「大阪維新の会」は、なぜ「維新の会」と称するのだろうか?
これはホームページを見ても判らない。要するに、「維新」という言葉が「改革イメージの良い語感の言葉」だと使う側が前提にしていて、あらためて「自分たちがなぜ維新の会なのか」を問うことがないのではないかと思う。そこで「維新」という言葉、あるいは政党名の歴史を振り返ってみて、「維新の会」というネーミングの思想性を問題にしてみたいと思う。
今の与党である「民主党」が「なぜ民主党というのか」もわかりにくいが、本来からすると「自由」「民主」「社会」「共産」などという政党名は、もともとは「思想」を表している。自由民主党は、自由主義と民主主義のベストミックスを求めるという意味がある。実際は、1955年に自由党と民主党が合同したんで、党名をくっつけただけといういきさつなんだろうが。社会民主党が西欧流の「社会民主主義」なのかどうか疑問もあるが、とにかく社民党が政治思想から党名を付けているのは間違いない。20世紀から続くシニセ政党の多くは、政治思想を表す党名になっていて、それは「政権についたら、その考え方に基づく社会をめざします」という意味だから、「正しい党名の付け方」だと言えるだろう。
90年代初頭までは、自由民主党と日本社会党(社会民主党の前名)の対立が日本政治の中心だった。自民党を「保守」とし、社会党や民社党(新進党を経て民主党に合流)、公明党、共産党など、中身はずいぶん違うが、とにかく自民以外の党を「革新」と呼んでいた。(民社や公明は「保守でも革新でもない中道」と自分たちを位置付けることが多かったが。)70年代頃から参議院で自民党の低落が始まると「保革伯仲」と呼ばれ、89年の参議院選ではついに「保革逆転」が起こった。しかし、まさにその頃から「革新」という言葉の中身が失われていった。94年に成立した自民、社会、新党さきがけ3党連立の社会党委員長、村山富市内閣で、社会党は自衛隊や原発などそれまで認めていなかった自民党の政策をほとんど無条件に認めてしまったからである。
90年代には「政治改革」が叫ばれ、自民でも社会でもない「新」がもてはやされた。92年の参院選で注目され、93年の総選挙後に政権を担うことになる細川護熙氏の結成した政党は、まさに「日本新党」だった。93年に宮沢内閣不信任案に賛成して自民を離党した小沢、羽田グループは「新生党」を名乗り、武村正義、鳩山由紀夫らは「新党さきがけ」を名乗った。英語にすると何といえばいいのか、単なる「ニュー・パーティ」で、何をしたいのかが政党名を見てもわからない。この「無意味性」が、しかし時代の中で「有意味化」した場合もあったのである。小沢、細川らが村山政権に対抗して合同した政党を「新進党」と名付けたのが、「新党ブーム」の絶頂だったろう。この党は96年総選挙敗北後に内部分裂し解体してしまう。以後も郵政反対派の作った「国民新党」とか、最近も民主を離れたグループは大体「新党なんとか」を名乗る。でも、もう「新党」は「新」ではない。
そんなときに西の方から湧き上がった大きな動きが「維新の会」である。が、なんとネーミングでは一番古い。現在は地域政党(ローカル・パーティ)を自称する政党は、ホームページ上で「志士」(支持者のこと)を求めている。発表する政策を坂本龍馬にちなんで「船中八策」と呼んだりするくらいだから、自分たちを「幕末の志士」イメージで見て欲しいのである。では、「維新」という言葉は近代日本でどのように使われてきただろうか。
「維新」とは元は中国の「詩経」の言葉らしいが、主に幕末以来「改革」の意味で使われてきた。単に「維(こ)れ新たなり」というだけの表現なんだけど。現在は、主に王政復古以後の政治、社会改革をまとめて呼ぶ歴史用語として定着している。日本史の通史シリーズでは、ペリー来航から王政復古までを「幕末」、戊辰戦争から西南戦争あたりまでを「明治維新」という割り振りになっていることが多い。教科書あるいは学習指導要領なんかでは、大体「明治維新と近代国家の形成」などという章名になってることが多い。だから細かいことを言うと、「龍馬は維新を迎えずに死んだ」ということになるかもしれないが、まあ幕末から近代国家へという「神話の時代」を象徴する言葉と言えるだろう。
