さて、この問題も最後。なんで日本で「中選挙区」という制度ができたのかという歴史である。日本の最初の選挙は、1890年、明治23年。それは制限選挙(25歳以上の男性で、かつ直接国税を15円以上納めているもの)だったけど、とにかく欧米以外で最初に行われた国政選挙だった。その時は、基本は小選挙区だけど、有権者の多い農村部で2人を選ぶ選挙区(2名連記)だった。有権者は裕福な地主が多い農村部の方が多かった時代である。軍人なども選挙権はなく、人口の1.1%しか投票できなかった。(また北海道と沖縄では選挙がなかった。)何で小選挙区が中心だったかと言っても、政党政治以前だから比例代表にはできない。政府に少し物申せる人民の代表を選ぶための仕組みだから、個人を選ぶという意識だろう。欧米にならって小選挙区を基本としたんだと思う。
その後20世紀になると、大選挙区を基本に一部で小選挙区となる。それがしばらく続いて、原敬内閣の時代に完全な小選挙区となり2回行われた。ここまでが制限選挙。それが、1928年の第1回普通選挙の時から、いわゆる「中選挙区」になる。普通選挙(財産制限のない選挙)を求めた第2次護憲運動は、いわゆる「護憲3派」が主導した。憲政会(後の立憲民政党)、立憲政友会、革新倶楽部である。これらの各党が協力するために、小選挙区をやめてお互いが当選しやすい「中選挙区」を作ったと言われている。その後、政友会対民政党の、戦前の短い「二大政党制」時代があったわけである。だから、中選挙区というのは初めから妥協というか、政治家同士がお互いに落ちないように工夫した選挙だったのである。
戦後になるとまた変わる。戦後第1回の1946年の選挙は、都道府県ごとの大選挙区だった。(東京、大阪など6都道府県は2つに分けた。)この時は2人、または3人に投票できる「連記投票」が採用されていて、初めて立候補できるようになった女性が39人も当選した理由である。一つの県で10人以上を、一人で2~3人に投票して選ぶという実に不思議な制度で、3人も名が書けるんだったら一人くらい女にするかというような人が多かったということだろう。それが新憲法が制定された1947年の総選挙からまた「中選挙区」に戻ってしまう。何で変えたのかよく判らないが、46年が不思議過ぎて、長年慣れた仕組みに戻したということではないか。それがしばらく続き、93年の「政治改革」で「小選挙区比例代表並立制」となり、1996年以来6回行われている。
こういう風に、選挙制度もずいぶん変遷があるものなのだが、日本で一度も変わっていない点がある。それは「候補者名を有権者が書く」(自書式)という点である。世界的にはこっちの方が不思議で、日本では地方選挙の一部で「機械投票」が試行されたこともあるが定着しなかった。投票用紙や開票システムの改善が進んで、午後8時まで投票していても12時頃までには大勢が判明するようになったことも自書式が変わらない理由だろう。明治の初めから、有権者が字を書けるのは選挙の前提で、国内に多民族がいて公用語が通じないとか、字が読めない有権者が多いのでシンボルカラーでを選ぶとか、そういう必要はない。でも、同姓の候補は多いし(特に地方選挙の大選挙区の場合)、候補に○をするという生徒会選挙なんかでよくある方法も悪くないと思う。(愛媛県第3区は、09年に民主党白石洋一が当選し、自民党白石徹が落選した。12年には逆に白石徹が当選し、白石洋一が落選した。2回続けて白石対決である。○をした方が判りやすい。)ただし実際に○方式を採用すれば、最初に書いてある人に○をするとか、×を書いた人はどうするかとか、いろいろなケースも出てくるだろう。
だから、候補の名前を有権者が書ける制度でないと選挙した気分にならないのではないか。衆参すべて政党名しか書けないという制度は、とても国民の支持がないと思う。もちろん完全な比例代表にすれば、一票の平等問題は解決するし、実質的な「首相公選制」になるはずである。でも、そのことのメリットがどれだけあるとしても、多分地元の先生の名前を書けなくなるというのでは国民の支持が得られないと思う。だから中選挙区制度へのノスタルジーがなくならない。しかし、そういうことを主張する人の多くの中には、意識するとぜざると、「党利党略」があるのではないか。かつて公明党が「定数3の中選挙区150を作る」という案を主張したことがある。これなら都市部で、自民、民主の次に3人目で公明が当選できる。他は自民か民主が2人当選するが、公明がキャスティングボードを握れる一方、共産党以下は当選できないという「スグレモノ」の発想である。もちろん公明党にとって。
一見判りやすいように見えて、この制度は党利党略としか思えない。定数2の選挙区を200作れば定数削減になるし、同じ450議席でも、定数5の選挙区を90作ってもいいではないか。その場合は島根と鳥取など合県するところが出るだろうが。もちろん定数4の選挙区を100程度作ってもいいだろう。つまり選挙区の定数には理由がないのである。一票の平等を考え、つじつま合わせで数字をいじるだけである。今やっている都議選でも、東京の真ん中にある千代田区と中央区は定数が1人になっている。ずっと自民党の重鎮が当選を続けたが、前回両方とも民主党が当選した。(今回は千代田の民主議員は維新に移って他区で立候補している。)では都議選では基礎自治体ごとに選ぶのかと言えば、多摩地区なんかでは市が2つか3つ集まって一つの選挙区になってるところもある。多摩市と稲城市で構成する南多摩選挙区は、前回当選した民主と自民の議員が今回も出ている。もし、千代田区と中央区を合区して定数2の選挙区にすれば、前回も民主と自民が分け合っただろう。
