尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

谺雄二さんも亡くなったとは

2014年05月11日 23時18分09秒 |  〃 (ハンセン病)
 昨日、神美知宏(こう・みちひろ)さんの追悼を書いたばかりだというのに、今日ふたたび谺雄二(こだま・ゆうじ)さん(1932~2014)の追悼を書かないといけないとは。ちょうどハンセン病市民学会が草津で開かれている中で、草津の栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)にいた谺さんが亡くなるとは。5月11日死去。82歳。

 谺さんこそ、本来はハンセン病市民学会共同代表として、開会式の主催者挨拶を行うべき人だった。もっとも近年は体調が悪い時が多く、長く闘病中だったし、時々出てくることができても車いす姿からの挨拶だった。だから、ハンセン病関係者の多くの人にとっても、神さんの急逝ほど驚かされたわけではないだろう。ただ、谺さんが呼びかけの中心にいた「重監房の復元」がなり、長年の宿願が果された後で、まさに草津で開かれた市民学会のさなかだったということに、不思議な運命を感じざるを得ない。

 谺さんは、元々は「詩人」と紹介される人だったけれど、今回の訃報を報じるサイトは、ほぼ「ハンセン病原告団協議会長」として紹介されている。1996年に「らい予防法」が廃止され、1998年7月に、熊本地裁に九州地方の原告を中心に「ハンセン病国賠訴訟」が提訴された。この訴訟が、2001年5月に画期的な違憲判決が出て当時の小泉首相が控訴を断念することになる裁判である。しかし、ハンセン病国賠訴訟は、他にも東京地裁と岡山地裁にも提訴された。三つの訴訟が一体となり、ハンセン病元患者の人々に燎原の火のように広がって行った。その中で、当然僕は東京地裁の東日本訴訟しか傍聴したことはない。

 谺さんは、その東京地裁の裁判の原告団の団長を当初から務めていた。熊本地裁提訴時の声明をネットで読むことができる。長くなるので途中を省略することにする。
 「らい予防法」違憲国賠訴訟提訴にあたっての原告団声明
                               東日本原告代表 谺 雄二
本日午後4時、熊本地方裁判書に「らい予防法」国家賠償訴訟を提起しました。(略)
国家権力による残虐行為を不問にしたままでいいものでしょうか。子もなく孫もいない私たち入所者の孤独と無念の思いを、国はどうして癒してくれるというのでしょうか。その他解明しなければならない未解決の問題をたくさん残しております。
私たちは、裁判によって国のハンセン病対策の歴史と責任を明らかにして、
1.ハンセン病問題の真相究明
2.患者・回復者の原状回復
3.同種問題の再発防止
を図って行きたいと思っています。そのことが成就した時全国15の国、私立の納骨堂に眠る先輩たちの無念を癒す鎮魂の供養にしたいと考えています。そして、本日の提訴にあたり、私たちは全国の僚友の方々が是非私たちと共に裁判に立ち上がってくれることを心から願っています。(略)私達は、各療養所の入所者や今までに社会復帰していった多くの人々、私たちに繋がる家族の皆さんと手をたずさえ、人間の尊厳のため最後まで頑張り抜きたいと思います。(略)
                   1998年7月31日「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟原告団

 谺さんの名前で出されているが、この種の文書の常として、原告の人々や弁護団の意見を聞きながらまとめられたものだろう。それでは谺さん自身の表現としては、どんなものがあるだろうか。ごく最近、みすず書房から「死ぬふりだけでやめとけや」と題する谺雄二詩文集が出版された。出版社のサイトには、「群馬・ハンセン病療養所栗生楽泉園に暮す81歳の「草津のサルトル」こと谺雄二。「ライは長い旅だから」などの名詩で知られる詩人にして、ハンセン病違憲国賠訴訟の理論的支柱であり、療養所を「人権のふるさと」に変えて差別なき社会を創り出すことを志す闘士である。本書は、彼の生涯にわたる詩・評論・エッセイ・社会的発言・編者による聞き書きを収める。」と紹介されている。出たばかりだし、高い本なので僕はまだこの本を見ていない。

 僕が読んだのは、1987年に児童書として出版された「忘れられた命の詩-ハンセン病を生きて」(ポプラ社)と言う本である。らい予防法廃止後の1997年に再刊されて、僕が持ってるのはその本。今はもう品切れで古書しか入手できないようだけど。その前に、1981年に出された「ライは長い旅だから」という超根在の写真と谺さんの詩を合わせた本がある。僕が最初に谺さんの名前を知ったのは、その本である。だから谺さんと言えば、草津の療養所にいる人、というイメージが強い。でも「忘れられた命の詩」を読むと、草津の前に東京の多磨全生園にいたということが判る。

 谺さんは1932年、東京に生まれたが、1939年にわずか7歳で発病して多磨全生園に入園した。だから、一番大変だった戦時下の療養所を少年として過ごしたのである。1945年には母が全生園で死去、1948年には兄も全生園で死去。このような過酷な少年期を送り、ついには全生園から他の療養所に転園することを決意する。一時は静岡県の駿河療養所に決まるが、いろいろあって草津に移ることになったのである。その全生園からの旅立ちまでが、先の本に書かれている。肉親の死、思春期の悩み、文学や思想への目覚めなどがつづられ、心を揺さぶる。草津の楽泉園は山の中、多摩の森にある全生園とは環境が全く違う。冬は厳しい寒さとなり、「特別病室」という名の「重監房」が作られ、多くの患者が死亡した場所だった。

 谺さんはハンセン病の人権運動を代表する人の一人だった。入所者の高齢化が進んでいるのは、もう判り切っていることだが、昨年来、詩人の塔和子さん、詩人の桜井哲夫さん、俳人の村越化石さん、そして神美知宏さん、谺雄二さんと相次いで亡くなった。日本のハンセン病の苦難の歴史を語れる人も数少なくなってきた。でも、私たちは忘れずに語り継いで行かないといけない。
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