ところが、これは同時代的には普通の民衆は使わない「官製用語」だったのである。多くの民衆は、将軍の時代が終わり新しい時代が始まったらしいことを「御一新」と呼んでいた。世直しへの期待が込められた言葉である。それを明治政府が上からの近代化を進める過程で「明治維新」という言葉でとらえ直していったのである。社会の激動を「御一新と呼ぶか、維新と呼ぶか」というのは、明治初期を生きる人々にとって大きな意味がある問題だったのである。大学時代に、故前田愛氏(立教大学教授)の講義で「維新か、御一新か」は、「現代を生きるわれわれにとって、昭和20年8月15日を『終戦』と呼ぶか、『敗戦』と呼ぶかと同じような問題意識」という言葉を聞いて、目が覚めるような思いがしたものである。それ以後、近現代日本の歴史を思い浮かべてみれば、「維新という言葉を使う人」は、「体制派」か「右翼」しかいないという思想史的事実に気づいたのである。
明治維新が天皇制国家を作りだし、作られた近代国家が産業革命と対外戦争の中で矛盾を大きくしていく。となると、「もう一回の維新」「真の維新」が常に訴えられた。それを言うのは、いつも右翼である。「大正維新」も「昭和維新」も右翼のスローガンだった。(左翼には「革命」という便利な言葉があったから、日本の伝統が染みついた「維新」を使う必要がなかった。)今でも右翼勢力は「草莽」(そうもう)とか「志士」という言葉が大好きである。だから、付けたときには本人たちはあまり意識してなかったのかもしれないと思うが、「維新の会」というネーミング自体に「上からの右翼的社会再編をめざす」という大方針を僕は感じてしまうのである。(ついでに触れておくと、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が憲法を停止して軍部独裁を強化した時に、その体制を「維新体制」と呼んだことも忘れられない現代史である。)
これはホームページを見ても判らない。要するに、「維新」という言葉が「改革イメージの良い語感の言葉」だと使う側が前提にしていて、あらためて「自分たちがなぜ維新の会なのか」を問うことがないのではないかと思う。そこで「維新」という言葉、あるいは政党名の歴史を振り返ってみて、「維新の会」というネーミングの思想性を問題にしてみたいと思う。
今の与党である「民主党」が「なぜ民主党というのか」もわかりにくいが、本来からすると「自由」「民主」「社会」「共産」などという政党名は、もともとは「思想」を表している。自由民主党は、自由主義と民主主義のベストミックスを求めるという意味がある。実際は、1955年に自由党と民主党が合同したんで、党名をくっつけただけといういきさつなんだろうが。社会民主党が西欧流の「社会民主主義」なのかどうか疑問もあるが、とにかく社民党が政治思想から党名を付けているのは間違いない。20世紀から続くシニセ政党の多くは、政治思想を表す党名になっていて、それは「政権についたら、その考え方に基づく社会をめざします」という意味だから、「正しい党名の付け方」だと言えるだろう。
90年代初頭までは、自由民主党と日本社会党(社会民主党の前名)の対立が日本政治の中心だった。自民党を「保守」とし、社会党や民社党(新進党を経て民主党に合流)、公明党、共産党など、中身はずいぶん違うが、とにかく自民以外の党を「革新」と呼んでいた。(民社や公明は「保守でも革新でもない中道」と自分たちを位置付けることが多かったが。)70年代頃から参議院で自民党の低落が始まると「保革伯仲」と呼ばれ、89年の参議院選ではついに「保革逆転」が起こった。しかし、まさにその頃から「革新」という言葉の中身が失われていった。94年に成立した自民、社会、新党さきがけ3党連立の社会党委員長、村山富市内閣で、社会党は自衛隊や原発などそれまで認めていなかった自民党の政策をほとんど無条件に認めてしまったからである。