何が言いたいかというと、比例にするか、全部小選挙区にするかでないと、リクツが立たないのである。あるところでは定数が3人、あるところでは4人さらに5人、などという制度は、その地区の有権者にとって理由が判らない。党利党略を離れて、論理で考えてみれば誰でも判ることである。その上で個人の名前を書くという日本の歴史に根付いている制度を生かすにはどうすればいいのか。これはまたいずれ書きたいと思う。比例代表にすればいいという話でもない。ベターな改善はあっても、選挙にベストはない。
その後20世紀になると、大選挙区を基本に一部で小選挙区となる。それがしばらく続いて、原敬内閣の時代に完全な小選挙区となり2回行われた。ここまでが制限選挙。それが、1928年の第1回普通選挙の時から、いわゆる「中選挙区」になる。普通選挙(財産制限のない選挙)を求めた第2次護憲運動は、いわゆる「護憲3派」が主導した。憲政会(後の立憲民政党)、立憲政友会、革新倶楽部である。これらの各党が協力するために、小選挙区をやめてお互いが当選しやすい「中選挙区」を作ったと言われている。その後、政友会対民政党の、戦前の短い「二大政党制」時代があったわけである。だから、中選挙区というのは初めから妥協というか、政治家同士がお互いに落ちないように工夫した選挙だったのである。
戦後になるとまた変わる。戦後第1回の1946年の選挙は、都道府県ごとの大選挙区だった。(東京、大阪など6都道府県は2つに分けた。)この時は2人、または3人に投票できる「連記投票」が採用されていて、初めて立候補できるようになった女性が39人も当選した理由である。一つの県で10人以上を、一人で2~3人に投票して選ぶという実に不思議な制度で、3人も名が書けるんだったら一人くらい女にするかというような人が多かったということだろう。それが新憲法が制定された1947年の総選挙からまた「中選挙区」に戻ってしまう。何で変えたのかよく判らないが、46年が不思議過ぎて、長年慣れた仕組みに戻したということではないか。それがしばらく続き、93年の「政治改革」で「小選挙区比例代表並立制」となり、1996年以来6回行われている。
こういう風に、選挙制度もずいぶん変遷があるものなのだが、日本で一度も変わっていない点がある。それは「候補者名を有権者が書く」(自書式)という点である。世界的にはこっちの方が不思議で、日本では地方選挙の一部で「機械投票」が試行されたこともあるが定着しなかった。投票用紙や開票システムの改善が進んで、午後8時まで投票していても12時頃までには大勢が判明するようになったことも自書式が変わらない理由だろう。明治の初めから、有権者が字を書けるのは選挙の前提で、国内に多民族がいて公用語が通じないとか、字が読めない有権者が多いのでシンボルカラーでを選ぶとか、そういう必要はない。でも、同姓の候補は多いし(特に地方選挙の大選挙区の場合)、候補に○をするという生徒会選挙なんかでよくある方法も悪くないと思う。(愛媛県第3区は、09年に民主党白石洋一が当選し、自民党白石徹が落選した。12年には逆に白石徹が当選し、白石洋一が落選した。2回続けて白石対決である。○をした方が判りやすい。)ただし実際に○方式を採用すれば、最初に書いてある人に○をするとか、×を書いた人はどうするかとか、いろいろなケースも出てくるだろう。
だから、候補の名前を有権者が書ける制度でないと選挙した気分にならないのではないか。衆参すべて政党名しか書けないという制度は、とても国民の支持がないと思う。もちろん完全な比例代表にすれば、一票の平等問題は解決するし、実質的な「首相公選制」になるはずである。でも、そのことのメリットがどれだけあるとしても、多分地元の先生の名前を書けなくなるというのでは国民の支持が得られないと思う。だから中選挙区制度へのノスタルジーがなくならない。しかし、そういうことを主張する人の多くの中には、意識するとぜざると、「党利党略」があるのではないか。かつて公明党が「定数3の中選挙区150を作る」という案を主張したことがある。これなら都市部で、自民、民主の次に3人目で公明が当選できる。他は自民か民主が2人当選するが、公明がキャスティングボードを握れる一方、共産党以下は当選できないという「スグレモノ」の発想である。もちろん公明党にとって。
一見判りやすいように見えて、この制度は党利党略としか思えない。定数2の選挙区を200作れば定数削減になるし、同じ450議席でも、定数5の選挙区を90作ってもいいではないか。その場合は島根と鳥取など合県するところが出るだろうが。もちろん定数4の選挙区を100程度作ってもいいだろう。つまり選挙区の定数には理由がないのである。一票の平等を考え、つじつま合わせで数字をいじるだけである。今やっている都議選でも、東京の真ん中にある千代田区と中央区は定数が1人になっている。ずっと自民党の重鎮が当選を続けたが、前回両方とも民主党が当選した。(今回は千代田の民主議員は維新に移って他区で立候補している。)では都議選では基礎自治体ごとに選ぶのかと言えば、多摩地区なんかでは市が2つか3つ集まって一つの選挙区になってるところもある。多摩市と稲城市で構成する南多摩選挙区は、前回当選した民主と自民の議員が今回も出ている。もし、千代田区と中央区を合区して定数2の選挙区にすれば、前回も民主と自民が分け合っただろう。
何が言いたいかというと、比例にするか、全部小選挙区にするかでないと、リクツが立たないのである。あるところでは定数が3人、あるところでは4人さらに5人、などという制度は、その地区の有権者にとって理由が判らない。党利党略を離れて、論理で考えてみれば誰でも判ることである。その上で個人の名前を書くという日本の歴史に根付いている制度を生かすにはどうすればいいのか。これはまたいずれ書きたいと思う。比例代表にすればいいという話でもない。ベターな改善はあっても、選挙にベストはない。