尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「集団的自衛権」問題②

2014年05月19日 23時01分15秒 | 政治
 世界の多くの国で、「国民の分断」が進んでいる。ウクライナの東西の分裂、タイのタクシン政権評価をめぐる果てしない政争、ベルギーのオランダ語圏とフランス語圏の対立、アメリカ合衆国の民主党支持者と共和党支持者の分断、ナイジェリアを中心にしてサハラ南部地域一帯におけるイスラームとキリスト教の抗争…。アフリカの諸国家は、まあ近代的な国民国家ではないともいえるが、こうしてみると民族を中心にした国民国家という概念が揺らいでいるのではないか。

 日本の「集団的自衛権」をめぐる問題も、第二次世界大戦後の国家のあり方をめぐるイメージが完全に分断されていることの現れではないかと思っている。安倍首相は、記者会見で「こうした検討については、日本が再び戦争をする国になるといった誤解があります。しかし、そんなことは断じてあり得ない。日本国憲法が掲げる平和主義は、これからも守り抜いていきます。このことは明確に申し上げておきたいと思います。」と述べている。しかし、「限定的」であれ、いったん集団的自衛権を容認してしまえば、いずれ何らかの「国際情勢の変化」が起これば、この限定が取り外され、日本が外国の戦争に参加する事態になるのではないか、と心配する声も強い。

 同じ記者会見で安倍首相は「内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。」と言っている。このような言い回しをするならば、「国民の命を守る」と言う名目さえ立てば、日本国憲法は何でも許容していると解釈出来てしまうのではないか。そんなに日本の首相を信用できないのか、と言われればその通り。戦後の自民党政権の防衛政策史を見てみれば、信用しろという方が無理である。

 そもそも憲法9条を素直に読めば、「自衛隊」や「日米安全保障条約」は憲法違反ではないのか、と思う方が自然ではないか。確かに「砂川事件判決」で、日本国が自衛権を持つという判断が最高裁でなされている。しかし、自衛隊や日米安保条約などは「統治行為論」で憲法判断を避けてきたから、最高裁で明確な合憲判断は出ていない。しかし、長い時間が経過してしまい、今さら大声で「自衛隊違憲論」を主張する向きも最近は少ないようである。政府の憲法解釈は、占領期には吉田首相も個別的自衛権も否定する考えを取っていた。その後、朝鮮戦争の開始により占領軍のマッカーサー最高司令官の指令により、警察予備隊が創設された(1950年)。これが戦後の再軍備の始まりであり、後に保安隊(1952)となり、さらに自衛隊(1954)となった。当初は自衛隊違憲論が強かったため、「専守防衛」「個別的自衛権」を強調してきたわけである。

 その後、「国際情勢の変化」(1991年の湾岸戦争、90年代半ばの朝鮮半島危機、2001年の「9・11米国同時多発テロ」、2003年のイラク戦争、近年の中国軍増強等)を受けた形で、自衛隊の任務は果てしなく拡大し続けてきた。防衛政策、自衛隊に関する主要な法律を見ると、次のようになる。
 
1992 PKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)成立
1999 周辺事態法日米ガイドライン法成立
2001 テロ対策特別措置法成立(米国によるアフガニスタン攻撃に協力し、ペルシャ湾で給油等の後方支援を行う)
2003 武力攻撃事態対処関連3法(有事法制)成立
    イラク復興支援特別措置法成立
2006 防衛庁が防衛省に昇格、改正自衛隊法成立(海外派遣が本務となる)
2008 新テロ対策特別措置法成立(2001年法の期限が来たため、2010年まで延長)
2009 海賊処罰対処法成立
2013 国家安全保障会議(日本版NSC)設置法成立

 仮に自衛隊そのものは合憲だと判断するとしても、これらの政策のすべてが認められるのだろうか。僕には、いくら何でも「イラク特措法」に関しては、憲法違反であるとしか思えないのだが。(実際、名古屋高裁で違憲判断が出ている。)テロ対策特措法、イラク特措法はすでに法律の有効期限が終わって失効している。だから今さら合憲、違憲論を交わす政治的意味はないのだが、少なくともイラク特措法は「米軍支援」のため「限りなく戦地」に展開するわけだから、「集団的自衛権の行使」ではないのか。逆に言えば、憲法の枠内でイラク特措法まで可能なんだったら、今回問題になっているような事例のほとんどは、「集団的自衛権」の概念を持ち出さなくても「個別的自衛権の拡大」で認めうるのではないか。「国民の命を守る」ことができるんだったら、集団的自衛権なんか持ち出さなくてもいいのではないか。(今言ったのは、憲法解釈上の問題で、政策が支持できるかどうかの問題はまた別なので、念のため。)

 今、「集団的自衛権」をめぐる議論をするときに、近年の防衛政策の経過を見てくれば、「少しづつ認めさせてきて、だんだん何でもありになる(する)」と言う方向性を感じざるを得ない。だからこそ、これは「最初の容認」であって、だんだん「もっと広い容認」につながるだろうと感じるわけである。もっともそれは、「武力による国際紛争の解決」は避けなければならないという考えに立つ場合の話である。安倍首相などの目には逆に見えているはずである。

 湾岸戦争のように国連安保理の決議があった場合でも、日本は武力行使に加わることができなかった。これは「国家として不完全」であり、戦争に負けた国として作られた憲法が現状に合っていないのだ。だから、日本は今も不完全な国家であり、このような「屈辱的事態」を早く正さなければならない。これが安倍首相などの考え方なんだろうと思う。安保法制懇の報告書では、2回にわたって「集団的自衛権は権利であって、義務ではない」という言葉が出てくる。権利だから、行使するかどうかは、「総合的に判断して」「主体的に決める」と強調されている。

 しかし、これは現実には疑問だろう。前からずっと「集団的自衛権」容認という憲法解釈を取っていたならば、ベトナム戦争やイラク戦争に参加して戦死者が出ていたのは確実だと思う。「日米安保の重要性から、アメリカの派兵要請に応じないわけにはいかない」などと米国の提灯持ちをする輩がいっぱい出てくるのは目に見えているではないか。米国の間違った戦争に加担せず、戦後に戦死者を出さなかったという歴史を誇るべき過去だと考えるかどうか。それとも、「価値感を共有する」米国とともに戦うことで初めて「国家としての誇り」を取り戻せると考えるか。戦後の見方に関して、日本国内を分断するというのが、集団的自衛権をめぐる議論なのである。
コメント
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