90年代には「政治改革」が叫ばれ、自民でも社会でもない「新」がもてはやされた。92年の参院選で注目され、93年の総選挙後に政権を担うことになる細川護熙氏の結成した政党は、まさに「日本新党」だった。93年に宮沢内閣不信任案に賛成して自民を離党した小沢、羽田グループは「新生党」を名乗り、武村正義、鳩山由紀夫らは「新党さきがけ」を名乗った。英語にすると何といえばいいのか、単なる「ニュー・パーティ」で、何をしたいのかが政党名を見てもわからない。この「無意味性」が、しかし時代の中で「有意味化」した場合もあったのである。小沢、細川らが村山政権に対抗して合同した政党を「新進党」と名付けたのが、「新党ブーム」の絶頂だったろう。この党は96年総選挙敗北後に内部分裂し解体してしまう。以後も郵政反対派の作った「国民新党」とか、最近も民主を離れたグループは大体「新党なんとか」を名乗る。でも、もう「新党」は「新」ではない。
そんなときに西の方から湧き上がった大きな動きが「維新の会」である。が、なんとネーミングでは一番古い。現在は地域政党(ローカル・パーティ)を自称する政党は、ホームページ上で「志士」(支持者のこと)を求めている。発表する政策を坂本龍馬にちなんで「船中八策」と呼んだりするくらいだから、自分たちを「幕末の志士」イメージで見て欲しいのである。では、「維新」という言葉は近代日本でどのように使われてきただろうか。
「維新」とは元は中国の「詩経」の言葉らしいが、主に幕末以来「改革」の意味で使われてきた。単に「維(こ)れ新たなり」というだけの表現なんだけど。現在は、主に王政復古以後の政治、社会改革をまとめて呼ぶ歴史用語として定着している。日本史の通史シリーズでは、ペリー来航から王政復古までを「幕末」、戊辰戦争から西南戦争あたりまでを「明治維新」という割り振りになっていることが多い。教科書あるいは学習指導要領なんかでは、大体「明治維新と近代国家の形成」などという章名になってることが多い。だから細かいことを言うと、「龍馬は維新を迎えずに死んだ」ということになるかもしれないが、まあ幕末から近代国家へという「神話の時代」を象徴する言葉と言えるだろう。
ところが、これは同時代的には普通の民衆は使わない「官製用語」だったのである。多くの民衆は、将軍の時代が終わり新しい時代が始まったらしいことを「御一新」と呼んでいた。世直しへの期待が込められた言葉である。それを明治政府が上からの近代化を進める過程で「明治維新」という言葉でとらえ直していったのである。社会の激動を「御一新と呼ぶか、維新と呼ぶか」というのは、明治初期を生きる人々にとって大きな意味がある問題だったのである。大学時代に、故前田愛氏(立教大学教授)の講義で「維新か、御一新か」は、「現代を生きるわれわれにとって、昭和20年8月15日を『終戦』と呼ぶか、『敗戦』と呼ぶかと同じような問題意識」という言葉を聞いて、目が覚めるような思いがしたものである。それ以後、近現代日本の歴史を思い浮かべてみれば、「維新という言葉を使う人」は、「体制派」か「右翼」しかいないという思想史的事実に気づいたのである。
明治維新が天皇制国家を作りだし、作られた近代国家が産業革命と対外戦争の中で矛盾を大きくしていく。となると、「もう一回の維新」「真の維新」が常に訴えられた。それを言うのは、いつも右翼である。「大正維新」も「昭和維新」も右翼のスローガンだった。(左翼には「革命」という便利な言葉があったから、日本の伝統が染みついた「維新」を使う必要がなかった。)今でも右翼勢力は「草莽」(そうもう)とか「志士」という言葉が大好きである。だから、付けたときには本人たちはあまり意識してなかったのかもしれないと思うが、「維新の会」というネーミング自体に「上からの右翼的社会再編をめざす」という大方針を僕は感じてしまうのである。(ついでに触れておくと、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が憲法を停止して軍部独裁を強化した時に、その体制を「維新体制」と呼んだことも忘れられない現代史である。)