、文庫本計9冊になる。いや、大変だった。忘れないうちに、今までの分を書いておきたい。
 (ジョン・ル・カレ)
 今回読んだのは「ティンカー、テイラー・ソルジャー、スパイ」が「裏切りのサーカス」として映画化されたからだ。見る前に読まないと気が済まない。「裏切りのサーカス」については、難しいという意見もあるようだ。世界地理やスパイ小説に知識がない人には、確かにちょっと難しいかも。でも、あの難物の原作をよくここまでまとめあげた、とても出来のいいスパイ映画である。数年前の「ナイロビの蜂」も良かったけど、純粋なスパイ映画としてはこちらの方が成功していると思う。

 原作からは少し改変がなされている。発端となる事件が、チェコからハンガリーへ、また香港からイスタンブールへ変えられている。チェコと香港はかなり本質的な部分だと思うけど、まあ香港ロケができないのだろう。ラストも少し違っていて、なるほどと僕は感心した。日本題名にある「サーカス」は、英国情報局のあるロンドンの地名で、情報局の通称である。英国情報局は小説ではよく「MI6」と出てくる。サマセット・モーム、グレアム・グリーン、イアン・フレミング(007シリーズの原作者)などの有名作家が、実際に所属していたことでも知られている。ジョン・ル・カレもその一人である。でも32歳の時に「寒い国…」が世界的ベストセラーになって作家に専念した。変わった名前だが、もちろんペンネームで、本名はデイヴィッド・ジョン・ムア・コーンウェルという英国人である。

 英国情報機関史上最悪の事件は、言うまでもなく、かの有名な「キム・フィルビー事件」である。MI6長官候補とまで言われた通称キム・フィルビー(ハロルド・エイドリアン・ラッセル・フィルビー)が、実は戦前以来長きにわたってソ連のスパイであったという事実が明るみに出たのが、1963年の1月である。50年代以来何回か疑惑が取りざたされ、本省は一時的に罷免されたが、その後新聞記者としてベイルートに赴任していた。本人はソ連のスパイであることを認めた後、ソ連船で亡命してしまった。ソ連では厚遇され、たびたび勲章をもらい、1980年には最高のレーニン賞を授与され、ソ連崩壊前の1988年に死んでいる。1990年にはソ連で切手にもなっている
 (キム・フィルビーの手紙)
 キム・フィルビーだけでなく、「ケンブリッジ5人組」と呼ばれる二重スパイ集団が存在した。みな知識階級出身で、30年代のナチス躍進と世界恐慌の中で育ち、イギリスの階級社会に絶望してマルクス主義に未来を見た。大学時代にソ連の諜報員にリクルートされたと言われているが、カネや女がらみではなく、ソ連の諜報員になることを名誉なことと考え率先して受け入れた。第二次世界大戦では、41年の独ソ戦以後は英ソは同盟国になったからバレずに活躍できた。冷戦時代にはソ連諜報員の亡命阻止や英米の情報をソ連に伝えるなどの「実害」があったと言われる。

 そういう深刻な「二重スパイ」が現実にイギリスに存在したという有名な事実を知ってないと、本や映画が判らない。金で買われたチンピラ・スパイがいたって「体制の危機」ではないが、知識階級の「幹部候補」が自覚的な二重スパイを何十年も務めていたとなると、これは「イギリス的価値観の崩壊の危機」である。この事件がモデルになって、グレアム・グリーンの「ヒューマン・ファクター」やル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャ-、スパイ」が書かれたわけである。いずれもスパイ小説史上の最高傑作と評価されるような傑作である。(ついでに言うと、逢坂剛のイベリアシリーズというのがあって、敵役的存在としてキム・フィルビーが実名で登場してくる。面白いシリーズ。)

 キム・フィルビー事件がモデルだと知っていても、どう小説化(映画化)されているかはわからない。要するに「誰かが二重スパイであるが、誰かは判らない」というのが、話の前提になる。そこで囲碁や将棋のように(というかチェスですね)、先を読んで一手一手布石を打って行って、スパイを追い込みあぶりだそうという作戦が展開される。標的は4人で「ティンカー」(鋳掛屋)、「テイラー」(仕立て屋)、「ソルジャー」(兵隊)、「プアマン」(貧民)とマザーグースにちなむコードネームが付けられる。知っている可能性があるハンガリーの将軍が亡命したいという情報を得て、情報員をハンガリーに派遣するが、情報が漏れていたのか銃撃され、からくも帰国した事件が数年前。

 これで情報部がガタガタになっている。それから数年、イスタンブールで亡命希望者のソ連人が上層部に黙殺されるというケースが起こった。誰かがスパイで情報を握りつぶしてソ連に流したのではないか、という話。とにかく展開は、目で見るチェス、みたいな知的遊戯の世界で、007やフォーサイスなんかのスパイものとは全く違う。主導するのは、この間情報部を干されていたジョージ・スマイリー。ソ連の「カーラ」という恐るべき宿敵と渡り合う。誰がスパイなのか、そのサスペンスで盛り上げていく手腕は見事である。

 ル・カレの原作は映画以上に大変で、「バナナの皮に滑って転んだ」というような話をするために、バナナ農園の建設から話を始めるみたいな感じの小説である。話が全然進まないし、半分読んでも事件の構図がわからない。そのうちに人物が判らなくなる。どの小説もそんな感じで、スマイリー三部作はまだ展開が早い方だろう。その点、映画は人物のイメージが一致するので、やっぱりわかりやすい。だんだん読み進んで行くと、それまでの布石が生きて来て、なるほどこのような物語であり、人生がここにあったという感慨を持つことになる。スパイ小説の純文学である。大変だけど、大変さを味わってみたい人は、知的な挑戦として読んでみてはどうだろう。欧米では「知識人の読み物」として必須アイテムなんだから。

 「スクールボーイ閣下」は、ベトナム戦争終結時の香港を舞台にした話で、スマイリーも香港に出張してくる。大長編だけど、70年代半ばの時代色が強い。時代に殉じたあるスパイの「純愛」ものと言うべき話。「スマイリーと仲間たち」は、最後の決着編だけど、この展開はどうなんだろうか。人間には皆弱みがあるものではあるけれど、と思わないでもない。それにしても、この3冊、今もハヤカワ文庫で出てるけれども、とにかく手ごわい。でも、特に「ティンカー、…」は大傑作に間違いない。
(2018.11.12 写真を入れ一部改稿。その後読んでないので②はまだない。)
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